「アフリカ徒然草」( AU代表部員によるアフリカに因んだエッセイ)

第7回 アフリカ連合(AU)

AU の「A」はアフリカン
日本で AU というと、別のものを思い浮かべるかもしれないが、アフリカの文脈だと、「アフリカ連合(African Union)」のことで、略して「AU」である。筆者が人事異動の挨拶で、「AU 代表部に行きます」と言ったとき、何人かは「え?どこ?」と聞き返し、また中には「ブリュッセルですね、頑張ってください」と、欧州連合
(EU)の本部があるベルギーの首都に赴任すると勘違いした人もいた。残念! しかし致し方ない。まだまだ AU の知名度は日本では高くない。AU やアフリカに関する情報発信や理解を高めることも、AU 代表部(正式名称は、アフリカ連合日本政府代表部)の重要な任務の1つである。頑張らねば。
多少の誤解を恐れずに、「アフリカ連合(AU)は、国際連合(国連、UN)または欧州連合(EU)のアフリカ版」と言うと、何となく分かってもらえるだろう。アフリカ大陸の50余の国が加盟する世界最大の地域機関。この本部が、エチオピアの首都、アディスアベバに所在する。
AU はアフリカ諸国がメンバーなので、日本を含む非アフリカ諸国は正規のメンバーにはなれないが、アフリカと密接に関わっていくため、オブザーバーの地位(パートナーと呼んでいる)を得ている。日本は、アフリカ全体を束ねる重要な機関である AU を重視しているので、在エチオピア日本大使館とは別に、AU に対する日本政府代表部をアディスアベバに置いていて、2人目の大使が任命されている。他にも、米国、EU、中国、イタリア等が2人の大使を任命している。

●AU 加盟メンバー数は54+1=55
冒頭に、AU には50「余」の国が加盟、と書いたが、日本政府が正確に書く場合には、アフリカ大陸の「55の国と地域」となる。アフリカにある国の数は54。これに、西サハラを加えて55。日本を含む国際社会の中には、西サハラを主権国家として認めていない場合がある。よって「国」ではなく「地域」と表現しているが、AU では正式な加盟メンバーの1つである。西サハラを巡る問題は AU において重要であると同時にデリケートな問題であり、表記の仕方も含めて取扱いには慎重を期す必要がある。

●「アフリカの年」と「アフリカの日」
1955年にアジア・アフリカ会議(バンドン会議)が開催され、1960年前後にアフリカの多くの国が植民地からの独立を果たした。1960年は「アフリカの年」と呼ばれている。この年に、フランスから独立が認められた13か国を含め、計17のアフリカの国が一度に独立した。
この年に南アフリカを訪れた英国のマクミラン首相は、「変化の風がこの大陸を通じて吹いている。我々がそれを望むかどうかに拘らず、このナショナリズムの高まりは政治的な事実である」と述べた。
これに先立つ1959年、フランスのドゴール大統領は、フランス共同体加盟地域の独立を認める考えを示して、翌60年に第5共和制憲法の関連条項を改正した。因みに、この年のローマ五輪では、エチオピアのアベベ・ベキラ選手がマラソンで優勝し、サブサハラ・アフリカ出身者初の金メダルを獲得した。時代を象徴する出来事である。このヒーローは、4年後の東京五輪でも先頭でゴールした。 1960年12月の国連総会では、植民地独立付与宣言が採択され、全ての人々の自己決定権が確認された。採決において、7つの宗主国(米国、英国、フランス、ベルギー、ポルトガル、スペイン、南アフリカ)は棄権したが、反対はゼロ。世界は既に大きなうねりを迎えていた。
アフリカの年から3年後の1963年5月25日、エチオピアのアディスアベバにアフリカ統一機構(Organization of African Unity:OAU)が設立された。この日は「アフリカの日(Africa Day)」と定められ、毎年5月25日は、アフリカだけでなく、日本を含む世界各地で祝賀イベントが開催されている。

●OAU から AU へOAU は、アフリカ32か国の署名を集めて発足した。その目的を一言で言うと、
「OAU 加盟国における政治・経済的統合の促進と、アフリカ大陸からの植民地主義、新植民地主義の撲滅」である。
植民地支配から独立したアフリカは、アフリカの統合を一気に実現することを目指す急進派グループ(カサブランカ・グループ)と、より緩やかな連合体を追求するグループ(モンロビア・グループ)に2分された。前者は、アルジェリア、エジプト、ガーナ、ギニア、リビア、マリ、モロッコの7か国が中心となり、最初の会合を1961年にモロッコのカサブランカで開催した。そこには、エジプトのナセル大統領、ガーナのエンクルマ大統領といった著名な政治家がいた。後者は、リベリア、エチオピア、ナイジェリア、セネガル、カメルーンを中心とし、同年、リベリアのモンロビアで最初の会合が開かれた。中でも、エチオピアのハイレセラシエ皇

帝、セネガルのサンゴール大統領は有名である。
なお、元仏領のセネガル、コートジボワール、コンゴ等は、ブラザビル・グループと呼ばれる第3のグループを、上記の 2 グループに先駆けて形成したが、アフリカの統合に向けたタイムラインを巡る動きは、2つの立場に収斂されていった。
ハイレセラシエ皇帝は、これら2つのグループをアディスアベバに招待し、仲介を行った。そして、この地に OAU が誕生することになる。最初の OAU 総会の開会演説で、皇帝は、「この統一の会合が1000年続くことを願う」と述べた。
時代は東西冷戦期。まだまだ多くの困難を抱えながら、アフリカは、独立への戦いと、その後の国造りで奮闘していた。やがてベルリンの壁が崩壊し、21世紀を迎え、アフリカは、新たな統合に向けて、大きく舵を取り始めた。そして、アフリカの問題はアフリカ自身で解決することを宣言し、OAU を発展改組する形で「アフリカ連合(African Union:AU)」が設立された。

●アジェンダ2063と年間テーマ(次なる半世紀を見据えて)
OAU が誕生してから半世紀が経った2013年。AU は、今後50年で実現すべきアフリカ統合のための大計画「アジェンダ2063」を策定した。OAU 発足から100年後の2063年を見据えた長期計画書は、「7つの願望(Aspirations)」と
「15の旗艦プロジェクト」で構成される。
また、毎年1つのテーマを定め、その1年間、特に集中してテーマの課題に取り組むこととなった。2020年は「紛争停止」、21年は「芸術、文化、遺産」、そして22年は「栄養」が予定されている。
アジェンダ2063や年間テーマの内容については、別の機会に紹介させて頂く。

●AU 改革
AU は、設立後、様々な課題に対応し、アフリカの統合を進めてきた。その間、数多くの会議が開催され、多数の決議文書、政策ペーパー等が採択されてきた。しかしながら、スタッフの不足、能力向上の必要性、予算の自立性の欠如、加盟国の国内情勢等による困難もあり、AU の効果的な運営や政策の実施が十分にできていない。AU の機構改革が叫ばれ、試行錯誤が行われてきた。2021年2月の AU 総会(首脳級の最高意思決定機関)において、新たな AU 委員会(事務局)の機構改革が行われた。また、アフリカ大陸内貿易を促進するために、同年1月から大陸規模の自由貿易圏の運用が開始された。まだまだ困難は伴うが、AU は前を向いてアフリカの統合、そして繁栄を目指している。AU は、単に OAU から「O」を落としただけではない。

初代 AU 委員会の委員長を務めたコナレ元マリ大統領の言葉がアフリカの総意を表している。
「アフリカは、統合することで真価を発揮する。統合すれば、米国、欧州、アジアにも匹敵する力を持つ。誰からも打ち破られることはない。そのため、アフリカの分裂は絶対に避けなければならない。」
次回から、AU と聞いて、真っ先に、「アディスアベバにあるアフリカ連合」だと思って頂けたら大変嬉しい。

(AU代森本)

(本エッセイは、AU代表部員個人の見解を記したものであり、必ずしも当代表部または日本政府の立場を反映したものではありません。)

(AU 旗。拡大してよく見ると、アフリカの島国も漏れなく描かれている。)

(AU 総会(サミット)の模様。コロナ禍下ではオンライン(ハイブリッド)で開催。筆者撮影)

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