【レポート】第19回パリクラブ輝く会講演「孫だから語れる渋沢栄一の秘話」

新渡戸稲造との不思議な出会い

鮫島純子さん

「今思い返せば――」と、鮫島さんは言います。『渋沢栄一の恩寵に包まれている』と彼女は折に触れ感じたといいます。例えば、小学校低学年の頃のこと。父親と名古屋へ向かう途中、当時ガラガラに空いていたは二等車の中で、笑顔がきっかけで上品な老人と言葉を交わすことになりました。老人は、「御家族と一緒に楽しい旅ができるということは、なんとお幸せなことでしょうね」と言い、鮫島さんの指を取って、誰のお陰で旅に出られたのか数えるよう促したといいます。

「父親、留守居の人々、この汽車の運転手さんと次々と挙げ、それも尽きた頃、その御老人は、『お天道様や空気や雨もなくてはなりませんね。それはどなたがくださったのでしょう?』と言われ、大いなる神の恵みの中で、自分たちが生かして頂いていることを話してくれたのでした」

この老人は、間もなく下車駅を知らせに来た父の高校時代の校長、新渡戸稲造博士だとわかりました。祖父・渋沢とは共に日米交流のために尽くした方であり、父は懐かしそうにご挨拶していました。
「新渡戸博士の言葉によって、そのとき『大いなる存在』が心に灼き付きました」
と話す鮫島さんでした。

今なお導いてくれる祖父・渋沢栄一

祖父である渋沢の恩寵の光に包まれて育った鮫島さんの生活は、第二次大戦で一変します。戦火で家を焼かれ、自らも夫の転勤先の名古屋で大震災や空襲で九死に一生を得た鮫島さん。戦後、経済的な事情から子息3人を私立校でなく、区立の学校で学ばせることになった彼女が次に直面したのは、一庶民としての、これまで想像しなかった環境でした。

「知らないうちに上から目線になっていたり、同じようなお子さんに競争心を抱いたりしている自分に気付いて、福沢諭吉先生が『天は人の上に人を造らず』と言われた言葉を噛みしめました」

近所のキリスト教会に通い教えを求めた末、もっと深く知りたいと宗教家・五井昌久氏(※)の思想と出会い、目を開かされます。そして、「善いことも悪いことも幸せも不幸せも、すべては『学ぶ必要のある自分の応用問題』であり、魂のレベルアップのための機会を与えて頂いているのだと感謝することがカギ」との考えが身についたそうです。

先の戦争で打ち砕かれた価値観も、「宗教が異なっても目指す理想や使命は同じ。この世に愛と調和を実現するのは、『大いなる存在』の意思で地上に生かされているわれわれ人間の使命」と悟ることによって、取り戻すことが出来た鮫島さん。そのとき、彼女の脳裏に図らずも思い出されたのは、祖父のことだったといいます。

「栄一は、我が国に多くの宗教が生まれ、社会主義が入ってきたりして世の中が雑然とし始めた明治45年、宗教家、道徳家、哲学者などのトップを集めて帰一協会を作りました。それは、宗教界が錯雑としてきたことにどう対応するかを探る構想だったのですが、中心メンバーの逝去もあり、時期尚早だったのか、大正6年頃に空中分解しました。しかし、後に栄一が心血を注いだ社会への貢献をみると、『宗教や国籍を超えた平和共存』という帰一協会の考え方が基になっているとわたくしは感じます」

そんなふうに鮫島さんは、現在まで自分を包み、導いてくれている祖父・渋沢のことを語ったのでした。
世界全体を民族対立、経済格差の拡大、そして戦争への不安が覆いつつある21世紀。私たちにとっても、渋沢の軌跡は大きな指針となるに違いありません。

(※)五井昌久氏は、一般的には「宗教家」とされているが、鮫島さんは彼について「いわゆる宗教家というよりは、自分を含めた多くの人々に世界平和を祈る使命があることを教えてくれた方」だと捉えているという。