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【レポート】第25回パリクラブ輝く会「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)とフランス、そして松江」

2019年7月25日に第25回パリクラブ輝く会として、小泉凡氏による講演会「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)とフランス、そして松江」を開催いたしました。

小泉八雲の直系の曾孫 小泉凡氏は、曾祖父の人生を辿るかのように民族学を専攻し島根県で教鞭をとられておられます。

ギリシャ生まれのラフカディオ・ハーンとフランスとの縁や、ハーン姓のルーツなど、日本を愛したハーンについて凡氏に語っていただきました。

怪談が似合う真夏の夜に、小泉八雲の世界に浸るひととき、その講演内容を掲載いたします。

パリクラブ輝く会

 

 

小泉 凡

はじめに

パトリック・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、ギリシャのイオニア諸島のひとつレフカダ島で、アイルランド人の軍医である父チャールズとギリシャのキシラ島出身の女性ローザとの間に生を享ける。

司会の伊藤副会長

司会の伊藤副会長

2歳で父の実家のあるアイルランドのダブリンに移るが、4歳の頃に精神を苛まれた母ローザがギリシャに帰り、それが永遠の訣別となった。経済的には大叔母サラ・ブレナンに養育されたが、ハーンの身近な世話にあたったのは、アイルランドで最もケルト口承文化が豊かに継承されるコナハト地方(アイルランド北西部)出身の乳母キャサリン・コステロだった。後に北イングランド・ダーラムの神学校で教育を受けるが、在学中に硬球が左眼にあたり、失明を余儀なくされる。大叔母も破産し、ロンドンで放浪生活を送ったり、北フランスの学校で学んだりした。フランスにはイギリス留学の前にもしばらく滞在した可能性があるが、詳細は不明である。

パリクラブの紹介をした森副会長

パリクラブの紹介をした森副会長

19歳の時に、アイルランド移民として単身アメリカのシンシナティをめざし、ジャ―ナリストに。その後、ニューオーリンズで10年間、カリブ海のフランス領西インド諸島(アンチル諸島)のマルティニークに2年間滞在した後、特派記者として来日する。派遣元のハーパー社との契約を解消し、松江、熊本、神戸、東京と移り住み、教師やジャーナリストをしつつ、民衆に寄り添う目線で、五感を開いて日本文化を探究する。生涯で約30冊の著作をのこした。

本稿では、八雲とフランスの関わりを掘り下げ、フランス文化がハーンの人生や研究テーマに及ぼした影響を探る。

先生の著書の御紹介をした岩間理事

先生の著書の御紹介をした岩間理事

1.ハーンとフランス・ノルマンディー・ヘロン村

(1)ハーン家について

 アイルランドのハーン家の先祖はラフカディオ・ハーンの玄祖父ダニエル・ハーン(1693~1766)まで明らになっている。1718年にダブリンのトリニティ・カレッジを卒業し、アイルランド教会キャッシェル大主教区の大執事をつとめるが、出自は不明である。それ以前の先祖については以下の3つの説が唱えられていた。

一つ目は、イギリス・ノーザンバランド州フォードの城主サー・ヒュ・ド・ヘルンという説、2つ目はアイルランドに多いケルト系の姓「アハーンAherne」と同系という説、3つ目はジプシー説だ。それはハーンの叔母がジプシーに手相を見てもらったところ、「あなたたちにはわれわれと同じ血が流れている」と言われたという回想によっている。

(2)ハーン家のルーツはフランス・ノルマンディー地方か

イギリスの系図学者のバーナード・バーク(Sir Bernard Burke/1814-1892)によれば、ハーン家は北フランス・ノルマンディーの出身で、ノルマン・コンクエストの時代に、ウィリアム公につきしたがって、イギリスへ移民したという。とくに、オドネル・ヘロンは1087年、ウィリアム・ルーファスの時代に、イングランド・ダーラムにおいて(植民団創設に関する)勅許状に署名した。またジョーダン・ド・ヘロンはノーザンバランドへ移ったという。このような理由から、ハーン姓のスペリングはHairun, Heiron, Heron, Hearn, Haerne, Hearon, Herronなど異なる綴りを作り出したという。

(”Norman Origin of the Hearne Family,” )

(3)ノルマンディーのヘロン村

  ところで、ハーン家のルーツと考えられるヘロン村はノルマンディーの中心都市ルーアンから東北東へ約45キロに位置する。地名ヘロン(Le Héron)の語源は鷺。村内を流れるアンデル川に小魚が多く、鷺(ヘロン)がよく現れることからつけられたという。そこに住みついたノルマン人たちはヘロン姓を名乗り、1940年頃までは、ヘロン城(Chateau du Heron)が存在した。(ノルマンディー上陸作戦で破壊)

(4)ハーンのフランス留学

 ハーンは自らの手記に「16歳でフランスに行かされた」「13歳から19歳までの後半の時期2年間をフランスで暮らした」と記し、またケナード、フロストなど比較的初期の伝記には、イングランド・ダーラムのカスバート校入学前にフランスに留学したと記されている。総合すると、カスバート校入学前後に2度のフランス留学をした可能性がある。

(5)イヴトーとダーラム

ではフランスの留学先だが、一説に、ヘロン村から西へ60キロ余り離れたイヴトーにある神学校(Institution Ecclésiastique)に通ったというが、卒業記録等が存在しないので、確証がない。またイギリスでハーンが学んだのはダーラムの聖カスバート校だが、ダーラムは上記オドネル・ヘロンがノルマン・コンクエスト時代に住み着いた地であり、この地への留学は偶然なのか必然なのかその点はいまだ定かでない。

 いずれにしても、ハーンという姓は元来フランス・ノルマンディー地方の地名からきており、語源はフランス語の「鷺 Le Héron」である。アイルランドのハーン家の家紋も現在の小泉家の家紋も鷺であるのは、偶然とは思われない。

(6)小泉家と鷺にまつわる因縁

 筆者の父は、第二次世界大戦中、民間の船舶会社に勤めていたが、特別な時期だったこともあり、軍用船で遠洋航海に出た。運悪く、世界一の深さのマリアナ海溝でアメリカの潜水艦に撃沈され負傷して海に漂った。まもなく日本の水雷艇「サギ」が現れ救助され、父は九死に一生を得て、2008年まで生きた。鷺は我が家の霊鳥である。

2.アメリカ時代の「フランス」

(1)ニューオーリンズとクレオール文化

ハーンは1877年~87年まで10年間、ニューオーリンズに暮らした。ニューオーリンズは1718年にジャン・バティスト・ル・モワン・ビエンヴィルの指揮で建設され、「ラ・ヌーベル・オルレアン(新しいオルエレアン)」と命名された。昨年で市制300年を迎えた。米国の他都市と比較して類をみないほど混淆性に富むクレオール文化が開花した町として知られる。なお、「クレオール」とは、本来、ルイジアナに入植したフランス人やスペイン人の子孫を指したが、後にフランス系、スペイン系と有色人種との混血、さらに言語・料理・音楽など文化の混淆現象全般を指すようになる。

ハーンは文化の接触、混淆、変容、創造という現象にクリエイティブなエネルギーを感じ、次第にクレオール文化に魅せられていく。

ハーンはニューオーリンズの町の印象を次のように綴っている。

「ニューオーリンズは、とりわけ、ベランダ、ピアッザ、ポーチ、そしてバルコニーの街だ」

「オールド・フレンチ・クォーターからはル・アーヴルやマルセイユの記憶を引き出せそうである」(「熱帯の入り口で」)

 アメリカに移民した際、乗った船は「SSセラ号」で、ロンドン発、ル・アーヴル経由ニューヨーク行の船だった。ハーンはル・アーヴルから船に乗った可能性も十分にあり得る。

ニューオーリンズでは、クレオール料理のレシピ集、クレオール諺辞典を出版し、ヴードゥー教の俗信やジャズ胎動期の音楽採集に余念がなかった。1882年には、フランスのロマン詩人、小説家テオフィル・ゴーチェの作品群を英訳し『クレオパトラの一夜その他』として出版した。夏目漱石や芥川龍之介はこの英訳でゴーチェに親しんだと言われる。ほかにもハーンは同時代のフランス人作家としてボードレール、フローベール、モーパッサン、アナトール・フランス、ロチらを愛読し、高く評価した。

1884年から85年にかけて同地で開催された万国産業綿花百年記念博覧会で日本のパビリオンを取材に訪れ、日本文化への関心を強めていく。

(2)マルティニーク島滞在

その後ハーンは、1887-89年までカリブ海のフランス領マルティニークに滞在する。混血女性、とりわけ荷運び女の密着取材、ゾンビ信仰、民謡採集などフランスの植民地固有の文化を、人類学者のまなざしで観察し、1890年に『フランス領西インドの2年間』として上梓した。なお、ポール・ゴーギャン(1848~1903)も同時期にハーンの住む(サンピエール)の隣町(ル・カルベ)に居住していたが、二人の出会いがあったかどうかは定かではない。しかし、両者ともマルティニーク滞在以降に飛躍的に活躍するようになる。

3.ハーンとIdzumo

(1)『古事記』との出会い

 来日前の1889年末、ハーンはマルティニークからアメリカに帰り、ニューヨークでチェンバレン訳、1882年刊の『古事記』をハーパー社の編集者パットンに借りて読んだ。その印象を次のようにパットンに伝えている。

この極めて珍しく、価値ある書物を貸してくださった非常なご親切に感謝します。それは言葉に尽くせません。それらはみな初見のものであり、見るのはとても楽しみです。とくにチェンバレン氏自身の『古事記』の訳と、―日本の神話と言語の形成に対するアイヌの影響の民族学的研究にはとくに興味をひかれました。

英訳『古事記』扉頁には神話マップが挟み込まれ、その一番上に「Idzumo Legendary Cycle(出雲神話群)」と記されている。おそらく、この時点で出雲という土地に行けば、日本文化の古層に出会えると期待を膨らませたのだろう。その後、ハーパー社の特派記者として1890年4月に来日し、まもなく契約を解消して、日本で英語教師をすることになる。ニューオーリンズで出会った服部一三と『古事記』の英訳者チェンバレンの支援で、幸運にも空席が出来た島根県(出雲国)松江の尋常中学校で英語教師をすることとなった。

(2)はじめてIdzumoを知ったのは仏語本?

 実は、ハーンは英訳『古事記』で「出雲」を知る前に、ニューオーリンズ時代に購入した2冊のフランス語の本で「出雲」を知った可能性が高いことがわかってきた。富山大学の中島淑恵教授のヘルン文庫フランス語本の研究により明らかにされている。1871年と1874年にフランスで出版された以下の2冊に、須佐之男命が詠んだ日本初の和歌が紹介されフランス語訳されているのである。(中島淑恵「ハーンは『八雲』をいつ知ったか」(『へるん倶楽部』第15号、富山八雲会)

・Actec de la socitété philologique, Tome 4, Julliet 1874, Paris
 (『国史略』からの引用)

   Yakumot tatu

   Idumo ya ye gaki

   Tuma go mi ni

   Ys ye gaki tukuru

   Sono ya ye gakiwo

 「これが知られている最も古い歌」という注あり。

・Rosny, Léon de, Anthologie japonaise, 1871, Paris
 (レオンド・ロニー『日本詞華集』)

  10頁の注2

   Ya-kumo tatsu idzumo ya-ye-gaki tsuma-gome-ni

   Ya-y e-gaki tsukurum sono yaye-gaki-wo

注:Idzu-mo est le nom d’ une localité (出雲はある地方の名である)

 1896年、ハーンは小泉セツと入夫婚姻し、同時に日本帰化に際し、「八雲」という名をつけた。そして「八雲は出雲の美称で、私のもっとも好きな地方名」だと友人ヘンドリックに報告することになる。

(3)出雲の護符とフランス

 ハーンは、チェンバレンの求めに応じ、出雲地方で80点を超える護符を蒐集し、敬愛する進化主義人類学者エドワード・バーネット・タイラーが館長を務めるオックスフォード大学のピット・リバース博物館に寄贈している。みずからも護符の蒐集家であることを自認し、次のように『知られぬ日本の面影』に書いている。

ほとんど軒並みに引き戸の表や入り口の真上に漢字を書いた白い細長い紙が張り付けてあるのが目につく。どの家の門口にも神道で使う神聖な飾り物が下がっている。小さな標縄で、それから食みだした藁の穂が縁取りとなって長く垂れている。一方、白い紙はたちまち私の興味をそそる。それはお札、つまり聖句や呪文を記した紙で、私はそういう物の収集に夢中になる人間のひとりなのだ。それらの大部分は松江かその近在の神社仏閣のものである。

(森亮訳「神々の国の首都」(『神々の国の首都』)113頁、講談社学術文庫、1990)

 ハーンの護符蒐集に大きな影響を受けたフランス人の日本仏教研究者、ベルナール・フランク(1927-1996)は、みずから、二千以上の寺社を巡り護符を蒐集し、コレージュ・ド・フランス日本高等学研究所に寄託した。1954年5月のはじめての来日時の体験をこう綴っている。

・・・・対岸の丘の階段を登った所に上野清水寺があった。この寺は建築的にではないが少なくとも宗教的には京都の清水寺のレプリカである。そしてそこにはお札があって、ハーンの弟子を任ずる私は勇んでそれを求めた。それが私の長いコレクションの歩みの第1号となった。(ベルナール・フランク・仏蘭久淳子訳『日本仏教曼荼羅』312頁)

また、鎌倉への足を運び、ハーンが「江の島行脚」に書き残した、円応寺の閻魔様のお札をもとめた。フランクの遺作となった『日本仏教曼荼羅』の序文を、20世紀を代表する人類学者レヴィ=ストロースが担当し、「青年フランクが初めて日本版画を見たボナパルト通りの古美術店と、私が、たいそう色褪せていたのは確かだが、北斎の画帖安価に買ったラスパイユ・モンパルナス交差点の古書店は一対になる。そうして私たち二人は熱心にラフカディオ・ハーンを読んでいた。」と興味深い文章を綴っている。このようにレヴィ=ストロースもハーンを愛読していた。

 ハーンの護符蒐集の活動はベルナール・フランクを通し、ヨーロッパ、とくにフランスでの日本仏教研究に影響をもたらした。

4.小泉セツとフランス

ハーンの妻小泉セツは松江の貧しい士族の娘で、子どもの頃から物語を聞くことを何より好んでいた。セツは幼年期に不思議な異文化体験をもっている。セツは父、小泉湊が番頭として参加していた軍事教練を眺めていたところ、フランス人指導者ヴァレットが近づいてきて、セツを抱き上げ、小さなルーペをプレゼントしてくれた。西洋人との初対面は強烈な体験となり、外国人コンプレックスが大きく緩和される。このルーペを生涯宝物とする。

ヴァレットとは、1870年に松江藩が砲術の講師として雇い入れたフランス人、フレデリック・ヴァレット(Frederic Valette/フランス・ドローム県出身)のことであり、ヴァレットがフランスから持ち込んだ豆は「ワレット豆」としていまも松江の青果店の店頭を彩っている。

おわりに

ハーンはフランス文化、フランス語の本を通して、異文化を学び、日本を知った。セツも松江でフランス文化との接触を通して、西洋を知った。「フランス」はふたりの異文化への開かれたまなざしを育んだ。

【開催済】第25回パリクラブ輝く会 小泉八雲の曾孫 小泉凡氏 講演会「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)とフランス、そして松江」

©KOIZUMI

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小泉八雲の直系の曾孫 小泉凡氏は、曾祖父の人生を辿るかのように民俗学を専攻し島根県で教鞭をとられておられます。
日本を愛したギリシャ生まれのラフカディオ・ハーンはフランスにも縁があったという知られざる経歴を知ったパリクラブ輝く会では、小泉凡氏の上京の折にお時間をいただいて講演会を開催することになりました。
小泉八雲のハーン姓のルーツがノルマンディーで、ハーン自身も幼少の頃、北フランスの神学校に通った時期があったそうです。画家で民俗学者のポール・セビヨの作品を愛読し、出雲神話について最初に知ったのは2冊のフランス語の本を通してでした。後にフランス領西インド諸島のマルティニークに2年滞在し、民族誌を著しています。
20世紀の構造主義を構築したフランスの人類学者レヴィ・ストロースがハーンを愛読し、弟子にあたるベルナール・フランクが「八雲の弟子」を任じて来日し、護符を通した仏教研究を行い、コレージュ・ド・フランスにて日本研究をリードしました。島根県松江市では、ハーンの妻となるセツがフランス人ワレットから虫眼鏡をもらったことがきっかけで、異文化へのコンプレックスがなくなり、ハーンと国際結婚したという逸話も残っています。
小泉凡氏は現在、小泉八雲にかかわる怪談を観光資源として活かす「松江ゴーストツアー」や俳優の佐野史郎さん山本恭司さんとのコラボレーションで「朗読のしらべ」を開催しているそうです。怪談が似合う真夏の夜、私たちも小泉八雲の世界に浸ってみませんか? 沢山の皆様のご参加をお待ちしております。

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