モンレアル便り

第8号

カナダ建国の歴史(つづき)

アメリカ独立戦争とケベック植民地

フレンチ・インディアン戦争に勝利し、1763年のパリ条約締結後、英国は、「ヌーベル・フランス」と呼ばれていた旧フランス領を「ケベック植民地」と改名して正式に獲得しました。パリ条約の交渉を進める中で、英国とフランスは、グアドループ、マルティニークといったカリブ海の島々を取るか、ケベックを取るか、の選択を迫られました。温暖で、バナナを始め農産物が豊富で、サトウキビから採れる砂糖の産地であることから「砂糖植民地」と呼ばれていたこれら島々と、寒冷地で貿易用の商品と言えば毛皮だけというイメージのケベック。まずは戦勝国である英国に選択権があります。当然砂糖貿易を選ぶだろうとのフランスの予想に反し、英国はケベックを選択します。その結果、フランスは砂糖植民地を保持することができました。当時、フランスは「戦争に負けて得をした」と言われたそうです。

では、英国はなぜ、砂糖貿易の独占権を放棄しても、ケベックを選択したのでしょうか。北米の大部分を手に入れた英国にとって、フランスの影響力がそこに残ることは、以後北米植民地を運営する上で大きな障害になります。したがって、魅力的な砂糖植民地を諦めてでも、フランスを排除する必要があったのです。フランスは北米から追い出されましたが、ニューファンドランドに有していた漁業権だけは維持することが認められました。

ここで少し脱線して、隣の米国に話を移します。
英国は、1607年から120年以上にわたり、現在はアメリカ合衆国の東海岸となっている北米東海岸に13の植民地を形成しました。入植者の多くは家族単位で、ヨーマン(Yeoman)と呼ばれた自営農民たちでした。彼らは入植地で定住のために農地を開墾していきます。その過程で、当然ながら先住民と衝突することもありましたが、入植計画は進みました。1700年に25万人ほどだった13植民地の人口は、1780年には10倍以上の約260万人に達していました。特に南部のプランテーションでは、人手不足を補うため、アフリカからの黒人奴隷の輸入が加速されました。1863年にリンカーン大統領が奴隷解放宣言を発するまでの200年以上もの長きにもわたり、複数の州において奴隷制度が正当化されていたのです。
英国のウォルポール(Robert Walpole)首相(在1721~42年)は、非公式な植民地貿易緩和策を進めます。後に「有益な怠慢」と呼ばれるこの政策は、英国の政治家で思想家のエドマンド・バーク(Edmund Burke)が1775年3月22日に英国議会で行った、植民地との和解策についての長演説の中で、「賢明かつ有益な怠慢(wise and salutary neglect)」と表現されたことから、後付けで皆に認識されるようになりました。フランスのカトリックによる厳格な制度で統治されてきたカナダのケベック植民地(旧ヌーベル・フランス)と異なり、米国の植民地では、ヨーマンたちによる自営農業と、緩和された貿易政策が敷かれていました。この「怠慢」が奏功し、米国の植民地は存外の利益を上げたのでした。バークは、「植民地が成果を上げたのは、英国本国の指導者の配慮や疑り深い政府の束縛によってではなく、賢明で有益な怠慢によって、寛大な自然が自ら選んだのである」と結論付けます。また、「これがもたらした利益を見るに、全ての権力のプライドや人間の英知は溶解し、自分の中で死んでいくのを感じる」と表現し、「厳しさは和らぎ、自由の精神に何らかの許しを与える」と締めくくっています。

さて、カナダに話を戻します。英国は、ケベック植民地にも英国式の統治制度を導入しようとしましたが、結論から言うと、その方針は断念せざるを得ませんでした。

当時、米国に有していた13の植民地が、英国本国への抵抗を強めていました。もし、旧仏領カナダにその影響が及べば、大きな反乱に発展しかねません。そこで、大多数を占めるフランス系住民に英国風の統治を押しつけるのではなく、カトリックを中心とするフランス式の制度を維持した方が、管理・運営の観点から賢明と判断されたのです。その当時のケベック植民地のフランス系住民は約7万人。
それに対して英国系住民は1000人足らず。ケベック植民地の総督に任命されたマレー(James Murray)は、英国式議会制度を導入するつもりで赴任したのですが、植民地の状況を見て、これを一旦保留としました。次の総督のカールトン(Guy Carleton)は、フレンチ・カトリック教会を中心とする封建的な制度を維持する方が管理しやすく、13植民地の反乱に対する砦にもなり得ると考えました。また、フランス系住民を中心とする社会が今後も継続することを見越し、英国式議会制度の導入を放棄するよう本国に申し入れました。「英国化」が見送られたことで、フランス系住民は、今日に至るまで、そのアイデンティティを維持することができたと言えるでしょう。英国本国は、1774年にようやくカールトンの申し入れを受入れ、「ケベック法」を制定します。これは、ヌーベル・フランス式のカトリック教会を中心とする封建制度を踏襲するものでした。従って、支配者層には歓迎されましたが、搾取されてきた下層階級の住民は批判的でした。言うまでもなく、英国系住民は、フレンチ・カトリック寄りの制度設計に不満でした。米国の13植民地は、ケベック法を「耐えがたき諸法(Intolerable Acts)」の1つとして糾弾しました。1775年、つまり、ケベック法制定の翌年にアメリカ独立戦争が始まりました。戦線は北部にも拡大し、カナダから英国軍を排除しようとする独立派(大陸会議)とカールトン率いる英国軍の戦いにまで発展しました。カールトンは、独立派の攻撃を何とか食い止めましたが、カナダ戦線での苦戦が北米全域での戦いにおける英国軍の勢いにブレーキをかける結果になったと言われています。
フランスのブルボン王朝は、この戦争にアメリカを支援するために参戦しますが、既に傾きかけた財政を更に悪化させることになり、1776年のアメリカ独立宣言の影響もあって、1789年のフランス革命、人権宣言の採択につながっていきました。

連合カナダ植民地

フランス革命に大きな影響を及ぼした北米の植民地による独立闘争でしたが、英国本国は、フランス革命の影響が、今度はケベック植民地に逆輸入されることを懸念します。また、アメリカ独立戦争でアメリカを追われた英国系住民(ロイヤリスト)をはじめとする多くの英語系移民が、英国統治下のケベック植民地に流入するようになります。当然、フランス系住民との間で緊張が生まれます。英国議会は、1791年12月、通商「カナダ法」と呼ばれる「立憲条例(Constitutional Act)」を採択し、ケベック植民地を、フランス(仏語)系住民が多く住むロワーカナダと、英国(英語)系住民が多く住むアッパーカナダに行政区を分割し、2つの議会、2名の総督を設けて分割統治することを決定しました。ロワーカナダにはケベック法が引き続き適用されましたが、アッパーカナダでは廃止されました。ちなみに、アッパーとロワーは、セントローレンス河の上流(upper)と下流(lower)のことです。カナダ法の導入で初めてこの地域が「カナダ」と正式名称で呼ばれるようになりました。

カナダ法の採択以降、アッパーカナダには、米国からの移民が急増し、「アメリカ化」が進みました。これを見て米国は、今ならアッパーカナダを陥落させることが可能と考え、1812年に英国に宣戦布告します(1812年戦争)。アッパーカナダもロワーカナダも何とか米国軍の侵略を食い止めました。ロワーカナダの住民のほとんどは、英国に忠義を誓うことのないフランス系住民でしたが、英国政府がケベック法を導入したこと(フレンチ・カトリックへの敬意)への恩返しとして、英国軍に協力したのでした。
約2年半に及んだこの戦争は、1814年に終結します。その後、1817年と18年に英米が協定を結び、武装解除や国境について合意しますが、米国を脅威と考えた英国は、万が一に備え、オンタリオ湖からセントローレンス河に注ぎ込む位置にあるキングストン(Kingston)の要塞を強化します。同時に、米国がセントローレンス河を奪取する有事に備え、オタワ川とモントリオールを結ぶ迂回水路「リドー運河(Rideau canal)」を建設しました。

ヨーロッパでの不況や失業、そしてコレラなどの疾病から、英国人を中心に大量の移民がカナダに押し寄せました。アッパーカナダでは、英国からの移民たちが経済的、社会的に高い地位を占めるようになり、自らを英国人ではなく、「カナダ人」と自認するようになりました。フランス系が圧倒的多数を占めるロワーカナダへも英国人移民は流入し、人口の25%を占めるようになると、フランス系住民と英国系住民の間でいざこざが生じることもありました。アッパー、ロワー両カナダでは社会不安が増大し、それぞれで反乱が起きました。英国政府は、ダラム伯爵(Earl of Durham)のラムトン(John Lambton)を英領北米地域全体の総督としてカナダに派遣します。ダラム伯は、1839年に、「ダラム報告書(Durham Report)」として知られる「英領北米の状況に関する報告書(Report on the Affairs of British North America)」を提出します。これを受けて、1841年には「カナダ連合法(Act of Union)」が採択され、アッパー、ロワー両カナダは統合され、「連合カナダ植民地(Province of Canada)」が成立します。
首都はキングストンに定められました。1848年には責任政府(responsible government)が成立し、自治植民地となりました。これが、後のコモンウェルスの原型になったと言われています。
なお、キングストンは、当時最大の仮想敵国であった米国に近すぎるという理由で2年数か月後に首都を解除されます。その後の首都争いは、ケベック、モントリオール、キングストン、トロントの4都市の間で行われましたが、1858年に、ヴィクトリア女王の鶴の一声で、英仏両勢力の中央に位置するオタワに決定されました。

自治権の獲得とカナダの建国

連合カナダ植民地では、18世紀半ば頃から、連邦制国家建設の構想が持ち上がります。しかし、英国政府はあまり乗り気ではなく、すぐには具体化しませんでした。フランス系のケベックは、連合植民地の中でも異色な存在と見られていたので、英国系が大多数を占める連邦にうまく統合できるか疑問を唱える意見もありました。大西洋岸の沿岸植民地は、連合カナダとの交流がほとんどなく、連邦建設には無関心でした。また、ハドソン湾をぐるりと取り囲むルパーツランドは、北極圏から中央のプレーリーにまたがる広大な敷地です。連邦がこれを管理するためにどれだけのコストを払わなければならないか、と懸念する声も上がりました。
こうした空気を一変する事案が生じます。1861年に勃発した南北戦争(アメリカ市民戦争)です。海上での戦闘において、南軍が英国に発注した船が戦艦として使用されるなど、英米関係も一触即発な状態に陥ります。戦後、この英国船が北軍に損害を与えたとして、英国は損害賠償を支払うことになります。英米戦が始まれば、英領カナダは一瞬にして戦場と化すことでしょう。これを避ける方法は1つしかない、と英領カナダの連邦構想が一気に加速し始めました。英国は、広大な植民地を失うくらいなら、連邦制を認め、カナダに自治を与えた方がましだ、と考えたのです。
大西洋岸の沿岸植民地だったノバスコシア、ニューブランズウィック、プリンスエドワード島は、3植民地だけで「沿岸同盟(Maritime Union)」を形成しようと協議中でした。そして1864年、「沿岸同盟」の結成に向けた会議がプリンスエドワード島のシャーロットタウンで開催される運びとなり、3植民地の代表が集まることになりました。連邦を構成するはずのこれら植民地が個別に同盟を確立してしまうと、連邦形成に支障を来すと危機感を抱いた連合カナダの大連立内閣は、シャーロットタウンに乗り込み、3植民地会議への参加を強引に求め、これを認めさせます。同年9月に会議が始まると、大連立内閣は連邦構想について3植民地を説得にかかります。連邦構想に関心を示した3植民地の代表者たちは、本来の議題であった沿岸同盟の議論を一旦保留にして、大連立内閣と共に連邦について検討することに同意したのです。

シャーロットタウン会議の場となった州議会

シャーロットタウン会議の場となった州議会

翌10月、議論の場はケベック市に移ります。上記4植民地にニューファンドランドを含めた5植民地の代表者計33名の「連邦形成の父祖」たちが、連邦の実現に向けた会議に出席しました。焦点は、連邦制のあり方、つまり連邦と州の権限の仕分けでした。フランス系急進派からは、英国系が多数を占める連邦に支配されることを懸念する声が上がりました。他の出席者からは、大陸横断鉄道建設が計画される中、連邦構想は鉄道建設を進めるための方便ではないか、との批判が噴出しました。20日間にもわたる激論を経て、72条からなる「ケベック決議」が採択されました。この決議を法制化できれば、連邦構想は成就します。しかしその矢先、ニューブランズウィックでの総選挙で賛成派が惨敗し、反対派が勝利を納めます。また、プリンスエドワード島及びニューファンドランドが後ろ向きの姿勢を崩さず、暗雲が立ちこめます。

遂に英国本国が動き出します。最後の調整は、1866年12月、ロンドンに場所を移して行われました。年を越して翌67年2月、法案に必要な修正がなされ、143条の「英領北アメリカ法(British North America Act)」が作成されました。国名については、「カナダ王国(Kingdom of Canada)」とする意見が出たのに対し、英国政府から、カナダは完全独立国家ではなく、あくまでも英国の植民地で自治を獲得したに過ぎないとのコメントがあり、また君主制を彷彿とさせる国名は、米国から反感を買う恐れがあるとの指摘もあって、却下されました。結局、「カナダ自治領(Dominion of Canada)」で落ち着きました。1867年3月、英国ヴィクトリア女王の勅許によって、「カナダ自治領」が正式に成立しました。これに参加した植民地は、同年7月1日にこの法律を施行したので、この日がカナダ国民の祝日「カナダ・デー」となりました。

ところで、カナダ自治領の「自治領(Dominion)」は、ラテン語の「dominus」の英訳で、「主人(master)」を意味します。旧約聖書では、神学に基づく天使の序列で、4番目の天使をDominions と総称しています。日本語では「主天使」と訳されることが多いようです。
英国の植民地には、カナダ以外にもドミニオンが使用されました。「(英国によって)支配された土地、領土」という意味ですね。独立前のインドやパキスタンも自治領(Dominion)が使われていました。
米国のバージニア州は今でも、「旧ドミニオン(Old Dominion)」と呼ばれることがあります。

カナダの「建国」の歴史は以上です。1867年7月1日は、英国の植民地下で自治を確立した法律が施行された日なので、厳密な意味でカナダが独立国家となった訳ではない点には留意が必要です。
「建国」後、第一次世界大戦を経て、1926年にロンドンで開催された帝国会議において、英国と自治領の地位は対等であり、英国のコモンウェルスの構成国とすることが宣言された「バルフォア報告書(Balfour Declaration)」が作成されました。その後、これを法制化したウェストミンスター憲章が1931年に採択されて、カナダはようやく独立したと言えるでしょう。コモンウェルスの一員であるため、今日まで国家元首は英国国王ですが、実質的な統治権はありません。1982年にカナダ独自の憲法法案が採択されるまで、ウェストミンスター憲章は事実上のカナダ憲法と捉えられていました。これらの歴史は、多くの文献に記載されているので、詳細はそちらにお任せします。

カナダの国名

カナダの国名の由来は、先住民の言葉で「村、集落」を意味する「Kanata」ですが、国名が「カナダ(Canada)」に決定されるまでのプロセスを振り返ってみたいと思います。1535年に先住民の首長であるドンナコナからその村を「カナタ(Kanata)」と呼ぶと教えられたジャック・カルティエは、そこら一帯の土地を「カナダ(訛ってそう発音したのかもしれません)」と呼びました。セントローレンス河も「カナダ河」と呼んだそうです。しかし、17世紀になって本格的な植民地化が始まると、この土地は「ヌーベル・フランス(新フランス)」と呼ばれるようになります。1763年に英国は「ヌーベル・フランス」を「ケベック植民地」と改名します。この頃の英国の北米植民地は、米国のルイジアナにまで及ぶ広大な範囲まで拡大されていて、ケベック植民地以外の土地は一般にカナダと呼ばれていたようです。
カナダという名が正式に使われたのは、1791年にケベック植民地が上流側の「アッパーカナダ」と下流側の「ロワーカナダ」に二分割されたときでした。そして、1841年に再度合体し、「カナダ自治領」となりました。
連邦化の議論の中で、国名についても検討がなされました。以上の歴史をみると、「カナダ」はかなり有力な候補のように思われますが、他にも多くの案が提示されました。Albertsland、Albionora、Borealia、Britannia、Cabotia、Colonia、Efisga、Hochelaga、Norland、Superior、Transatlantia、Tuponia、Victorialand 等々。多くの名は地名に因んだものだと想像できますね。Efisga は、当時のカナダの人口の多くを構成していた人々の出身国、つまり英国(England)、フランス(France)、アイルランド(Ireland)、スコットランド(Scotland)、ドイツ(Germany)、先住民の土地(Aboriginal lands)の頭文字を合わせたもの。Tuponia は、「北米諸州(United Provinces of North America)」の単語の中からアルファベットをいくつか抜き出して一つの単語にした造語だそうです。現代なら人工知能(AI)がやってくれそうですが、面白い発想ですね。
このように国名の候補が乱立し、決定プロセスが混沌としてきた中、1865年2月、カナダ自治領の議員だったマクギー(Thomas D’Arcy McGee)が機転を利かせ、議会で次のように問いかけます。

「私が読んだ新聞の中に、新しい国名を導き出そうとする試みが十数件もあった。ある人はHochelaga、またある人はTuponia が相応しいと言っていた。さて、名誉ある議員の皆様に尋ねたい。
ある朝、気持ちよく目が覚めて、自分がカナダ人(Canadian)ではなく、チュポニアン(Tuponian)やオシュラガンダー(Hochelagander)になっていたらどう思いますかな?」

はい、これでカナダに決まり。後生に名を残すとは、まさにこのことですね。

ところで、カナダの元になったKanata という土地が、首都オタワの中心から少し離れたところにあります。人口の増加や産業化により、地方の一地区だったところが、1978年にオンタリオ州の市に格上げされました。市の名前は住民投票で決めることになり、他の候補名を押しのけて、Kanata に決定されました。但し、2001年には、首都オタワに合併されました。

(歴史はこのくらいにして、次は経済について書きます。)

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