さる7月11日、恵比寿の日仏会館にて講演シンポジウム「ル・コルビュジエの浮かぶ建築」が開かれました。世界救世軍の依頼でル・コルビュジエが設計した難民収容船アジール・フロッタン(直訳すると、「浮かぶ避難所」)。パリ市内の女性難民の収容を目的に1929年に完成、難民たちの居住施設となっていましたが、老朽化が進み、長らくセーヌ川左岸に係留されたままになっていました。2005年より有志による補修が行われ、今年、新たな“船出”となるはずだったこの船は、2月に起きたセーヌ川の氾濫で、川底に沈みました。引き揚げを経て、新たな局面を迎えたこのプロジェクトについて、再設計の担当者である遠藤秀平神戸大学大学院教授と、桟橋の製作を手掛けた株式会社アロイ西田光作社長、建築家でもあるマニュエル・タルディッツ明治大学特任教授の3名をお招きし、アジール・フロッタンを巡る興味深いエピソードや、プロジェクトの経緯と展望についてお話を伺いました。
エコール・ド・パリの時代、人々の思いを繋いだ「浮かぶ避難所」が現代に甦る
「現在世界を水の話題が席捲しています」司会の瀬藤澄彦氏がそんなふうに切り出した今回のシンポジウム。確かに、タイの洞窟遭難や西日本の豪雨災害にまつわるニュースが世界を駆け巡った折も折り、セーヌ川氾濫の受難を被ったアジール・フロッタンのシンポジウムが開かれるのは奇遇という他ありません。まずは、2004年からアジール・フロッタンの修復プロジェクトに関わる遠藤教授による講演が行われました。元々アジール・フロッタンは、セーヌ川の石炭を運ぶ船だったといいます。第一次大戦の頃ドイツから石炭が入らなくなり、イギリスから石炭を入れようということになった際、戦時中で鉄が使えずコンクリートの平底船が導入されました。これらは大戦後、廃棄船となってセーヌ川に放置されることになります。そうした船を主に女性難民の救済のために活用しようというアイディアを出したのは、マドレーヌ・ジルハルドという女性でした。そして、船の改装資金が、彼女の同性パートナーであったルイーズ・カトリーヌの遺産であったこともあり、当初ルイーズ・カトリーヌ号と名付けられたのです。ちなみに、今一人の資金提供者は、シンガーミシンの創業者として知られるアイザック・シンガーの娘であり、芸術家のパトロンとして知られたウィンナレッタ・シンガー=ポリニャックでした。彼女は、自身の主宰するサロンの常連であるコルビジェをデザイナーとして指名したのです。船の改装が始まった1929年は、コルビジェの代表作であるサヴォア邸の工事が始まったのと同時期で(ちなみに、この時期のパリには、コルビジェの愛弟子である前川圀男も暮らしていました)、サヴォア邸同様、アジール・フロッタンにも、コルビジェが提唱した近代の建築における5つの理念(屋上庭園、ピロティ、水平連続窓、自由な立面、自由な平面)が濃厚に反映されているといいます。内部は、いかに沢山の人を収容するかを考えて設計されているといい、そんな徹底した機能性にも、コルビジェの刻印を感じさせます。このアジール・フロッタンには、普段作品に自身の署名を残さないコルビジェの署名が残されていたことでも知られており、それを、愛弟子の前川國男が書いたとも伝えられています。署名そのものは間もなく消えてしまったそうですが、その署名の写真を、遠藤教授はスライドで見せてくれました。
さて、こうして1960年頃までセーヌ川を季節によって移動しながら、また1995年頃まではルーブル美術館付近に係留されて、難民たちに寝所や温かいスープを提供していたアジール・フロッタンですが、老朽化による浸水の恐れがあるとして、パリ市より廃船または撤去の要請が救世軍に出されることになります。これを防ぐため、有志が救世軍より購入、修復を始めたのが、今回のプロジェクトの始まりでした。修復後のアジール・フロッタンは、展覧会など文化活動の拠点として新たな生命を得ることになります。工事中の船体を覆うために必要なシェルターそのものも、発信力のあるものにしたいというのが5人の有志の間における共通の希望であり、遠藤さんは、らせん状の帯が船を巻いた大胆なデザインを提案。こうして、リーマン・ブラザーズ・ショックによる中断を挟み、長い年月をかけての修復がようやく終わろうとしていた矢先の洪水でした。リノベーションがスタートした当時5人いた有志のうち2人は既に故人となり、残る3人が現在手を尽くして引き揚げ計画を進めているといいますが、作業自体は、さほど大変ではないとみられているようです。水中の杭にぶつかって穴が開いた部分さえ塞げば再び浮かび上がるという話ですから、不幸中の幸いという他ありません。