モンレアル便り

第7号

カナダ建国の歴史

史上初の先住民は日本人の祖先だった?!

カナダの歴史は、16世紀の大航海時代頃から語られることが多く、あたかも一部のヨーロッパ人がカナダを一から形成したかのような錯覚を覚えます。しかしそれは、フランス国王フランソワ1世の命を受けてケベック州に最初に到達したフランス人たちが、セントローレンス河流域に植民地を築いていく「ヌーベル・フランス(新フランス)」の歴史であり、それ以降の英国を中心とする近現代カナダの歴史物語です。実際には、そのずっと前から、この土地には様々なグループの先住民たちが住んでいました。
つまり、大航海時代以降の歴史は、先住民の土地に移り住んで支配を広げたフランス人やその他のヨーロッパ移民たちが主人公となって演じられた歴史とも言えるでしょう。現在、カナダは移民大国として知られていますが、そもそもこの国の歴史は、移民たちの入植から始まっているのです。

北米の土地に最初に住みついたのは、アジアからやってきたモンゴロイド系の人々だったとされています(一部、コーカソイド系もいたとの説もあります)。その時期は、今から3万年前から1万年前くらいと言われていますが、もっと古い歴史を主張する説もあります。彼らは、ユーラシア大陸のシベリアからベーリング海峡を渡って、現在のアラスカから北米大陸に入ってきたと考えられています。位置関係からして、広いアジアの中でも、北東アジア地域に住む人々だったのでは、と推測されます。当時は氷河期で、海面が現在よりも百メートルほど低かったため、陸続きだったところを通って来たか、あるいは凍結した海の上を歩いて来たか、のいずれかでしょう。北米には大型の動物が生息していたため、獲物を追って移住する狩猟中心の生活だったと考えられています。マンモスが死滅した原因の最近の最有力説は気候変動によるものですが、人間の狩猟対象となったことも一因でしょう。いずれにせよ、人々は、北米大陸まで到達しても、周囲を氷河と山脈に阻まれて、アラスカから南下することは困難だったようです。約1万年前に氷が溶解し始めると、人々の移動距離も広がっていきます。北米中央部では、鏃(やじり)でバッファロー狩りをした形跡が化石で発見されています。更に時代が進み、紀元前8000年から前6000年頃には、現在のケベック州のセントローレンス河流域に辿り着き、定住を始めたようです。そこら一帯は森林が多く、先住民たちは狩猟や漁に加えて、農耕も行っていたと言われています。紀元前2000年前後には、タバコ、トウモロコシ、豆類といった作物が南部から広まっていき、男は狩猟、戦争、女は農耕と育児といった村落が形成されていきました。
アジアから渡ったとされるカナダ先住民と私たち日本人は、遙か遠い祖先を介して繋がっているのかもしれません。「先住民」を一括りにするのが適切かどうか議論が分かれるかもしれませんが、彼らには、どことなく日本人と通じるところがあるように思われるのは私だけでしょうか?

ヨーロッパ人の到来

北米を最初に訪れたヨーロッパ人は、ノルマン系ヴァイキングのリーフ(レイフ)・エリクソン(Leif Eriksson)と言われています。西暦1000年頃のことでした。彼の出身は、現在のアイスランドまたはノルウェーとされています。北欧神話「サガ」によれば、父親のエイリーク(赤毛のイエリーク)は殺人を犯し、出身地のノルウェーを追放され、アイスランドに移住しました。そのため、リーフの出生の地が曖昧になったのでしょう。この父親エイリークは、グリーンランドの発見者とも言われています。しかし、グリーンランドの発見や、北米に到達した最初のヨーロッパ人については、エリクソン父子以外にも諸説あり、その決定的証拠は見つかっていません。

ともあれ、ヴァイキングが北米に到達してから数世紀の間、彼らはその地を植民地化し、定住しようと何度も挑戦しますが、結局実現できませんでした。ニューファンドランドでは、ヴァイキングが活動していた考古学的な形跡が発見されたことから、先住民とヴァイキングの接触があったことは間違いなさそうです。
ヴァイキングがニューファンドランドで活動をしている頃、ヨーロッパ諸国は、迫り来るイスラム勢力に対し、十字軍を派遣して聖地回復のための苦戦を強いられていました。地中海地域をオスマントルコが征服すると、ヨーロッパ諸国の貿易の中心地は、地中海からイベリア半島方面に移っていきます。それに伴って、スペインとポルトガルを中心とする大航海時代が幕を開け、アジア、アフリカ、南北アメリカ大陸を「発見」し、植民地を築いていきます。ジャック・カルティエがカナダを発見(再発見)し、領有権を主張したとき、そこには既に何千年も前から、アジア系の祖先を持つ先住民たちが生活を営んでいたのでした。

15世紀末に、スペインとポルトガルは、南北アメリカ大陸に対する領有権を2分割することを決定します。スペイン語系諸国に囲まれたブラジルがポルトガル語圏になったのはこのときの合意に基づくものです。ヴァイキングが行き来していた北米のニューファンドランドも、ポルトガル領に含まれていました。しかし、その決定がなされた直後の1497年、英国のヘンリ7世の命を受けたジョン・カボット(John Cabot)がニューファンドランド島やラブラドール半島に到達します。元々はイタリアのジェノヴァ生まれで、名はジョバンニ・カボート(Giovanni Caboto)といいましたが、英国に移住したため、英国風の名前で知られるようになりました。カボットは、その1年前の1496年に北米に出航しますが、航海は失敗に終わります。翌1497年、リベンジの再出航で見事役目を果たし、上陸後、英国国王の領有を宣言しました。そして、ここに海産資源が豊富な漁場があることを確認します。更に、彼はセントローレンス湾に入り、そこが中国までつながるルートであると考えるのです。但し、それ以上先には進みませんでした。一足遅れてフランスの国王フランソワ一世が、ジャック・カルティエを差し向け、中国・アジアまでのルートを開拓するよう命じることになるのですが、フランス国王は、カボットの航海記録を読んで着想を得たのかもしれませんね。

英国は、ニューファンランドの領有権を宣言したものの、その土地に定住することはありませんでした。良質な漁場があると分かり、英国を追いかけるようにポルトガルが訪れ、更にスペインやフランスからも漁船が来るようになりました。特に鱈(タラ)漁は盛んだったようです。セントローレンス湾の方では、捕鯨も行われていたようでした。今でもセントローレンス湾とセントローレンス河では鯨が見られるため、ホエール・ウォッチングの観光ツアーが組まれています。これだけ魅力的な海域を有する土地でしたが、どの国も植民地化するには至りませんでした。定住を断念させるほど、カナダの冬は厳しかったのです。従って、夏季の間のだけ、漁のための拠点となっていたようです。

カナダへのヨーロッパ人の定住という意味では、ヌーベル・フランスの植民地化が最初の取組となります。その際に、先住民との関係をうまく構築していくことが重要なポイントになります。大航海時代のヨーロッパ諸国にとり、キリスト教の布教は重要な要素でした。ヌーベル・フランスで主要な役割を果たしたのがイエズス会でした。北米におけるカトリックの拠点作りが、彼らの重要な使命の1つでした。16世紀にケベックに到着した彼らを出迎えた先住民たちは、贈呈の品を持って来たり、歓迎の宴を開いたりするなど、友好的な意思を示しました。イエズス会士たちは、布教の糸口はつかめたと思ったかもしれません。まずは、獲物や作物を求めて移動しながら生活する先住民たちを、一か所に定住させることが第一のステップです。森林を切り開き、土地を作り、そこに移り住まわせ、農耕を教えて定住化政策を進めました。先住民たちを、「野蛮人(sauvages)」とみなし、カトリックの教えによって「文明化」させ、正しい方向に導こうとしました。しかし、なかなかうまくはいきませんでした。他の先住民からの襲撃を受けて邪魔されたり、ヨーロッパ人がもたらした伝染病(天然痘など)の被害を受けて、イエズス会は不幸をもたらす疫病神だと警戒されたからでした。

17世紀になると、この方針は見直され、先住民の立場を尊重し、融和を図る努力がなされます。先住民たちの生計の基盤であった毛皮の交易を認めつつ、農作業と両立できるようにします。イエズス会士たちは、先住民の言葉を学び、コミュニケーションにも努めました。更には、先住民同士の戦闘による負傷者を介護する人道支援を通じて、キリスト教の活動への理解を求める活動も行われました。
それでも信仰を変えさせることは容易ではなかったようですが、努力の甲斐あってか、半世紀ほど経った頃には、多くの改宗者を得ることができたようです。

鱈からビーバーへ

16世紀にジャック・カルティエがケベック州のガスペに到達し、オシュラガの砦に来て王の山と呼んだところが現在のモントリオールに相当する場所であったこと、また、17世紀にサミュエル・ド・シャンプランが植民地化を進めた経緯については、先の号で書いているので、ここでは省きます。
当時のセントローレンス河岸には、毛皮の取引のための中継地点が作られていました。国王から毛皮貿易の独占権を得たシャンプランが拠点に定めたのは、現在のケベック市です。セントローレンス河流域に居住していた先住民のうち、アルゴンキン族とイロコイ族は戦闘状態にありました。アルゴンキン族とシャンプランたちは、毛皮と銃を交換することで、ウィンウィンの関係を築いていました。一方、フランス本国は宗教戦争で混乱し、ヌーベル・フランスへの移民政策を推進するどころではなく、また厳しい気候や先住民からの攻撃などから、フランスからの移住者はあまり増加しませんでした。一方のイロコイ族は、英国やオランダと同様な協力関係を持ち、毛皮と武器の交換を行い始めました。英国は、セントフローレンス河を押さえたフランスとは別に、ハドソン湾を経由した毛皮貿易ルートを開拓していました。現地の先住民同士の戦いは、フランスと英蘭の勢力拡大競争とリンクしていたと言えるでしょう。
事実、シャンプランたちは、英国から何度も攻撃を受けていて、毛皮取引の拠点を奪われたりもしていました。
この毛皮貿易で大活躍した「主役」は、ビーバーです。水辺に住んで、強力な前歯で木の幹を囓って運び、「ダム」を建設することで知られている動物です。17世紀に、先住民の猟師がイエズス会士に対し、「ビーバーは全てを可能にする」と言った記録が残されています。ビーバーの毛皮は、その人が望むあらゆるモノと交換することができる価値を有していたということです。カナダを創ったのはビーバーだと言っても過言ではないかもしれません。なぜなら、1600年から1850年の間に、カナダの西部への国土の開拓が進んで行くのですが、これは毛皮の取引の拡大に沿って、つまりビーバーの毛皮を求めて西へ西へと進んでいったからです。現在、ビーバーは、カナダを象徴する国獣になっています。
1786年にモントリオールで設立され、カナダのビール史上で1、2位を争うビール会社「モルソン(Molson)」が2000年に制作した有名なテレビ・コマーシャルがあります。俳優のジェフ・ダグラス(Jeff Douglas)が、舞台に1人で立ち、目の前にいると思われる観客に対し、「俺の名はジョー。カナダ人だ(My name is Joe, and I am Canadian)」と声を張り上げるところから始まり、カナダ人の愛国心を刺激する台詞が続きます。彼の背後には、台詞に沿って映像が流れます。その内容は次のとおりです。

「俺の名はジョー。カナダ人だ。
いいか、俺は木こりでも毛皮交易商でもない。
イグルー(圧雪で作る住居)に住んでいないし、脂身を食べないし、犬橇(いぬぞり)も持っていない。
カナダ出身のジミー、サリー、スージーなんて知らない。きっと彼らはイイ奴だろうけど。
俺の国には首相がいる。大統領はいない。
俺は英語とフランス語を話す。アメリカ英語は話さない。
『about』は『アバウト』と発音する。『a boot:ア・ブーツ(長靴のブーツ)』とは発音しない。
誇りをもって自分のバックパックにカナダ国旗を縫い付けることができる。
警察より平和維持を信じる。同化よりも多様性を信じる。
そして、ビーバーは真に高貴な動物である!
また、『Z』は『ゼッド』と発音する。『ズィー』ではない!
カナダは(世界で)2番目に大きな国土を有し、アイスホッケー発祥の国であり、北米大陸の最高の地域である。
俺の名はジョー。カナダ人だ!」

ケベック人の中には、若干の自虐ネタを含むこれを面白いと感じる人もいれば、複雑な表情で笑えないと言う人もいます。それはさておき、ここにもビーバーが登場します。しかも「真に高貴な動物」と描写されています。そんな素敵な(?)ビーバーですが、カナダの建国への「貢献」の仕方は決して素敵なものではなく、むしろ悲劇的なものでした。モントリオール美術館に、先住民クリー族出身のケント・モンクマン(Kent Monkman)という画家が2016年に描いた「国王のビーバー(Les Castors du Roi)」という大作が展示されています。まずはその大きなサイズ感に圧倒されますが、描かれている内容も衝撃的です。人間がビーバーを虐殺している地獄絵とも言えるでしょう。その目は殺意に満ちています。右の方には、擬人化されたビーバーの親子が両手を合わせています。殺されたビーバーを抱きかかえて悲しんでいる者もいて、その奥には聖職者らしきがなすすべもなく立ちすくんでいます。遠くには、殺されたビーバーの魂が天に昇っていきます。カナダ憲法に言及されている「平和、秩序及び良い政府(peace, order and good government)」という願望は、まさにこの反省に立って書かれているのかもしれません。

ケント・モンクマン作「国王のビーバー」(2016年)

ケント・モンクマン作「国王のビーバー」(2016年)

英仏の戦い

フランスがアジアへの航路を探してセントローレンス河流域に入植し、毛皮貿易で冨をなし、ヌーベル・フランスを築いたのと同じ頃、英国も北米の各地を次々と植民地化していました。フランスがそうしたように、アジアへの航路を求めてセントローレンス河流域を訪れることもありました。そして、アジアへの航路開拓が難しいと分かると、次は毛皮貿易に従事するようになりました。毛皮貿易に関心を示していたもう1つのライバルはオランダでしたが、英国はこれを駆逐することに成功します。もはや、英仏の衝突は不可避という状況になっていました。
カナダの領有を巡り、英仏が争い、英が勝利を収めた「フレンチ・インディアン戦争」は、1754年から63年の約9年間続きました。これは、全ヨーロッパを巻き込んだ「7年戦争」(1756~63年)の期間とほぼ重なります。7年戦争は、オーストリア継承戦争でハプスブルク家が失った領土を回復しようとして始まり、やがて欧州全面戦争に突入していきます。フランスは、欧州ではプロイセンと対立し、加勢を求めてスウェーデンと同盟を結びます。スペインは、植民地を巡り英国と対立関係にありました。弱体化したハプスブルク家の息の根を止めようと、プロイセンはオーストリアに攻撃の照準を合わせていま

した。フレンチ・インディアン戦争で英国と戦争状態にあったフランスは、英国に対抗するために、本来宿敵だった筈のオーストリアと手を組みます。以上の複雑な方程式を簡単にすると、仏墺、スペイン、スウェーデン(のちにロシアも)の連合軍が、英・プロイセン同盟軍と7年間にわたり戦争を行ったのです。結果、フランスは、欧州でも北米でも英国に敗れ、ヌーベル・フランスを英国に割譲することになりました。これ以外にも、米国のルイジアナを英国とスペインに割譲しました。更に、アフリカとインドに有していた植民地も放棄させられました。

二人の英雄の死

「フレンチ・インディアン戦争」は、1763年に英国の勝利で幕を閉じますが、雌雄を決する重要な山場を迎えたのが1759年の「アブラハム平原の戦い」です。1759年夏、英国は、ヌーベル・フランスの西側のナイアガラを押さえると、次はウルフ(James Wolfe)将軍の船団が東のセントローレンス河を遡り、仏軍を挟み撃ちにする形に陣を進めました。ウルフ将軍の船団は、ケベック市の対岸から砲弾を浴びせますが、仏軍を率いるモンカルム(Louis-Joseph de Montcalm-Grozon)将軍の抵抗にあい、簡単には堕とせません。モンカルム将軍は、その1年前の1758年、現在の米国ニューヨーク州のタイコンデロガ(2つの湖が出会う所、を意味する)で、わずか4000人の軍を率いて、その4倍の1万6000人の英国軍を撃退した名将です。彼の名を世に知らしめた戦いは、守り抜いた砦の名を取って、「カリヨンの戦い(Bataille de Fort Carillon)」と呼ばれています。そのモンカルム将軍の果敢な抵抗に苦しむ英国軍は、何とか上陸。決戦の場は、現在のケベック市のアブラハム平原に移されました。
9月13日早朝に始まった戦闘は、ものの30分ほどで英国軍が勝利し、あっけなく終結しました。このアブラハム平原の戦いで、両軍を指揮したモンカルム将軍とウルフ将軍は、共に命を落とします。ウルフ将軍は、意識が薄れる中、仏軍の敗走の知らせを聞いて、安堵の中で息を引き取ったと語られています。この様子は、ベンジャミン・ウエスト(Benjamin West)作の「ウルフ将軍の死(The Death of General James Wolfe in Quebec)」に雄弁に描写されています。

なお、カナダの国歌のところで書きましたが、「オー・カナダ」が国歌に指定されるまでの間、英語系カナダ人が国歌に見立てて歌っていた「メープルリーフ・フォーエバー(The Maple Leaf Forever)」は、ウルフ将軍の勇姿を讃える歌詞で始まります。一方、フランス系カナダ人が候補に挙げた中には、モンカルム将軍を象徴する「カリヨンの旗(Le Drapeau de Carillon)」がありました。

(紙面が足りなくなったので、カナダ建国までの残りは次回に。)

ベンジャミン・ウエスト作「ウルフ将軍の死」(1770年)

ベンジャミン・ウエスト作「ウルフ将軍の死」(1770年)

アブラハム平原

アブラハム平原

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