イベントカレンダー

【開催済】美食と地方から考える日仏経済交流

コロナ禍を経て日本へのリピート観光客が戻り、さらに様々な地方にまで足を運びつつありますが、彼らを惹きつける最大の要素のひとつが、美食。
「ニッポン美食立国論」の著者、柏原光太郎氏にご登壇いただき、NHKラジオフランス語講座「ガストロノミー・フランセーズ 食を語り、愛を語る」など講師として各界で活躍されている芳野まい氏、またパリ Kinasé(パリで日本酒の魅力を伝える新潟のアンテナショップ)で日本酒をはじめとする日本の食を発信・販売している坂本明(株)グラムスリー 代表取締役とともに、美食と地方という観点からこれからの日仏経済交流を考えていきます。

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【開催済】パリクラブ文化委員会企画 茶道体験会

護国寺の稽古場で茶道裏千家 一二三会を主宰している久保比登美先生による茶道の体験会になります。

日本の茶道は長い歴史をもちますが、江戸末期から明治初期にかけて庶民層にも広く茶道が普及するようになり、気軽に抹茶を楽しむ文化が根付くとともに、伝統文化の作法としての儀式、様式を学ぶ茶道が広く一般に定着するようになりました。

今回は普段茶道に馴染みのない方も含め、普段、茶道を学ぶ皆様が利用している茶室の雰囲気を体感頂き、あわせて抹茶、和菓子を味わう敷居がないイベントと考えております。先生のお手前もご覧いただくことで、所作の美しさも知って頂けることと存じます。会員の皆様のご参加をお待ちしております。

講師 久保比登美先生の経歴

茶道裏千家一二三会代表
15歳から茶道を志す。
神仏にお茶を奉納し、茶会を催す師匠のお供をする経験を積み、京都の裏千家で修業を重ね、2006年文京区護国寺で茶道稽古場の運営を開始します。日常に茶道のある暮らしを伝えています。

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【レポート】第48回輝く会「全国通訳案内士が伝える – 意外と知らない横浜の魅力 実践編」

輝く会では2023年12月10日(日)、フランスにゆかりのある横浜の名所を全国通訳案内士の大森順子さん(パリクラブ理事)の案内で散策いたしました。
コロナ禍に ZOOM で開催し大変好評だった横浜散策を実際に体験したいというご希望が寄せられ、それが実現できたイベントでした。

晴天に恵まれた当日の散策コースは10時に「元町・中華街駅」に集合。 生麦事件のリチャードソンの墓、ジェラールの水屋敷、洋館(内部見学)、旧ゲーテ座、外人墓地、旧イギリス公邸、大佛次郎記念館(内部見学)、旧フランス公邸遺構、パビリオン・バルタールを散策後、中華街にて昼食。 午後はホテル・ニューグランド、山下公園、横浜開港資料館を回り16時頃、解散しました。

イベントのレポートとして大森さんの解説の一部を皆様と共有させていただきます。

1800年頃の横浜

当時の横浜は、横浜村と言われ現在の元町・中華街駅から海に突き出た、細長く横に伸びた何もない浜、横に長~く伸びた浜だから「横浜」だったのです。家屋も40戸ほどで100人程度の住民が農業と漁業を生業として細々と生活していました。

そんな時代の1853年、ペリー提督率いる米国艦隊が浦賀に来航し、「江戸」での会見を要求してきました。慌てた幕府は「応接所」としてこの「横浜」を選んだのは、当時、横浜村は砂浜があるだけの寒村だったため何が起きても被害は少ないと判断してのことでした。

生麦事件

1862年江戸を出発した薩摩藩島津久光公の一行は、東海道沿いの生麦村で馬に乗ったイギリス人四人と遭遇、行列の通行を妨害したとして護衛の薩摩藩士がイギリス人を切りつけたというものです。事件の中心人物であった商人 Charles Richardson はその場でとどめを刺され、残りの二人の男は深手を負わされ、女性一人は、そのままに逃がされました。
イギリスは薩摩藩に厳重に抗議して賠償金を請求しましたが薩摩藩はこれに応じなかったため、翌年の薩英戦争に。薩摩藩が支払いを拒否した賠償金は結局、徳川政府が幕府の予算の1/3に相当する額を払い、一方イギリス・フランスは、自国民保護と居留地の防衛のために駐屯兵を置くことを日本政府に認めさせ、事件は終結しました。

フランス人実業家 Alfred Gérard の功績

1863年に来日した Gérard は最初フランス駐留軍の食料調達を手掛けていましたが、しだいに横浜港に入港する外国客船の食料品・日用品の調達も行うようになりました。そんなある日、山手に湧く良質な湧き水に着目し、外国船舶用に飲料水を製造販売する給水業をはじめます。Gerard の水は船乗りたちの間で「インド洋に行っても腐らない」と評判を呼んだそうです。「ミナト・ヨコハマ」を世界的に有名にした「水」の貯水槽は水屋敷と呼ばれ、下部貯水槽は2001年より登録有形文化財になっています。

ジェラールはその後、日本初の本格的な西洋瓦、レンガ、土管などを製造する工場を設けましたが、横浜でコレラが大流行したため、やむなくフランスに帰国。ランスにある彼の墓所には石の鳥居と、3基の石灯籠が設えられています。日本が本当に好きだったことが偲ばれます。今も残る元町公園プール管理棟の屋根の一部にも、Gerard 瓦が使用されています。

元町公園内その他の見どころ

元町プールは1950年に開園した日本水泳連盟公認の50mプールです。
プールの横を進むと1931年に建てられ現在も活用されている5人立ちの弓道場があります。

遊歩道をさらに上がっていくと、横浜に唯一残された関東大震災前の外国人住宅の遺構が目に入ります。1900年初頭に建てられたと考えられ、現在はその地下部分だけが残っています。

関東大震災

1923年9月1日、関東大震災が起こります。当時フランス大使であったPaul Claudelが外交書簡の中で詳細を語っています。奈良道子が訳した「ポールクローデル外交書簡1921-27」によると、フランス領事館の建物は崩壊し、デジャルダン領事は死亡、生き残ったフランス人は、被災を免れたフランス船「アンドレ・ルボン号」で横浜を離れた、とあります。

横浜・山手西洋館

現在山手に残るほとんどの西洋建築は関東大震災後に建てられたものです。横浜市は山手地域の保存のため、7軒の西洋館を取得し無料で公開しています。 当日はそれぞれのクリスマスの飾りつけを楽しみながら、そのうちの5軒を見学しました。

実際の洋館を予め見学することで、その後、散策したフランス山にある旧フランス領事官邸の遺構の具体的なイメージを掴むことができました。

Bluff ブラフ

外国人は整備された山手の居留地にBluff○○と番号を付けていきました。居留地を広げるにあたり、山の尾根を千葉県から調達した房州石を積み上げて造成しました。石垣は各段に長辺(約80cm)と短辺(約25cm)が交互に並ぶように積む方法で、レンガの「フランドル積み」または「フランス積み」に相当します。横浜山手の特徴的な景観要素になっていることから”ブラフ積み“と呼ばれています。

横浜イギリス館

現在の建物は関東大震災後の1937年に新たに完成したイギリス総領事公邸です。鉄筋コンクリート造のコロニアル・スタイルの建物で、壁の厚さが40cmもある耐震性に優れた建物です。母屋の1階は公用に使用され、2階は領事夫妻がプライベートに使用していました。東側につく付属室は日本人使用人の住居として使用され、床は畳敷きでした。玄関の左側の「GR VI(=6世)1937]と印した紋章がジョージ6世時代に建設されたことを示しています。

大佛次郎記念館(Jiro OSARAGI)(1897-1929)

横浜に生まれた大佛次郎(本名 野尻清彦)は、鎌倉に住みながら終生、生まれ故郷・横浜を愛し続けました。1931年から10年間、ホテル・ニューグランドの一室を仕事場として、横浜を舞台とした「霧笛」や「幻燈」「帰郷」などの名作を執筆、ほかには「鞍馬天狗」「天皇の世紀」の作者としても親しまれています。

東大でフランス法を学ぶかたわら、フランス文学や歴史への関心も深く、パリ・コミューンの通史「パリ燃ゆ」を発表。「フランス」は大佛(おさなぎ)の文学を支えるバックボーンのひとつでした。 大の猫好きとしても知られ、猫について書いた書物は60編以上あり、家にはいつも猫が10匹以上いたそうです。

建物は洋風建築で、配色はフランス国旗の青(ステンドグラス)、白(壁・大理石の床)、赤(レンガ・タイル)を象徴しています。設計者の浦辺鎮太郎は、大佛のフランス好きを考慮して、このような三色旗の色調をデザインに取り入れたそうです。

旧フランス領事館

1875年にフランス軍が撤退したことにより兵舎が不要となったので、海兵隊当局はフランス山の永代借地権をフランス駐日外交代表部に譲渡。1896年にフランス人建築家Paul Sardaの設計で、山手のフランス山のふもとに領事館、フランス山の上の方に領事官邸が完成します。

旧フランス領事館官邸遺構

関東大震災により、領事館・領事官邸ともに倒壊しました。震災後、フランス山ふもとの領事館は複合施設を使用していましたが、山の手の官邸は1930年、スイス人建築家 Max Hinder の設計で再建されました。その官邸も1947年に火災で焼失してしまいます。現存している遺構は、その際に焼け残った一部分です。
建物はコンクリート層の上にレンガ造りの基礎壁をのせたもので、2階、3階部分は木造だったため、1階部分しか残されていません。遺構だけですと、全体像を実感できませんが、当時の写真を見るとかなり大きいことがわかります。

パビリオン・バルタール Pavillon Baltard

そのかつてフランス領事館のあったフランス山のふもとに鉄骨のモニュメントが展示されています。これは、1973年に都市開発のためにオルリー空港近くのランジス(Rungis)に移転するまで、パリ1区の現在のChâtelet-Les Hallesにあったパリ中央市場(レ・アール)の解体された食肉棟の地下鉄骨構造の一部です。設計者 Victor Baltard の名を取ってパビリオン・バルタールと呼ばれていました。

現在 、卵と鶏肉を扱っていた1棟がパリ郊外の Nogent-sur-Marne にイベント会場として復元されていますが残り9棟はすべて鉄くずとして売られてしまいました。パリ再開発のため全て取り壊された際、横浜市が19世紀末の鉄骨建築として貴重な学術的、文化的遺構であることからパリ市当局にその一部の移設を申し入れ、かつてフランス領事館があったこの場所に、復元設置されました。

Les Halles は、日本であれば旧築地市場のようなもので、パリの中心に100年余り存続して、パリ市民の胃袋を満たしてきた卸売市場ですので、年配のフランス人にとっては懐かしい思い出と結びついていることでしょう。

メダリオン

メダリオンは初代フランス領事館跡から発見された建物外壁に取り付けられていた飾りで、フランス共和国République Françaiseのイニシャル“RF”をかたどっています。フランス領事館のメダリオンは幾つも使用されていたとされていますが、今は一つだけしか残っていません。

元町ショッピングストリート

山手居留地に外国人が多く住むようになると、元町通りが山手の住居地と関内の業務地を結ぶ外国人の日常的な通り道になり、それに伴い、外国人を対象に商売を始める人が自然発生的に増えていきました。日本には珍しかった喫茶店やベーカリー、洋服店、花屋、西洋家具店などが軒を連ね、文明開化を支えたのが今の元町商店街の原型となります。

山下公園

山下公園は、横浜を代表する観光スポットですが、関東大震災の時は,がれきの集積所でした。震災の復興事業として、1930年に、捨てられた焼土、がれき、煉瓦などを利用して、海を埋め立て造成し、日本初の臨海都市公園「山下公園」がオープンします。1989年に横浜港130周年記念として開催された「横浜博覧会」に合わせて拡張し、現在の姿になりました。 今でも少し掘ると、がれきが出てくるそうです。

日本郵船 氷川丸

山下公園前に係留されている氷川丸の中にもフランス産の装飾を見ることが出来ます。
氷川丸は1930年にシアトル航路用に建造された、全長163m,1万トン級の貨客船です。太平洋横断254回, 船客数25,000余名の記録を残し1960年に歴史の幕を閉じました。その間、戦時中は病院船、敗戦後は引き揚げ船としても活躍。戦前の日本で建造され、現存する唯一の貨客船であり、重要文化財に指定されています。
船内の一等船客用の社交室や喫煙室ではフランスから直輸入された、照明や階段の手すりなどのアール・デコの装飾を見ることができます。

フランス波止場

フランス波止場は復興されることなく、震災の瓦礫で埋められ、のちに山下公園が整備された時に遺構が発見されました。

インド式の水飲み場

関東大震災の時、横浜に在住し被災した在日インド人を救済した横浜市民への感謝と同胞の慰霊のために在日インド人協会が建立したインド水塔で横浜市認定歴史的建造物です。

横浜開港資料館:旧英国総領事館

231210_event-img_16 波止場のあった「象の鼻パーク」の真ん前に建つのが旧英国総領事館で、現在の「横浜開港資料館」です。
有名な「ぺリーの横浜上陸」(1854年3月8日)の光景を描いたハイネの石版画はこのあたりの様子を描いたものです。ここに描かれている立派な木は、現在も旧領事館中庭にある玉楠の木(たまくすのき)とのことです。横浜大火や関東大震災で元の木は焼けてしまったようですが、再び芽をだして大きくなったものだそうです。

ガス灯は1872年横浜馬車道に初めて点火されました。高島嘉右衛門が、フランス人技師 Henri-Auguste Pélegrin のもたらした技術で設置しました。

まもなく夕暮れ。港が美しいイルミネーションの準備を始めようとしているのを感じながら解散となりました。異国情緒あふれる横浜のノスタルジーに浸りながらフランスと横浜の交流史をじっくり学んだ一日でした。

資料提供:大森順子
参加者の皆様からいただいた写真を掲載させていただきました。

【開催済】第48回輝く会「全国通訳案内士が伝える – 意外と知らない横浜の魅力 実践編」

仏領事館跡

コロナ禍の昨年11月にZOOMで開催し大変好評だった全国通訳案内士大森順子さん(パリクラブ理事)の横浜散策を今回はリアルで開催いたします。
12月初旬、クリスマスが近づきロマンチックな街並みが一層美しく映えるこの時期、フランスにゆかりのある名所をご一緒に散策したいと思います。

みなとみらい線の終点「元町・中華街駅」に10時集合した後、元町・中華街駅からスタートして、生麦事件のリチャードソンの墓、ジェラールの水屋敷、洋館(内部見学)、旧ゲーテ座、外人墓地、旧イギリス公邸、大佛次郎記念館(内部見学)、旧フランス公邸遺構、パビリオン・バルタールを見学後、中華街の「菜香新館」(広東料理)にて昼食。 午後はマリンタワー、グランドホテル、山下公園あたりまで歩き, 15時30分ごろ解散します。フランス人が参加の場合はフランス語のガイドも可能です。

山手234番館

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【レポート】第47回 輝く会 【蘇る伝説のル・マン24時間レース / 2004】

輝く会では去る11月4日(土)シーボニアメンズクラブにおいて第47回目となるイベントを開催しました。

2020年1月にオンラインセミナー「お金の教室」でお金に困らない賢い生き方を伝授くださったファイナンシャルプランナーの森本貴子さんを再び講師にお迎えしました。

そしてテーマは【蘇る伝説のル・マン24時間レース / 2004】〈チーム郷〉の優勝チームを支えた唯一の女性チームメンバーが語る 〈現代でも通用するビジネスマインド〉について。

自己紹介する森本さん。

自己紹介する森本さん。

フランス車とモータースポーツに詳しいル・マンに関しては拘りのある遠藤純也理事が進行役を務め、お二人の息の合った掛け合いで話は車からマネージメント案件に展開し、会場に訪れたル・マン・ファンで盛り上がりました。

ル・マンが100周年を迎え〈チーム郷〉も来年20周年を迎えるにあたり、森本さんには2004年、無名の〈チーム郷〉がなぜ総合優勝を勝ち取ることができたのか?を現在のビジネス・シーンにも応用できるマネージメント的な側面から語っていただきました。

メンバーの一員だった森本貴子さんに優勝までの道のりをまず振り返っていただきました。そして現在、森本さんは25名のメンバーをマネジメントするファイナンシャルプランナー会社の支社長、セミナー事業部長として活躍されていますが、その経験はどのように活かされているのかをお話いただきました。

講演会の様子

冒頭でパリクラブ輝く会の岩間理事より開演の挨拶があった後、森本さんの経歴等の紹介がありました。その後はパリクラブの遠藤理事より「ル・マン24時間レース」に関する基礎知識の説明がありました。

ル・マンのレース場は何処にあるのか?

ル・マンの紹介をする遠藤理事。

ル・マンの紹介をする遠藤理事。

遠藤理事が提示した地図によると、ル・マン市はパリからTGVで1時間ほどの西側に行ったところにあるサルト県の県庁所在地ではあるものの、ノルマンディーやブルターニュに向かう観光客は通り過ぎ、近隣のロワール川流域のお城を訪問する場合には寄り手前で留まってしまうという名前は聞くが何処にあるのか分からない街のように思えました。更に一般公道を閉鎖してレース場となるとは聞いてはいたものの、どの道がレ―スコースとして使用されるのかについては、パーワーポイントのアニメーションによる説明を聞いてようやく認識できた話であり、非常に興味深い説明でした。
解説はレース開催期間中のピットやメインスタンド周りの様子やレースの内容に進み、徐々に森本さんが当時活躍されていた場所の特定や関係者ではないと分からない内部の説明に入って行くに従い、森本さんとの掛け合いとなり本題に向けてスムーズに引き継がれて行きました。最後にレース当日のスケジュールの話になってメインスピーカーが森本さんに代わりました。

優勝までの軌跡とビジネスマインド

1999年に結成された「チーム郷」のル・マンへのチャレンジは当初はフランス側からも冷やかしに来ている日本のプライベートチーム=金持ちの道楽のように捉えられていてあまり心地よい出張ではなかったそうで、そこを森本さんのキャラとチャレンジ精神でめげずに毎年の参加を繰り返しているうちに向こう側からも本気度を理解する人達が増えて来て、仲間意識を持てるようになって行きました。最後に話題として出て来る「ル・マンの女神」が微笑みだした瞬間だったのかも知れません。

ビジネスマインドの解説の中で自著の本の紹介をする森本さん。

ビジネスマインドの解説の中で自著の本の紹介をする森本さん。

そこからは今度はチームマネジメントの見直しが始まり、日本的な手法から現地で優勝経験のあるチームの模倣でも良いからと相手の懐に飛び込んで行って多くのことを学び取ったとのことでした。最終的にはチーム郷のメカニックを全員ドイツに居住させるなどの大胆な手法を取り、徹底的に優勝経験チームのお作法を学んで行った結果、人によっては性格や考え方まで変化したという驚きの結果を出すことが出来ました。

そうこうするうちに2003年には第4位まで駆け上がり、2004年には優勝経験のあるトム・クリステンセン、リナルド・カッペロ、日本人の荒 聖治選手で国際ドライバーチームを組んで、大メーカーが出場しなかったという幸運にも恵まれ、フランスの地元からも応援される良い環境の中でついに総合優勝を勝ち取ったのでした。
最後に本当にル・マンの女神が微笑んでくれたというわけでした。

ル・マン24時間優勝のエッセンスとビジネスマインド

優勝までの実体験的な軌跡の解説の後は、その苦労の中で森本さんが学んで来たビジネスの世界でも通用するようなエッセンスの話に移行して行きました。幾つかのキーワードをご紹介しておきます。

  • BESTから学ぶ:最初はコピーからで良い。ビジネスシーンでも同じ。売り上げの高い人から学ぶ。
  • 個性を大切に;個性を尊重する。生活パターン、宿泊や食事の拘りも。それぞれのやり方でも勝ちパターンを知る。
  • チームワークを大切に;内輪で“戦わない”こと。相手の望んでいるものは何かを知ることが大切。
  • ゴールは同じであることの認識。同じ目標に向かって自分の役割を認識し何が出来るかを考えている状態がベスト。
  • リーダーの選定:実績のある人に目標設定してもらい、メンバーを味方に付ける人間力のある人。
  • 目に見えないものを信じる:奇跡や予測できないことや直感での判断等変化に対する順応性。

最後の「目に見えないもの」として、ル・マンでチーム郷に微笑んでくれた女神が挙げられていました。
では、勝利の女神は誰に微笑むかというと、夢を大切にしている人、夢に素直に生きている人、夢を諦めない人、人を大切にしている人が挙げられていました。
このル・マンには女神がいる!に関しては過去のレースの結果をことごとく見て来た遠藤理事も鋭く反応し、講演最後の場面で大いに盛り上がりました。

ル・マンレース会場でしか手に入らないHERMESのスカーフをお披露目する森本さん。

ル・マンレース会場でしか手に入らないHERMESのスカーフをお披露目する森本さん。

以下に参加された方々から頂いたメッセージをご紹介しておきます

#1.今日は、最高に素晴らしい機会にお誘いいただきまして、魂が揺さぶられる奇跡の時間を、本当に、本当に、本当に、ありがとうございました。 森本さんの人生のまだまだ一部だと思いますが、おひと言ひと言に魂が震え、涙が溢れ、止まらなくなってしまう瞬間が度々あり最高最善のタイミングで、森本さんとのご縁をいただきましたこと、そして、今日のように、素晴らしく貴重な時間をいただきましたこと感謝の気持ちでいっぱいです。 たまたま、偶然、お友達も参加していたりと、奇跡的なシンクロニシティにも、とても興奮しております。

#2.先ほどはお疲れ様でした。 2000年代だと、多くの人が日本企業でいかに務めていくかに腐心している人が多かったように感じます。(“一社懸命”な私だけの視点かもしれませんが。) あの時代に海外へ出て、日本企業に務めていては出来なかったようなことを手掛けてきた森本さんの経験は非常に貴重ですね。 昨今のビジネスにも通じるような体験談は私にとっても有益でした。 私にとっての課題でもある「まず行動する」ことを、今後実践していこうと思いました。

#3.今日はお誘いいただきありがとうございました。とても良いセミナーでした。 私もプレイングマネジャーで、大小チームを持ってきたので、改めて考えさせられました。 ありがとうございます。

以上で報告を終わります。

執筆:遠藤純也

【開催済】第47回 輝く会 【蘇る伝説のル・マン24時間レース / 2004】

〈チーム郷〉の優勝チームを支えた唯一の女性チームメンバーが語る 〈現代でも通用するビジネスマインド〉について

ル・マン(LE MANS)と聞いてあの過酷な24時間自動車レースのことを思い浮かべる方が日本ではどれほどおられるかは興味のあるところですが、フランスではこの伝統あるレースを知らない人はいないほどの格式のあるイベントです。
そのル・マン24時間レースが今年で100年目を迎えた節目の年に相応しい講演会を企画させていただきました。

日本からの参加では1991年にマツダのロータリーエンジン車が優勝、近年では2018年から2022年までトヨタが連続優勝するなどしていますのでご記憶にある方もおられるかと思いますが、その狭間の2004年に日本のプライベートチームが一度だけ優勝した記録があったのをご存じでしょうか。その名は”チーム郷”、ドライバーは3人体制でうち一人が日本人(荒聖治)、使用車両はドイツのAUDIという国際色豊かなチームの裏方で非常に重要な役割を演じておられた方が実は現在のお仕事の関係で2020年1月にオンライン開催した「お金の教室」の講師を務められた森本貴子さんです。

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