モンレアル便り

第2号

モントリオール

カナダ東部のケベック州は、北米にある唯一のフランス語圏です。州都はケベック市ですが、州内の最大の都市は州の南端にあるモントリオール市です。フランス語では「モンレアル」と発音します。モントリオール市は、北米の五大湖の1つのオンタリオ湖から北東にあるセントローレンス湾に向かって流れるセントローレンス河に浮かぶ中州に位置します。モントリオール市自体は、人口約160万人、面積は365.65平方キロメートルと、東京23区の6割ほどのサイズです。このモントリオール島(Île de Montréal)には、モントリオール市に加え、15の市(municipalité)があり、これら合計16の市でモントリオール集合体(agglomération de Montréal)を形成しています。「島民」の人口は約200万人です。

ちなみに、カナダの州の人口でみると、ケベック州(約900万人)は、隣のオンタリオ州(約1500万人)に次いで第2位。これら2つの州の人口の合計で、カナダ全体の人口の半分以上になります。市の人口では、オンタリオ州の州都トロント市(約260万人)に次いで、モントリオール市は第2位です。

更に、島から橋を渡って両岸の隣接地域を合わせた4360平方キロメートルにある118の市を一括りにして、モントリオール大都市圏(Région mértopolitaine de Montréal:RMM)と呼びます。その人口は430万人を超えます。これだけで州の人口の約半分を占めます。別名大モントリオール(Grand Montréal)。なお、この都市圏は、カナダ統計局が定めた整理ですが、これとは別に、モントリオールを中心とする82の市が協力して地域の開発を行うための都市連合体(Communauté métropolitaine de Montréal:CMM)が2001年に形成されました。人口は、RMMをやや下回りますが、それでも400万人超。CMMは、土地の整備、経済開発、芸術文化振興、住宅、公共交通機関、環境対策などの政策について、計画、調整、財政面で連携することとなっています。

王の山

モントリオールの歴史を語りはじめると、すぐにケベック州の歴史に広がり、更にはカナダの歴史に直結することになります。そうなると歯止めがかからなくなるので、ケベックやカナダについては別の機会に触れるとして、ここでは簡単にモントリオールの成り立ちを紹介します。

1534年に、フランス人探検家ジャック・カルティエ(Jacques Cartier)が、当時のフランス王のフランソワ1世の命を受けて、セントローレンス湾に突き出たケベック州の半島の東端ガスペに上陸し、十字架を立てます(ジャック・カルティエの十字架)。ヨーロッパ人として初のケベックへの到達でした。ここをフランス領「ヌーベル・フランス(新フランス)」と宣言。翌年の1535年の第二回航海で、カルティエは再びガスペを訪れ、セントローレンス河を上流に向かって約500キロメートル進

み、先住民イロコイ族がスタダコネ(Stadakoné)と呼ぶ集落に到達しました。ここが現在の州都ケベック市です。更に上流に200キロメートル以上進むと、水流が強くなり、前進が困難になりました。そこには、彼らがオシュラガ(Hochelaga)と呼ぶ砦があり、当時既に3000人程が居住していました。

オシュラガに上陸したカルティエたちは、目の前にある丘(標高232メートル)をラテン語で王の山(Mons realis:モンス・レアリス)と名付けました(注)。山と呼ぶには低いけれど、この頂上からはセントローレンスの流域を遠くまで一望することができます。
英国のウェールズで、地元の人々の自慢の山が、中央政府の測量基準では山ではなく「丘」に相当すると知り、危機感を覚えた地元住民たちが必死に土盛りをして「山」にしようと画策する「ウェールズの山(The Englishman Who Went up a Hill but Came down a Mountain)」という映画があります。その中では、305メートル以上が山と認定され、それ未満の高台は地図に掲載されないのですが、彼らの「山」は299メートルで6メートル足りない、さあ大変だ!となります。因みに、現在の英国では、海抜2000フィート(609メートル)以上が山とされているようです。

(注)16世紀のフランス語で王の山(Mont Réal:モン・レアル)と呼んだ、とする説もあります。

ところで、先住民が元々住んでいたオシュラガ村は、早々に歴史から姿を消します。カルティエの3回目の航海(1541~42年)の記録にも関連する記述がなく、謎です。他の先住民との争いや、土地がやせるなどして放棄されたのではないか、とも言われています。オシュラガの正確な位置についても、引き続き調査は続けられています。カルティエの言葉や他の文献などから、ほぼ現在のモントリオール市にあったことは間違いないようです。

17世紀にはヌーベルフランスの植民地化が進みます。現在のモントリオールに着いた入植者たちは、既に関係が悪化していた先住民の攻撃から自分たちを守るため、町の囲いを建設し始めます。着工の翌日の1642年5月18日、工事の無事を祈るミサが行われました。この町は、聖母マリアにちなんで「ヴィル・マリー(Ville Marie)」、すなわち聖母マリアの町と命名されました。しかし、マリアの名前で呼ばれていた期間はほんの10年ほどで、次第に人々は、元の王の山と呼ぶようになりました。これが、現在のモントリオール(モンレアル:Montréal)の由来です。
その名前の元になった山は、現在も王の山(モン・ロワイヤル:Mont royal)と呼ばれ、展望台から一望できる景色を求める観光客で賑わっています。山頂には、今では夜になるとライトアップされる十字架が立っています。モントリオール市の規則として、これよりも高い建物を建設することは禁止されています。最近は例外も認められるようになった、と言われていますが、実際にそこまでの高さの建物を建てることは容易ではないでしょう。

モントリオール市内にはもう一つ、町のランドマーク的な十字架があります。それは、市内中心街にそびえ立つオフィスビルで、その名は「Place Ville Marie」(聖母マリアの広場)です。1958年に建設が始まり、4年の歳月をかけて完成しました。高さ188メートル、47階建てで、最上階のペン

トハウスのレストランからは四方に町が一望できます。このビルは、上から見ると正十字に見えるようにできています。毎夜、この頂上からはサーチライトが逆時計回りに発せられ、その光線は、50km先からも判別できると言われています。ちなみに、在モントリオール日本国総領事館は、このビルに所在します。

王の山の十字架(左)と聖母マリアの広場(Place Ville Marie)(右)

王の山の十字架(左)と聖母マリアの広場(Place Ville Marie)(右)

歴史を体現する旗のデザイン

モントリオールの旗は、白地に赤十字。そこに、5つの植物がデザインされています。左上には百合の花。これはフランス(ブルボン王家)の象徴です。右上のバラはイングランド(ランカスター家の赤バラ)。左下のアザミと右下のクローバーは、それぞれスコットランドとアイルランドです。これらは、ヨーロッパからの移住者として中心的な存在だった5つの出身国・地域を表しています。また、中央の松は先住民を意味します。この組み合わせで正式に発表されたのは、実はごく最近のことで、2017年のモントリオール誕生375周年の記念式典の機会でした。それまでは、中央の松を除く、4つの植物のみでした。

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世界有数の芸術の町

モントリオールでは、世界的に有名な芸術祭が行われています。特に、季候が良く日没が遅い夏の時期には野外イベントが集中します。ほぼ毎日のように町中ではコンサートや映画祭が行われています。モントリオール国際ジャスフェスティバルには世界中からジャズプレイヤーとファンが

集まります。様々な映画祭も行われ、日本映画も大好評です。なお、カンヌ、ベルリン、ベネツィアの映画祭と並ぶ世界的に有名なモントリオール世界映画祭は、2018年の第42回以降、財政難により休止中。また、F1レースのカナダ・グランプリも行われます。グランプリの時期には、レース会場だけでなく、市内でスーパーカーがエンジン音を轟かせながら通ります。ファンたちは一斉にカメラを向けて、追いかけていきます。 冬季には、スキー、スケートなどのウィンタースポーツは勿論ですが、寒さが厳しい中でも様々な催しで市内は賑わっています。12月のクリスマスの時期にはクリスマス・マーケットで賑わいます。2月になると、「リュミエール(Montréal en lumière)」という光と食の祭典が行われます。人々は、市内の芸術広場(Place des arts)にあるスペクタクル地区(Quartier des spectacles)に集まり、美しいイルミネーションとグルメイベントを楽しみます。また、野外で開催される「イグルーフェスト(Igloofest)」は「世界一寒い音楽フェス」と呼ばれています。防寒服を着込んだ多くの音楽ファンが寒さを吹き飛ばす勢いで熱狂します。因みにイグルー(igloo)とは、北米の先住民イヌイット(Inuit)が圧雪ブロックを積み上げて作るシェルターや住居を意味します。日本の降雪地域で見かける「かまくら」に似ています。

(了)

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