モンレアル便り

第3号

ケベック州

モントリオールが所在するケベック州は、カナダの中で唯一のフランス語圏の州です。面積では、日本の国土の約4.5倍の170万平方キロメートルで、カナダの10州の中で最大です。この広大な土地は、何億年も前に形成された岩盤の上にあり、豊かな自然と鉱物資源を有しています。大西洋とハドソン湾に挟まれ、セントローレンス河を含む多くの河川や無数の湖があり、水資源も豊かです。州南端のモントリオールは日本の北海道と同緯度にあり、州の北部は北極圏に達します。州の人口は約900万人で、国内でオンタリオ州に次いで第2位です。
ケベック州の州都は、同名のケベック市です。市の旧市街は、北米唯一の城塞都市で、1985年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。「ケベック」という単語は、先住民の言葉で「川が狭くなる所」を意味します。広大なセントローレンス湾から内陸に向かってセントローレンス河を進んでいくと、その名のとおり、ケベック市に近づくにつれ両岸の幅が一気に狭まっていきます。

州旗は、青地に白十字が描かれ、4つの青地の部分に百合の紋章が配置されています。青は元々は聖母マリアを表していたようですが、次第に忠誠心を意味するようになったと言われています。白十字はキリスト教。そして百合はフランス王の象徴です。カナダの歴史が、フランス王の野心を受けてケベックから始まったことを物語っています。この旗は、別名「le fleurdélisé」と呼ばれます。これは「百合の花(フランス王)をあしらった(旗)」を意味します。ケベック州の旗は様々な変遷を経て、1948年に現在のものが正式に採用されました。

アジアへの最短ルートを求めて

大航海時代の16世紀、フランスの国王フランソワ1世は、南米大陸を発見したフィレンツェ出身のアメリゴ・ヴェスプッチの航海を支援していました。アメリゴの叔父のグイド・アントニオが駐フランス大使に任命されると、当時24歳の若いアメリゴは、秘書として叔父に同行し、パリに赴任します。フランソワ1世の当時の一番のライバルは神聖ローマ帝国のカール5世でした。フランスは、1525年のパヴィアの戦いで神聖ローマ帝国軍に敗れ、国王はカール5世の捕虜としてスペインに投獄されます。囚われの身となったフランソワ1世は、母親ルイーズ・ド・サヴォワを摂政に立て、カール5世へ圧力をかけるために、ウィーン方面への侵略に関心を示す異教徒オスマントルコの第

10代皇帝スレイマン1世にも歩み寄り、同時に自分の領土の一部を譲渡する妥協策を示すなど、あらゆる手を尽くして和睦を実現し、出獄します。 新大陸への航路開拓と植民地化の競争において、フランソワ1世は、既に中南米を押さえたカール5世に対抗し、北米経由でのアジアへの最短ルートの開拓に着手します。そのために、国王は、探検家ジャック・カルティエ(Jacques Cartier)に白羽の矢を立てたのでした。

カルティエは、フランス北部のブルターニュ地方の港町サンマロ生まれ。16歳で、現在のニューファンドランド・ラブラドール方面に向かうタラ漁の漁船に乗り、船乗りとしてのキャリアをスタートさせます。カトリック教徒には、禁欲の日に肉を断つ規則があります。その間の信者たちのタンパク源として、カナダ北東部の漁場で獲れるタラは非常に重宝したのです。
フランス王の命を一身に受け、1534年の第1回航海で、カルティエは、約60名の乗組員と共に、2隻の船でフランスを出港します。タラ漁で何度も訪れたニューファンドランド・ラブラドールを通り、小説「赤毛のアン」の舞台になったプリンスエドワード島を発見します。そこから北上し、セントローレンス湾に入ってケベック州の東端であるガスペ(Gaspé)に到達。上陸し、十字架を立てて、フランスの領有権を宣言します。ケベック州を発見した最初のヨーロッパ人であるカルティエは、それから1542年までの間に、合計3回の航海を実施しました。1763年に、北米の領有を巡る「フレンチ・インディアン戦争」でフランスが英国に敗れるまで、ヌーベルフランス(新フランス)の基礎を作った人物と言っても良いでしょう。

モントリオールまで来て、最初の挫折

1535年5月、カルティエは、3隻の船に100人以上の乗組員と共に、再びガスペを訪れます。数か月後には、ガスペからセントローレンス河を上流に向かって500キロメートルほど進んだところにある、先住民イロコイ族がスタダコネ(Stadakoné)と呼んでいた集落に到達します。現在は、州都ケベック市になっている場所です。そこから更に川を遡って進み、オシュラガ(Hochelaga)と呼ばれる、現在のモントリオールに到達します。しかし、ここに来て、水流が急に速くなったため、カルティエは先へ進むことを断念し、スタダコネに引き返します。この地点は、現在はラシーヌ運河(Canal de Lachine)(注)と呼ばれ、住民たちの憩いの場になっています。この名称について、中国(La Chine)、すなわちアジアへの航海を阻む急流として、カルティエの船員たちが「中国急流(Rapides de Lachine)」と呼んだことに由来する、という説があります。その真偽は分かりませんが、カルティエの奮闘に思いを馳せながら水路脇を散策するのも良いかもしれません。
地形の断面図で見ると、モントリオールから西のオンタリオ湖、ナイアガラの滝を含む五大湖に向けて、一気に高度が上がっていることが明らかです。水流が急に速くなるのは納得です。
(注)定冠詞Laと中国(Chine)が1つになってLachineという固有名詞で定着。

カルティエたちが落胆し、スタダコネに戻ったのは同年10月。ケベック州の気候はかなり寒くなっていたため、フランスへの帰国は困難と判断し、スタダコネで越冬することになります。しかし、ケベックの冬の厳しさは並大抵のものではありません。まさに氷に閉ざされた数か月を過ごすことになりました。寒さと病気から、数十名の死者が出たと言われています。特に、大航海時代に多く発

症した壊血病は、カルティエの船団にも襲いかかりました。壊血病はビタミンC不足が原因で発症する病気で、臓器の血管が破裂して、出血性の障害が生じます。ビタミンCは皮膚、血管、骨、軟骨を形成するのに不可欠なコラーゲンの生成に必要な栄養素です。当時のケベックの冬に十分な野菜や果物を調達することはほぼ不可能だったのでは、と想像します。多くの船員を失ったカルティエの一行は、翌年、フランスに帰国します。

更なる挫折

ジャック・カルティエは、1541年、再びケベックを訪れます。しかし、今回はアジアに向けてではなく、スタダコネの北にあるサグネ王国(Royaume du Saguenay)を目指します。カルティエが先住民から聞いた黄金の王国サグネに、フランス国王フランソワ1世が関心を示したからでした。しかしながら、サグネを発見することはありませんでした。今回の出航のもう一つの目的は、永住地として植民地化を進めることでした。しかし、追って到着する予定の開拓民は来ませんでした。カルティエは、また厳しい冬を過ごして、翌1542年にフランスに帰航します。カルティエは、その後は航海に出ることもなく、1557年に65歳で病死するまでの人生を故郷のサンマロで過ごしました。
アジアへの最短ルートは発見できなかったものの、カルティエは、セントローレンス河一帯の地域の地図を作成し、これをもってフランスがこの土地の領有権を主張するに至る土台を作りました。国王フランソワ1世は、カルティエの功績を讃え、「騎士(chevalier)」の称号を与えました。なお、ヌーベルフランスがカナダと国名を変えるのはまだ先ですが、先住民が村や居住地を意味するKanataをこの地域の呼称と紹介したのもカルティエの功績と言えるでしょう。
カルティエは、1541年の3回目の航海でケベックを訪れた際に、スタダコネを「シャルルブール・ロワイヤル(Charlesbourg-Royal)」と名付けます。フランソワ1世の三男でオルレアン公のシャルル2世(1522~45年)に因んだ名称です。さしずめ「王家シャルルの領地」といったところでしょう。しかしながら、そう呼ばれた期間は1541~43年の2年足らずと非常に短い期間でした。町の名前は、23歳で病死したシャルルと同じく短命でした。

領土とは誰のもの?

自国の領土はどうやって決められてきたのでしょうか。侵入者たちとの間で、異なる文明や習慣が衝突した場合、どう解決するのでしょうか。国家が成立する要件や権利義務などのルールは、国際法で定められています。しかし、そういった現代の「常識」を一旦横に置いて過去の国家の成り立ちを振り返ると、様々な矛盾があることが分かります。人類は、誕生してから世界各地に分散し、定住した者はその土地を自分たちの縄張りとして、いわば現代国家の領土に類する「統治」を行ったと思われます。誰も住んでいない土地であれば、早い者勝ちでその空間の領有を主張することができるでしょう。ジャック・カルティエがケベックに到着した時、既にそこに先住民がいたことは明らかです。しかしながら、カルティエはその土地に十字架を立てて、フランスの領有権を主張します。つまり、ここは我々フランス人の、またはフランス国王の土地である、と。一方、先住民からすれば、一体この侵入者たちは何の権利をもって一方的に領有権を決めることができるのか、

と疑問視したことでしょう。事実、先住民は、十字の形をした建造物の意味するところについて、カルティエに尋ねるのですが、カルティエは、これは単なる目印で、船を接岸させるために必要なものだ、嘯く(うそぶく)のです。先住民たちは、一抹の不安を覚えたかもしれませんが、それが悪い方向に具現化するのはもう暫く後のことです。地元民たちは、物々交換のための毛皮などの品を持って、カルティエの一行の所へ集まってきます。カルティエは、ケベックを発見した最初のヨーロッパ人と言われていますが、先住民が物々交換を始めようとしたことや、その場に女を連れてこなかったことから、彼らが過去にヨーロッパ人との接点を持ったことがあったのではないか、と論じる専門家もいますが、真偽は分かりません。彼らは、ひょっとしたら、十字架の形をしたものを異邦人が身につけていたのを見たことがあったのかもしれません。
大航海時代、ヨーロッパ諸国の王たちは、彼ら同士の勢力拡大抗争に明け暮れ、先住民の権利あるいは存在そのものへのリスペクトを欠いていたように思われます。

カルティエは、第2回目の航海でスタダコネに行った際、イロコイ族の首長ドンナコナ(Donnacona)と出会います。ドンナコナの家に招かれ、タバコを薦められたりしたようです。彼らと交流していく中で、黄金のサグネ王国の存在を知ることになります。フランスに帰国する際、カルティエは、連れ戻すことを約束して、ドンナコナの2人の息子ドマガヤ (Domagaya) とタイニョアニ (Taignoagny) を含む10人の先住民を船に乗せます。大発見の証拠として国王に披露し、現地の状況について彼らに証言をさせるためなのでしょうか。第3回目の航海では、約束どおり、二人の息子を連れてスタダコネに戻って来るのですが、その3年前の1539年に、ドンナコナは死去していたことを知ります。子供たちに会えないまま息を引き取った首長は、どのような思いだったのでしょうか。

ケベック市の建設

カルティエの2度目の挫折以降、ヌーベルフランスへのフランスからの入植は暫くストップしていました。しかし、彼が3回にわたって探査を行い、先住民とも交流した結果、この地域で毛皮が多く産出されることがヨーロッパに知れ渡りました。カルティエの死後から十数年経った1580年頃から、フランスの貿易商たちがヌーベルフランスに来て、セントローレンス河沿いに複数のビジネス拠点を設置し始めます。当時の国王アンリ4世は、ヌーベルフランスの最初の恒久的な都市であるケベック市(Ville de Québec)の建設を命じます。その頃のフランスでは宗教革命が起こっていて、カルヴァン派のプロテスタント信者、いわゆるユグノーが迫害されていました。アンリ4世は、フランス宗教戦争(ユグノー戦争)で倒れた叔父の跡を継いでユグノーの盟主となりますが、その後、聖バルテルミーの虐殺から逃れる際と、王座に就く時の2回、都合良くプロテスタントからカトリックに改宗しています。
国王は、植民地政策を進めるため、貴族のピエール・ドゥグア・ド・モンス(Pierre Dugua de Mons)を北米に派遣します。ドゥグアはユグノー戦争でアンリ4世のために戦ったカルバン派の軍人ですが、後に、探検家、貿易商、地理学者、植民地支配者など多数の肩書きが追加されます。それはまさにケベック植民地化に尽力したことの証左でしょう。その貢献に対して、国王からは特別の年金を与えられ、要職(フランスの知事のポスト)に就くことを認められます。国王の命を受けたドゥグアは、アンリ4世のお抱え地図制作係であったサミュエル・ド・シャンプラン(Samuel de Champlain)と共に、1603

年、ユグノーの船員たちを伴い、1603年から数回にわたってスタダコネを訪れ、都市建設を進めます。それに当たり、国王はドゥグアに対し、北緯40度から60度(現在のケベック州をほぼカバーする範囲)の土地を植民地化する権限と、その土地での毛皮貿易の独占権を与えました。そして遂に、1608年、正式にケベック市が誕生しました。

ケベック州の中には、ヌーベルフランス建設の父として知られるカルティエやシャンプランの名前に因んだ広場や橋が複数あります。ケベック市のランドマークとして名高いホテル「シャトー・フロントナック」の荘厳なロビーを抜けると、そこに「1608」という名のバーがあります。言うまでもなく、ケベック市建設の年に因んでいます。通常は予約は受け付けていないので、開店時間近くになると、このバーで一杯楽しみたい人々が、バー手前の受付カウンター付近に集まってきます。

シャトー・フロントナックのバー「1608」

シャトー・フロントナックのバー「1608」

北米大陸に足を踏み入れた最初の黒人

ケベック市が建設された際、ヌーベルフランスの入植者の中に、当時にしては珍しい人物がいました。マチュ・ダ・コスタ(Mathieu da Costa)という名のポルトガル生まれのアフリカ系フランス人です。大航海時代、多くのアフリカ系の混血人(クレオール)が船員や通訳として雇われていました。マチュは、複数のヨーロッパ言語に加え、カナダの先住民ミクマク族の言語(ミクマク語)を含む少数民族の言語も話す才能の持ち主でした。歴史上の主要な登場人物ではないためか、彼に関する情報はあまり多くはありませんが、彼の存在は当時の時代背景を物語ってくれています。
マチュは、ケベック市建設の1年前の1607年初頭に、オランダのアムステルダムで雇われていたことが記録されています。世界中の海を越えて植民地を広げていた英国とオランダは、当時「旬」だった北米に勢力範囲を拡大していました。先住民と様々な交渉を行うための通訳要員として、マチュのような多言語を解する人材は、言うまでもなく垂涎の的でした。セントローレンス河流域での貿易を巡り、オランダはフランスと衝突します。その際に、オランダの船団がドゥグアの船を拿捕します。そこに同船していたマチュがオランダに連れ去られたものと考えられています。その後、1608年にドュグアが3年間の契約でマチュを雇い、ケベック市の建設に従事させます。その後の消息は明らかではありません。フランスで投獄されていた記録もあれば、ケベック市で死去したとも言われています。いずれにせよ、彼は、最初に北米大陸に降り立った黒人と言われています。

(了)

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