パリ通信(13)「下から見たフランス」フランスの新しい波、マクロン新大統領

パリ通信(13)「下から見たフランス」

2017年6月3日

フランスの新しい波、マクロン新大統領、
“ Macron le Président, la nouvelle vague de la France ”

パリクラブ参与
綿貫 健治

今年のフランス大統領選挙ほどフランスが注目されたときはない。米国大統領選、英国EU離脱についで、フランスでもポピュリズム政権が誕生するのではと全世界から注目された。ぜひ、この目で直接選挙を見たいとロンドンでの国際会議のついでにフランスに立ち寄り大統領選を見た。個人的にはフランスに駐在、出張、旅行を通じて欧州連合(EU)の創設を決めたマストリヒト条約(1992)、EU憲法反対の国民投票(2005)、ギリシャに始まる欧州金融危機(2010)、フランステロリズム(2015-16)を身近に見てきたので、今回も是非選挙のプロセスとフランスの変化を見たかった。
歴史的大変革が起こるとの予感があり選挙の前後約1週間、朝晩はテレビニュースを見てからカフェでしっかり新聞や雑誌で確認し、日中は町の噂を聞きにあちこち訪れくたくたになるまで歩いた。極右政権が誕生するかとの危惧もあり大変心配していたが、幸いなことに決戦投票で党派に属してはいない中道派、若手新人の大統領候補エマニュエル・マクロンが選出され安心した。しかし、新大統領の若さとカリスマ的人気に魅了されるものの、この大統領選挙は今までの伝統的フランス政治の延長上にない「断絶の選挙(une grande rupture)」で「分断されたフランス(un pays fracturé)」を生んだ。これからのフランスが心配される。この2つになったフランスを「どう解決するか(réconcilier les deux France))」が問われている。6月11日から18日にかけて大事な国民議会の総選挙が行われるが、以下、私の大統領選視察レポートである。

マクロンが入ったエリゼ宮

マクロンが入ったエリゼ宮

波乱の投票結果

フランス大統領選挙は第1回の投票で過半数を制する候補が出なければ第2回目の決戦投票が行われる仕組みである。第1回投票は4月13日に行われたが泡沫候補を含み11人の候補者で争われた。実質的な主要候補者は中道派・無所属で「前進運動(En Marche)」を立ち上げた元大統領府副事務局長、経済相エマニュエル・マクロン(39)、父から党を受け継いだ極右政党「国民戦線(FN)」党首マリーヌ・ルペン(48)、共和党で元首相フランソワ・フィヨン(63)、極左で共産党の支援を受け「不服従のフランス」を率いる元社会党ジャン=リュック・メランション(65)、社会党で前教育相ブノア・アモン(49)の5人であった。既成2大政党である共和党(LR=Les Républicains)、社会党(PS=Parti Socialiste)の弱体化でマクロン、ルペン、フィヨン、メランションの一種の「エスカルゴ状態」になり、決戦はマクロンとルペンと第5共和国の大統領選挙始まって以来初めて左派と右派の既成2大政党の代表が欠落した選挙となった。前代未聞のスキャンダル、中傷合戦、政策プログラム、内容が低く、討論会も問題の本質から離れた感情的な議論が多く、近代では伝統的な品格を疑われてもしかたのない選挙戦であった。
結果としてマクロンが決戦投票で66.10%(2、075万票)を集め33.90%(1、064万票)のルペンを破った。しかし、マクロン票の半分は反ルペン票で、決戦投票率は74.56%と第1回や2012年大統領選挙より少なく、その上棄権者25.44%、白票・無効票が8.56%と多く、マクロンへの実質的投票は第一回目の投票率の25%前後と言われ皮肉屋のカナル・アンシェンヌ誌は「25%大統領」と呼んでいた。マクロンは持ち前の情熱と勇気で大統領になる夢を実現し、結果的に国民が主権を取り戻しマクロンに希望を預け両者が勝利者であった。ルペンは勝利を逃したものの1000万票を集め2002年の父ジャンマリ・ルペンの2倍近い得票を得てFNとしては歴史的な得票となった。フランスが二つに割れたのである。

パリの決戦投票場 (多くの所でルペンのポスターが他人のポスターになっていた)

パリの決戦投票場
(多くの所でルペンのポスターが他人のポスターになっていた)

フランス衰退を招いたオランド元大統領

「フランスはいつからこんな国になってしまったのだろう」というフランスの嘆きをあちこちで聞いた。その原因をミッテランやシラクまでもどる人もいたが、大多数はサルコジ、オランド時代、特にオランドからという意見が多かった。2007年に選出された移民2世、ユダヤ系、アメリカ派の二コラ・サルコジ大統領は新自由主義を信じ対米関係改善、NATO復帰、財政・治安政策などで実績を残した。しかし、経済では不幸にも米国経済危機もあって計画通りの実績を残せず、有名モデルで歌手のカーラ・ブルーニとの再婚、ハデハデ(bling-bling)な豪遊、きわどい友人関係、不透明な選挙費ねん出などのスキャンダルが目立ちで損をした。今回も、共和党予備選に出馬し再選を期したが時代の変化が受け付けず元首相のフランソワ・フィヨン、アラン・ジュペに敗北し決選投票にはフィオンが進出した。
2012年、本命のドミニク・ストラスカーン(前IMF専務理事、通称DSK)が強姦未遂事件で不出馬、社会党の内紛で候補者がいず、消去法で大統領になったオランドは実績が残せず不人気で早々と大統領選出馬を辞退した。実力はあるが感情むき出しアメリカ的で派手なサルコジに対して、オランドは一歩引いたエリートを演出し「ノーマルな大統領(Président normal)」のイメージを打ち出しサルコジを破り17年ぶりの社会党出身大統領になった時は大いに期待された。政治学院、HEC商業学校、ENA卒のエリートで政治学院でも教鞭をとり、ヨーロッパ的で控え目で人のよさそうなキャラクターがフランス人の心をゆすぶった。国民は正式には結婚していない(PACS結婚)美人の妻、ヴァレリー・トリルベレールへの関心も高かった。しかし、ふたを開けると、当初は富裕税などの左派的政策で人気を落とし、EUではドイツの独走を許し、国内では景気回復、失業率、雇用増進、安全保障などで国民に約束した公約が実現できず、逆に不倫事件、閣僚離脱、後手のテロ対策、最後には右派寄りの政策が目立ち第5共和国で最低の支持率を記録し今回出馬を断念した。2016年にル・モンド誌記者が出版したオランド大統領との本音インタヴューをまとめた著書「大統領はそんなことを言うべきではない(Un président ne devrait pas dire ça)」は大失敗(ベストセラーになったが)で政策の裏では全く別なオランド像を暴露してしまった。
特に問題なのは社会党をまとめきれず分裂を招いたことである。社会党はミッテランの長期政権と大統領への確執でミッシェル・ロカールやジャック・ドロールのような有望な後継者を失い、その後の若手の養成、継承がうまくいっていなかった。事実、後継者と言われたドロールの娘で期待されたマルティーヌ・オブリは伝統的社会党左翼主義にこだわり第一書記までなったが中道左派の先端を走るオランドに負けた。ミッテランの秘蔵っ子、37歳で首相を務めた天才児ローラン・ファビウスは薬害エイズ事件で失脚し社会党ファンをがっかりさせた。経済に明るくIMF専務理事を務め国際派で本命と言われた元蔵相ドミニク・ストラスカーンの失脚は痛かった。
ほとんど決まっていたエースを失った社会党は「過去の巨象(éléphants)」が分派をつくり方向を失った。フランス人は私生活に立ち入らないが、オランドは私生活でも離婚、不倫があり公務に影響し社会党政権内での閣僚離脱も多かった。オランドの政策に反対し、今回の選挙でフィヨンと第3位を争ったジャン=リュック・メランション、大型脱税疑惑のジェローム・カユザック予算相、中道政策、緊縮財政に反対し辞任した経済相アーノルド・モントブール、一緒に飛び出したブノア・アモン国民教育相、極め付きは社会党の将来はなしと社会党を飛び出した元首相マニュエル・バルス、「私は社会党ではない」と社会党を出て大統領になったマクロンなどカリスマ性とガバナンスに欠けた大統領であった。
社会党予備選は低調で、元首相、改革派で本命のマヌエル・バルスとブノア・アモンとの闘いになったがバルスが右派に近いこととその攻撃性を批判されアモンが勝利した。そのアモンが第1回選挙で7%しかとれず同じ左派出身のマクロンやフランス極左「屈しないフランス(La France insoumise)」のジャン=リュック・メランションに大きく水をあけられた。カリスマ性にかけ基本所得を全国民に保証する「ベーシック・インカム」など不可能な政策を打ち上げ、オランド社会党(PS)の責任を取らされた。国民側に立って熱弁する極右FNルペンとホログラムを使って複数個所でプレゼンするカリスマ性と弁舌性高い極左・共産党系のメランションに票をとられてル・パリジアン誌は「フランス社会党の終焉(La fin du parti socialiste)」(5月10日)と宣言、元首相のバルスは「社会党は終わった(La parti socialiste, c’est fini)」と言って社会党を去った。

マクロン新大統領の誕生

決戦投票翌日の新聞 5月7日の決戦投票翌日の新聞は一面でマクロンが第25代フランス大統領になったことを報じた。各紙の一面報道を見ると新聞社の姿勢がわかって面白い。

決戦投票翌日の新聞
5月7日の決戦投票翌日の新聞は一面でマクロンが第25代フランス大統領になったことを報じた。各紙の一面報道を見ると新聞社の姿勢がわかって面白い。

ル・モンド(中道左派・穏健) 
「マクロン勝利、大統領への挑戦(Le triomphe de Macron, les defis du président)」
ル・フィガロ(中道右派)
「勝利へ前進(La victoire en marchant)」
リベラシオン(中道左派)
「(マクロン)よくやった、(ルペン)よく戦った(Bien joué, bien fait)」
ル・パリジアン(中道、大衆紙)
「39才で大統領とは(39 ans et Président !)」
レ・ゼコー(経済紙)
「挑戦するフランス(La France qui ose)」
ラ・クロワ(カトリック系)
「壊れやすい大勝利(Une victoire large et fragile)」
ウマニテ(共産党系)
「新しい挑戦の始まり(Un nouveau combat commence)」
ザ・タイムズ(英:保守系高級)
「マクロンのランドスライド勝利(Landslide for Macron)」
ウオールストリート・ジャーナル(米:経済紙)
「マクロン、仏大統領に選出される(Macron elected French president)」
番外
カナル・アンシェーヌ(独立系、風刺)
「マリーヌでもなく、ルペンでもない(Ni Marine, ni Le Pen)」(決選投票前)
「オランドからマクロンへの助言:エリゼでは若い顧問に気をつけろ(Conseil de Hollande á Macron : A l’Elysée, méfie-toi de tes jeunes conseillers !)(決選投票後)

 各新聞社の本音はサブタイトルにあるが、サブタイトルでは歓喜と落胆、結束と分裂、安心と不安、圧勝と消去法勝利など建前と本音がちらついていた。メディアはこの時とばかりマクロンとルペンの対決を掻き立てて盛り上げたが、国民は冷静に判断し順当な結果を出した。社会学者のエマニュエル・トッドが言ったように、フランスは「拡大するグローバリゼーションと民主主義の疲れ」が出て、国民が長年結果を出さない既存政党と老政治家が跋扈する政治組織を見捨てた選挙であった。経済、EU、難民が主なテーマとなったが、一番大事な経済成長を上げるため経済政策、失業を減らす労働政策、ディジタル時代に勝つための政策などの産業構造改革案などが具体的に論議されなかった。
結果的に、ド・ゴールとミッテランを意識してイメージつくりをして、最後まで強いフランスの建設、フランスの理念(自由・平等・博愛)の維持、EUの維持と改革を強く訴えたマクロンが勝利した。国民は「救世主と夢をかなえてくれる人」を待っていたのである。ジャンヌ・ダルク、ナポレオン、ド・ゴールのような救世主には年齢や経験は問題でなく、世界と戦えるグランゼコール出の正当派エリートが必要で、経済的には企業リーダーの支援を受け、アントルプルナーを擁護しディジタル世代に支援された独立派39才のエリートが経済をよくしてくれるとの期待は高かった。反対に、第1回投票で極右FNやルペンや極左のメランションの得票を合わせると40%もありマクロンとフィヨンの合計票と拮抗していたのも問題であった。
フランスは新しいフランス建設への第一歩を踏み出したので今後の混乱も当然ある。私がいろいろなところで話した人たちはマクロンをけなしながらも彼の若さ、インテリジェンス、国際力を認め支援をしたいと言った人が多かった。時々話題になるマクロンとブリジットの25歳の差はほとんどの女性は気にしていなかった。マクロンが2期つとめると、ブリジットも70歳を超え体力的にファースト・レディの任務をこなせるかとの心配はしていた。しかし、問題はあるまい。アメリカ好きで流ちょうな英語を話すマクロンは、15歳の高校生の時に40歳の一見ジェーン・フォンダ風のたくましいフランス語と演劇の先生ブリジットに恋をした。それ以来、周りのうわさには耳を貸さずマイペースで相思相愛、二人の関係も「前進」している。

マクロンの勝因

約1年前、マクロンが閣僚でありながら「右派でもない、左派でもない(Ni gauche, ni droite)」政治運動「前進(En Marche)」を立ち上げたとき、ほとんどの人は彼が大統領になるとは信じていなかった。その時の予想では共和党はジュッペ、社会党がバルス、この既成勢力に対して対抗勢力極右FNのルペン、新興勢力の前進マクロン、屈しないフランスのメランションが対抗する形であった。しかし、新しい時代の波でこの予想は覆され共和党は予選でフィヨンが終盤で追い上げて勝ち、社会党は右派的バルスが嫌われアモンとなった。決選投票はフィヨンとルペンで争われるだろうとの予想もフィヨンのスキャンダルで覆りマクロンとルペンとの戦いになったいきさつがある。表向き候補者をみると元大統領サルコジ、元首相ではジュッペ、フィヨン、バルスが参加する豪華な選挙であったが、裏では民意は分断、政界は分裂、ポピュリズムとグローバリゼーションの波に洗われ国民は候補者を並列に扱った。この分裂のひどさは第1回のトップの得票率の低さ、1位から4位までの差はたった1.72%が物語っている。
この混戦を制したマクロンはどんな人か、また、その勝因は?マクロンに会った人はすぐにマクロンを好きになり「いつかこの人は大物になる」と予感をもった。単なる秀才ではなく、カリスマ、リーダシップ、教養、思想、愛国心、表現力、性格など「大統領の器」であった。よく、マクロンは政治に興味がなかったと言われるがそんなことはない。小さい時からしっかり準備した本人と彼をしかりサポートした周りの人がいたから大統領になれたのである。政治学院、ENAを卒業し会計監査院のエリートコースからビジネス界に入り、ロスチャイルドの共同経営者を経験したのもその手段で、その後オランド政権で首相顧問、閣僚(経済相)になった時には古い政治を見て「自分がならなければだめ」と意思表明をはっきり表に出した。「作られた大統領(le président fabriqué)」という人もいる
友人で実業家・評論家、政界の有力アドバイザーのアラン・マンクは「彼に2017年は早すぎる、2022年に出馬しろと勧めたが拒否された。彼は正しかった」と言っているように彼は待てなかった。「今でしょ」と立候補のタイミングの「スペース」を見つけたのはさすがである。一度も国民選挙でえらばれず既存政党のような基盤もなかった。しかし、人々が既存政党やシステムに飽き、分裂し、怒って「自分たちの夢をかなえる英雄を探している」と早熟で天才のマクロンは歴史の流れをうまく読みとった。
マクロン流にしっかり準備し、39歳、史上最年少で大統領にえらばれた。第1回の選挙で決戦投票の候補者に選ばれた時には、尊敬するミッテランの言葉を借りて「歴史的勝利だ(Quelle histoire !)」と叫んだそうだが、3回の挑戦でようやく大統領になったミッテランと比べて1回の挑戦で大統領をものにした彼がいかに恵まれているかわかる。なぜ、そんな彼が大統領にえらばれたのか。以下、私の分析である。

1) フランスの夢を実現する英雄待望論

 フランス人は基本的に「悲観論者」であるが「夢に導かれる」国民性である。つねに現状に満足せず究極の理想を求める。特に、フランス民主主義の基本「自由、平等、博愛」が侵され、フランスのアイデンティティを失うことは許されない。2017年、調査会社イプソス(IPSOS)の22か国調査で、フランスは「世界で最も悲観的な国民」となっていた(ル・フィガロ、2017年2月6日)。特に、「フランスの状況を改善するためにはゲームを変えるリーダーが必要か」の質問には調査の80%の人が「イエス」と答え調査国のトップであった。
そこにマクロンが登場した。マクロンは既存の政党や政治システムを変革し「強いフランス、世界のフランス、繁栄するフランス、文化国フランスへの回帰」を訴え「フランスの夢と希望」を強調した。マクロンは夢や希望を与える英雄への第一歩を築いたのである。国民は既存の政党システムや一部のポピュリズムに恐怖を持ち、もっと高尚で世界的な「フランス人の夢と希望」を実現したかったのである。選挙後に大衆紙「パリ・マッチ」(5月17日号)が「エマヌエル・マクロン、大統領:希望の勝利(Emmanuel Macron président, L’espoire a gagné)」のタイトルでマクロン夫妻の勝利の写真を載せたのはまさに当をえたメッセージであった。

2) インターネット通じた選挙活動

 マクロンは「スタートアップ大統領」と言われるほどアントルプルナーの育成に熱心である。経済大臣の時にディジタル担当でもあったのでこれからの産業と若いアントルプルナー育成に力を入れている。ジャック・アタリにオランドを紹介されたころから国民と直接対話するために、いつかアメリカのオバマがインターネット世代を巻き込んで勝利したようにインターネットやボランティアを動員し国民との直接対話を政治に導入することを考えていた。2012年の大統領選挙で若手の元マッキンゼー、アントルプルナー、ギヨム・リジェと知り合いインターネットやボランティアを使った個別訪問による調査をはじめオランドの勝利に貢献した。リジェはオバマが勝利した2008年の大統領選挙でボランティアを経験し、ノウハウをフランスに持ち帰りハーバード時代の友人とヨーロッパで初めての選挙キャンペーン会社(LMP-Liegey Muller Pons)を創設した。今回の大統領選でもマクロンの「前進」運動を戦略的に支援した。この戦略が功を奏し始まってから3か月間に5000人のボランティアが30万戸訪問し、10万人と話し25000件のアンケートを入手し若者の支持者を増やした。
 また、マクロンはアンケートから意味分析・診断するアントレプルナー「Proxem」を使ってフランス国民の要求を集約した結果、キーワード「家族」、「社会的保護」、「連帯」などが抽出されフランス人が政党を越えたもっと基本的で大きな変革を望んでいること確認し2016年11月に2017年5月の大統領選挙出馬発表の参考にした。同時に企業文化の革新や若者や起業家の興味を喚起するイベント会社「Axl Agency」テサンディ(Axelle Tessandie)社長を「前進」運動の公式アンバサダーとして採用して若者を中心とした集会を開き、12月に開かれた集会には15000人が集まった。このようにマクロンは「このままでは親より豊かになれない」と感じ不満の多い1980―2000年代生まれの「ミレニアム世代」以降の若者を確実にリードしている。詳しくはテクノ情報配信会社「The Bridge」を参照してほしいが、アントルプルナーが「マクロン現象(le phénomène Macron)」を起こすことを手伝い、フランスを担う新しいジェネレーションを掘り起こしていたのである。

3)マクロン支援者(リフォーミスト)の支援

マクロンを支援する人は日々多くなっている。マクロンはリセの時代から飛びぬけた才能と人気があり、人当たり良く人を魅了する術を備えていた。高等教育もエリート、政治だけでなく文学、哲学に精通し、知識の吸収と仕事が早く、トニー・ブレアー的端正なイメージをもち温かい人間的な魅力もある。一部の人は、マクロンは「人たらし(copain avec tout le monde)」と言うが、彼は人を選び彼の周りにはいつも一流の人が集まる、こういう魅力ある人間をほっとくわけがなく成長の各段階でフアンやスポンサーがついた。特に若者と女性の支援者が多い。16歳で40歳のフランス語の先生の心をつかみ、政治学院、ENA在学中から財界、政界の中心人物にかわいがられ、大学では20世紀を代表する哲学者ポール・リクールの深い指導を受け、ENAの研修でオワーズ県庁研修中にミッシェル・ロカールを支援している大金持ちの実業家アンリ・ヘルマンに会いロカールが主催するもっとリベラルな「第2左翼」活動に参加した。伝統的社会党には飽き足らず社会主義と市場経済の融和をめざし社会的な改革を狙う進歩的なロカール主義はマクロンだけでなく、元首相のマニュエル・バルス、今度首相になったエデュアール・フィリップなどの有能な若者に影響を与えた。
財務監査院時代にオランド大統領顧問のジャック・アタリに目をつけられたのは大きい。サルコジ政権の成長戦略を研究するアタリ委員会(La commission pour la libération de la croissance)にスカウトされ、アタリ報告・提案書「フランスを変革する300の提言(300 décisions pour changer la france)をまとめた。アタリ委員会には大企業(CAC40)、中小企業、政府、教授、経済学者、医者、弁護士、議員、研究機関、メディア、EU官僚、有名外国人など各界の代表が42人選ばれていて、ここでもマクロンは実力を発揮し多くの知己と信頼を得た。フランスの政財界を動かす大物とおくせず議論をしているマクロンの仕事ぶりを見て、ジャック・アタリは「チャンスを引き付ける磁石(un aimant qui attire la chance)のようだ」と評し、「いつか、大統領になるかもしれない(Un jour, Emmanuell sera président de la République)」とその器を見抜いていた。
何人かの推薦で次の職場ロスチャイルド投資銀行にスカウトされ、ネスレのフアイザー食品部門買収などの大型買収などで実力が認められ共同経営者まで出世した。マクロンにジーメンスIT部門買収を手伝ってもらった元財務相でアトスグループ会長ティエリー・ブレトンは財界を代表してマクロンを支持した。選挙資金はアメリカ方式をとり外国を含みもっぱら幅の広いドネーションに頼ったが、ロスチルド時代の収入や資産の売却などもした。しかし、実業家アンリ・ヘルマンなど一部の富豪がマクロンの政治活動を支援して「前進」運動の活動費や事務所の提供をし、学生、アントルプルナー、ビジネスマンなどの若者などのボランティアが無償で選挙を手伝ったのが大きい。「前進」運動が発足してから現在閣僚になったリヨン市長で改革派のジェラール・コロンボ、中道派で「ドコモ(Docomo)」党首のフランソワ・バイルなどのベテラン議員がマクロンを助け、大統領決戦では予備選で敗北したフィオン、アランジュッペ候補、アモン候補、社会党を飛び出たバルス元首相、ロワイヤル環境相、ジャン=イーヴ・ルドリアン防衛相、メンタージャック・アタリなど大物が支援に回った。

マクロンとは何者か

マクロンは1977年12月、フランス北部ソンム県アミアンに生まれた。人口35万人、都市ランキングで28位の中都市である。アミアン大聖堂に代表されるように中世の雰囲気の残るきれいな街で、出身者としてはマクロン以外に小説「80日間世界一周」で有名なジュール・ベルヌが有名である。父は神経学者、母は医師で地元のブルジョア家庭の息子、高校は地元の名門校「ラ・プロビデンス」からパリの名門校「アンリ4世」に転校し、大学はパリ大からグランゼコール政治学院、ENAを卒業した。パリ大では哲学、政治学院では政治・経済、ENAでは行政を学び卒業後は国務院財務検査官として出発した。両親が忙しいので小さい時から両親よりも元高校校長だった叔母に育てられ幅の広い教養を仕込まれた。その上学業はとびぬけて優秀で将来を嘱望されていた。後にマクロンの妻になるブリジットはフランス語とラテン語の教師で演劇を教えていたが、15歳で早熟なマクロンは世間を気にせず40歳であるが、たくましい既婚、子持ちのブリジットを見染めた。
 マクロンは政治的志向を表に出さなかったが、叔母の影響を受け「フランス社会主義の父」で共和主義、中道左派で右派左派に人気のあったジャン・ジョレス、その後継者と言われたミッシェル・ロカールを尊敬していた。名門投資会社ロスチルドでの外国企業の大型買収に携わったことや外国の経営者と英語でやりあったことは武器となり若くてもオバマやトランプの前で貫録負けしない度胸をつけた。2007年、マクロン30歳の時に初恋の人ブリジットと結婚し次の人生に備えた。ブリジットは54歳で離婚をして3人の母であったが、結婚式では学友、同僚、実業家など多くの友人に祝福され、その中にはマクロンのメンターであった実業家アンリ・エルマンが50年来の友であるミッシェル・ロカールを連れて参加するなど年齢差に関係なく祝福された結婚であった。
 エルマン、ロカールや財界の有志に支援されマクロンは政治活動を始めた。2007年の選挙ではセゴレーヌ・ロワヤルを応援した。いろいろなオファーがあったがロスチャイルドに入ったのも一流会社を顧客に持つフランス最高のブランド投資会社であり、その上政治活動も許されていたからであった。当然、政治色に染まってないマクロンは右派のサルコジやフィヨンからも誘われたが社会党を支援することに決めた。2012年の大統領選挙ではフランソワ・オランドを支援した。オランドはストラスカーンのニューヨークソフィテルでの暴行事件で急きょ浮上し、社会党左派のマルチ―ヌ・オブリを破り決選投票では本命と言われたサルコジを破った。この陰にはマクロンをはじめ若い人たちのインターネットと個別訪問を使ったオバマ方式導入による票集めの貢献を忘れてはならない。仕事熱心のあまりM&Aの仕事で2012年5月のオランド勝利の祝勝会には出席できなかった。
アタリの推薦もあったが、実力をかわれて2012年に35歳で大統領府副事務総長にスカウトされたときからより具体的に将来大統領になることを意識した。紹介したアタリは「エリゼに入った瞬間から、大統領を狙った目をしていた(Dès lors qu’il s’installe á l’Elysée, je vois l’ambition présidentielle dans ses yeux)」(パリマッチ5月17日号)と告白している。外交ではベルリンでのオランド・メルケル会談に出席したりオランドの外交に随行、経済では財界との交流強化、経済摩擦解決などで実績を残した。しかし、実際の政治ではオランドの極左的富裕税、労働や退職者改革実行の遅さ、フロランジなど国有化問題、前近代的な法案発行手続きなど描いた政治理想とあまりにもかけ離れた実態を見た。また、オランドをはじめ政治家が権力維持先行で重要な決定をせず、仕事のスピードが遅いのを不満に思った。そこで、政治的野望は捨てず、一旦エリゼをはなれ外からもう一度フランスを見直そうと会社を設立、コロンビアやLSEで教えることを考えエリゼを離れた。
 しかし、人生わからないものである。2014年8月、エリゼを離れて約1か月カルフォルニアでバカンスを取って帰国したばかりのマクロンにエリゼから経済相就任の打診があった。閣内の「爆弾男」と言われていた社会党の中でも左派寄りの経済相アルノ・モントブールがオランドの右寄りの政策と緊縮財政を批判して更迭されたからである。オランドはマクロンが一度も選挙を経ていないとマクロンの就任を渋ったらしいが周りの強い勧めで承認した。マクロンは抜け目なく受諾の条件に改革への自由行動を入れた。そこでやったのが経済改革を目指す「100条を超える経済成長と活性化のための法案(マクロン法)」である。次の大統領を狙おうとしていた首相バルスとの確執があったが協力して年に一度しか使えない特別法を使って評決なしで採択(憲法49条3項)を承認させた。200時間、3週間の審議、2000か所以上の修正を重ねて多くの反対派議員を説得して、日曜日の商店営業を年間5回から12回に増やし、パリ、ニースなどの国際観光地での深夜12時までの営業と日曜営業許可、長距離バス路線開設の自由化など多くの規制緩和政策を通した。あまりにも右派的との批判があったが、「巧妙で、感じの良い、インテリジェント、説得力があり、行動が迅速な大臣である(C’est un ministre habile, agréable, intelligent, pédagogique, rapide)」と議会での評判を高めた。有能な上に、M&Aの手法で反対議員を「買収(M&A)」するマクロンが想像できる。
 2016年からマクロンの政治活動は本格的になった。既成の政党や主義にとらわれない「左派でもない、右派でもない」共和国主義の政治を目指す同志を結集する「前進(En Marche)」運動を故郷のアミアンで立ち上げた。7月には最初のコンベンションがパリで開かれ5万人を集めたが、1か月前に亡くなったロカールの意志を継いだ形になった。当然社会党から大批判が出て8月に経済相を辞任、「マクロンの精神的父」と自負しマクロンを信頼していたオランドは思わず「計算された裏切りだ(Il m’a trahi avec méthode)」と叫んだという。11月初旬にはマクロンを政治的にはロカールにつなぎ、長い間資金的にも支持してくれたエルマンが死亡したが、それから間もなくして11月16日に大統領出馬を表明した。

これからが本番

今回の出張スケジュールを工面してフランスの選挙を見て本当に良かったと思う。1990年代前半のマストリヒト条約批准以上のフランスの歴史的変革を見た。もう一つの収穫は、選挙当事者が、妻が昨年まで住んでいた7区のアパートの近辺に住んでいて、中でも今回マクロンを身近に見たことである。昨年まで、アパートの前にフィヨンが入っているアパートがあり時々近くのマルシェで買い物、新聞を買っているフィヨンを見かけた。今回、アパートの近所のホテルに泊まりいきつけのカフェで昼食したいと寄ったらバリケードで道路が封鎖されていて驚いたが、カフェに入ったら店主が「マクロンがこれから勝利宣言に向かうので彼を見れるよ」と言ってくれて通りに面している窓側に座らせてくれた。
「ラッキー」と叫んでワインを飲みながらマクロンの笑顔を車の奥に見ることができた。残念ながら、あとで写真を見たら写真には写っていなかった。近くの時計店でスウォッチを買ってそんな話をしていたら、通りの奥に国務大臣に選ばれたフランソワ・バイルが住んでいるとのこともわかった。こじつけで彼らにはまったく関係のないことだが、何年か前にはロカールとも会っているし今回の選挙と私の人生になにか因縁を感じる旅であった。たしかに、アンバリッドの近くでケードルセーに近く、首相府マティニオン、大統領府エリゼに一本で行けるし安全な場所なので政治家や官僚が住んでいてもおかしくない。

マクロン自宅アパート前通りの警戒ぶり(行きつけのカフェのテラスから撮る)

マクロン自宅アパート前通りの警戒ぶり
(行きつけのカフェのテラスから撮る)

5月15日新しい首相と閣僚も決まった。新しい首相にはエドワール・フィリップ(Edouard Phillipeが)が任命された。マクロンと同じ政治学院、ENA出身のエリート、46歳のル・アーブル市長、国民議会議員でジュッペ派。学生時代ロカール支援で社会党にいたが、右派UMP立ち上げの時に入党し総務ディレクターを務めた。今回の大統領選挙戦ではジュッペの広報担当を務めた。民間での弁護士経験、原子力会社AREVAでの経験、社会党、共和党にも顔が利き環境関係にも強い首相の任命は今後も期待される。
共和党予備選で敗北したがサルコジ元大統領、ジュッペ元首相もマクロンを支持している。マクロンはサルコジに恩がある。サルコジはアタリ委員会の創始者で、マクロンはこの委員会の中でフランスをリードする人たちに囲まれ大きく育った。サルコジの経済危機を乗り越える「未来投資計画(grand emprunt)」には今回組閣に協力してくれた右派のジュッペ、左派でマクロンのメンターであるロカールが投資委員会の共同議長を務めた。また、マクロンの妻ブリジットはサルコジの妻カーラと仲が良くファースト・レディとしての儀礼やマナーを学んでいる。選んだ首相フィリップも中道右派のジュッペ派から選んだ。企業出身で右派、左派に属さないマクロンの生き方が人脈形成でも役にたっている。
フィリップも右派と左派を経験している中道派だ。お互いに知らないわけではない。マクロンと同じ政治学院、ENA出身でパリ政治学院在学中ミッシェル・ロカールの考えに共鳴して社会党で政治活動をしているときにマクロンと知り合った。その後、右派に転じ中道ジュッペ派に属しUMPの事務局長、今回の大統領選挙でジュッペの広報担当としてジュッペを支えた。企業(AREVA)や弁護士経験もありマクロンとは話が通じている。実は、今回の大統領選挙前にマクロンと会い、第一回予備選翌日にマクロンと大統領後の戦略について相談し、共和党と社会党の中道派の切り崩しを行っている。
この様にマクロンは決して政治から遠いわけでなく、計画的にキャリアを築いてきた。過去にとらわれない新しい生き方である。今度は、本番の6月11日、18日の国民議会選挙である。党も正式に「共和国前進(La République en Marche-LREM)」となり詳細なプログラムも出した。大多数をとれるかどうかがカギだが、現在での予想は優勢である。一方、ネガティブ要素もある。プログラムで議員の道徳行動強化などを上げているが、すでに国土団結相リシャール・フェランのフィヨン的不正優遇事件に直面している。国民議会選挙後に改めてマクロンのプログラムと次の動きを報告したい。
(2017年6月3日)

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