【レポート】第19回パリクラブ輝く会講演「孫だから語れる渋沢栄一の秘話」

「これで戦争を止める努力をなさる方が、また一人減ってしまわれた」

鮫島純子さん

渋沢は、生涯国民の生活が向上することを信じ、自ら多額の出資や寄付を行うだけでなく、親しい実業家仲間たちにもよく寄付を募りました。鮫島さんは、渋沢の社会事業にまつわる情熱をこんな笑い話を例に語ります。

ある日、服部時計店の創業者である服部金太郎が将棋を指しているところへ、イタリアの骨相学者に骨相を見て貰ったばかりの渋沢がやってきて「私は百まで生きるそうだ」と言ったそうです。それを聞いた服部は「そりゃ大変だ」と席を立ったとか。「渋沢さんが百まで生きては、これから先、どれだけ寄付金のご用があるか分からない。将棋どころの騒ぎじゃない。もっと稼がなくちゃ」

太平洋戦争の足音が迫る昭和6年の秋、渋沢は死の床に就きますが、新聞記者が邸に寝泊まりし、新聞に祖父の容態が刻一刻と報ぜられるのを見るに付け、鮫島さんは、これまで何気なく接してきた「お祖父様」が、世間では偉大な実業家なのだと初めて知ることになります。彼女はそのとき9歳でした。

「お葬式には、天皇陛下の勅使がいらして、陛下のお言葉を読み上げました。40台の車が、飛鳥山から青山斎場まで列を作ったといわれておりますが、わたくしの記憶ですと、一番最後の車に貼られていたナンバーが80幾つでした。年嵩の孫たちは皆、祖父が亡くなる直前まで寝ていた広い部屋で寝たがりました。しまいには、栄一の病床のあった場所の取りっこになって、じゃんけんで決めたのでございます」

昭和6年、渋沢の納棺の折、鮫島さんは伯母(栄一の長女穂積歌子、お茶の水女子校第一期生、祖父の秘書役で才媛)がこんなことを呟くのを耳にしたそうです。――これで戦争を止める努力をなさる方が、また一人減ってしまわれた。

3か月前、満州に勢力を伸ばそうとしていた陸軍の暴走により満州事変が起こりました。渋沢は他国と戦いでなく、あくまで貿易で互いに仲よく繁栄しようと努力していました。