パリ通信(9)「下から見たフランス」パリの美化(1)L’embellissement de Paris

パリ通信(9)「下から見たフランス」

パリの美化(1)
L’embellissement de Paris

綿貫 健治

「犬も歩けば棒にあたる」ではないが、パリを散歩していると必ず遺跡や史跡にあたる。歴史のシャャワーを浴びながらの散歩は楽しい。しかし、パリの舗道は歩きにくい。石で敷きしめられ固く、その上、くねくね曲がりおまけに高低がある。いろいろな靴を試したが日本製ウオーキングシューズが一番ぴったりする。一日1万歩歩かなくても良い運動になるのは確かだ。私の友人はヨーロッパ出張になると必ずパリ経由にして、長年ひたすらセーヌ河沿いを散歩しているがよくわかる。会うたびに「澄み切った青空を背に“太陽と歴史のシャワー”を浴びながら散歩できるのは最高だ」と言いきる彼が頼もしい。

パリは美しい。絵画のような景色と歴史的史跡を提供してくれ美術館でもあり博物館でもある。昔住んでいたマンハッタンと人口密度が同じぐらいなのに、マンハッタンがせわしなくパリがゆったりと感じるのは、それだけ都市計画がしっかりしていると言うことだろう。都市のステークホールダーである住民のニーズも十分汲み上げている。建築様式もローマ、ルネサンス、ゴシック、バロック、モダン、オスマニアンなどいろいろな様式が混ざり面白い。紀元前3世紀前にパリジー族がシテ島に定住してから現代まで、各時代の都市歴史層が重層的に重なり各時代の建築様式、景色、空間、人々の知恵が豊かな形で交じりあっている。

オスマン通りを強調した建物の入り口

オスマン通りを強調した建物の入り口

都市計画権威の小林重敬教授(東京都市大学教授、横浜国立大学名誉教授)によると、一流都市の基本条件は、「住んでいる住民が魅了され、誇りに思い、そして住民から選ばれる都市」でなければならないそうだが、パリはそのすべてを満足させている。都市の空間、建物、道路、歩道、公園、鉄道、地下鉄などのインフラは、サプライサイド(供給者)が考え抜き、それぞれの時代の要求を反映させたコンテンツ(内容)とコンテクスト(脈絡)が反映されている。しかし、私は、都市は作っただけでは本当の都市にならないと思う。都市は生活をする人のためにあり、その中で暮らす人が有意義で楽しい生活ができる環境がなければいけない。パリに住む人たちは昔から生活様式のイノベーションに敏感で、カフェ、ビストロ、マルシェ、パサージュ、にぎわいのある商店街など「庶民の夢や知恵」を実現してきた。住民の声が届かず経済やサプライサイド志向を優先し、高層ビルが乱立し、スパゲッティー状に電線と環状道路が走る東京と大違いである。パリはインフラのハードウエアと住民の夢のソフトウエアがバランスよく作られ。「世界で最も完璧な街」(ポール・ヴァレリー)となったのである。

いろいろな都市プロジェクトを手掛けている小林教授がもう一つ大事な点を強調している。それは、成功する都市は「作るときからマネジメント(経営)を織り込んでいる」ことである。パリはこの条件も満たしている。歴代の権力者や市長が長期的ビジョンを持ち歴史的継続性を意識して政治、経済、産業だけでなく、文化、芸術、教育、イベントなどとソフトとハードの経営をうまく融合してきた。その上、都市の美観、伝統性、近代性を意識して発展させてきたので、ヨーロッパのみならず世界で最も魅力のある都市となった。今や、フランスには毎年海外から8,200万人以上の観光客が訪れ世界最大の観光誘致数を誇っている。フランスの観光事業は経済発展にも貢献しGDP(国内総生産)の7%を占め、特にパリを中心とした「パリ地方(Région Parisienne)」(周辺都市を含むイル・ド・フランス地域)は経済規模は最大で、地域GDPはフランス全体の30%(ヨーロッパでは5%)とロンドンを抜き、その経済規模はオランダより大きくトルコのGDPに匹敵する。

パリ地域は、ともすると歴史や文化面が強調されがちであるが世界的な企業都市としても注目されている。他の国にはない文化の魅力、生活しやすさや便利さがある上に、働きやすい都市として人気があり世界の投資家にトップクラスの人気がある。海外のグローバル企業の支店も多く、現在外資系企業が16,700社あり全雇用の14%を占めている。パリ地域はサイズは比較的小さいが都市圏でのグローバル企業数としてはロンドンやニューヨークを抜いて東京、北京地域に続いて世界第3位である。世界の企業番付「フォーチュン500ランキング」に入るトタル、アクサ、BNPパリバ、カルフールなどフランス主要グローバル企業33社の本社がパリ地域に集結している。

パリ地域の産業分野は製造業よりもサービス産業が80%と圧倒的に強く、特に情報・通信、金融、科学技術などの先端産業、企業サービス、ホテル・レストランなどの観光産業がフランス平均より多い。知的・経営的集積度が高く、グランゼコールや大学、政府・民間研究所、弁護士・会計・コンサルティング事務所も多く、フランスの大企業の40%の幹部、大学の20%、グランゼコールの4分の1が集中している。また、若い人にも人気があり留学生に「最も留学したい都市」の「世界都市ランキング
(QS Best Student City Rankings)」で常に1位となっている。

パリの強さは街の風景や建物に歴史だけでない。私が感心するのはパリの街には「ストーリー」があり、地元の人たちだけでなく海外から来る人たちに「語りかける強さ」があることである。都市をデザインした人たちの魂がこもっていて散歩するたびに立ち止まることが多く、こういう仕掛けのある近代的都市パリを作った人たちに感謝している。街を歩きながら特に頭に浮かぶのは、第2帝政時代の都市計画総合指揮者ナポレオン3世、彼のもとでパリの大改造を実施したセーヌ県知事オスマン、新しい金融手法で鉄道や動産投資で活躍した投資銀行家のペレール兄弟、ナポレオンの顧問としてフランス産業革命を実現した経済学者のシュヴァリエなどである。

彼ら4人に都市開発と産業革命の思想的影響を与えたのは思想家サン=シモン伯爵(1760-1825)である。サン=シモンは由緒ある貴族の出身であったが、若い時にラファイエット義勇軍に志願しアメリカの独立戦争に参加した変わり者であった。しかし、時代を見る目は鋭くアメリカの産業振興による民主主義の発展に感銘を受け、いち早くフランスで産業者(les industrieles)による産業発展の重要性を説いた。「産業は社会存立の唯一の保障であり,あらゆる富とあらゆる繁栄の唯一の源泉である」と唱え産業階級が貴族や僧侶階級より尊いと啓蒙した。埼玉深谷の豪農出身で士農工商の階級社会に反発し、日本の産業革命に貢献した「資本主義の父」渋沢栄一のロールモデルである。

サン=シモンの考え方には産業的思想のみならず、萌芽期にあった社会主義的思想がすでに盛り込まれていた。科学的な解決策が講じられていないために、彼の死後マルクスやエンゲルスからフーリエ、オーエンなどとともにユートピア的な「空想社会主義者」と言われた。しかし、彼の思想は弟子で伝統的サンシモン主義者オーグスト・コント、アンファンタン、バザールによって受継がれた。サン=シモン主義は彼が一時期理論実現の研究のためにポリテクニークに通学していたこともあり、ポリテクニーク卒業生を中心に当時のエリート層に広がり、1830-40年代にヨーロッパに展開された社会主義運動の波に乗った。後に宗教的理論を重んじる伝統派と理論を応用する実践派に別れたが、実践的サンシモン主義者にはナポレオン3世、オスマン、シュヴァリエ、ペレール兄弟、レセップスなどがおり、フランス産業革命、都市近代化の立役者や当時の政府中枢、エリートに大きな影響を与えた。

パリが世界一美しくなった当時の都市大改造の背景を見てみよう。19世紀初頭のフランスでは第1帝政崩壊後、ブルボン家のルイ18世が復権し王政復古(1814)が成立した。中道的な「憲章政治」をしたが、後継のシャルル10世をふくめて国民主権を否定、言論抑圧、カトリックを国教化、亡命貴族に対する補償などの反動政治を行ったため、新興ブルジョアと金融資本がこれに抵抗し「国民の王(rois des franç)」として自由主義者オルレアン家のフィリップを立てる革命を起こし7月王政(1830)による立憲君主制政治を打ち立てた。この間の自由主義の進展で産業資本家が急増し産業革命が進んだメリットはあったが、しょせん7月王政は革命派と王政派が一緒になったようなものであった。産業振興により労働階級が強化されたことで伝統貴族、新興ブルジョア間の対立が激しくなり、労働者は前にもまして政府に対して私有財産の不平等を唱えるようになった。その上、コレラによる社会不安、凶作による食糧不足、工業生産不振による不況が重なり失業者が大量発生し、労働者の雇用や社会改革を要求する声や行動が増大した。選挙権の拡大や労働者の権利を要求する政治集会を政府が禁止したことがきっかけで労働者などが武装蜂起し2月革命(1848)を起こした。

その結果として臨時政府が組まれ第2共和政(1848)が成立した。共和主義派と社会主義派の連合体であったが社会主義者のルイ=ブランが中心となって委員会を作り最低賃金・労働時間制度など社会主義的政策をとったが選挙に負け共和主義派が政権をとった。労働者の救済的な仕事場である「国立作業場」封鎖などの政策が行われたため、また、労働者が大暴動をおこしルイ=ブランは失脚した。そこで、新しいリーダシップを求めたブルジョア、労働者、農民の各期待に応える形で万を持して待機していたナポレオン1世の甥ルイ=ナポレオンが大量得票を集め大統領に選出され1852年に皇帝に即位し第2帝政が成立した。こういうフランスの共和政が固まる前の動乱・混乱期に時代の申し子として出現したのがナポレオン3世の政権であり、いろいろな時代的状況に助けられてルイ・フィリップによって進められていた都市改造を前提とした産業革命と帝国主義を完成させた。「美しいパリ」はその結果生まれたのである。

パリの改造は中世から権力者の政治的、経済的、軍事的な最大関心事でナポレオン3世やオースマン以前から始まっていた。16世紀にはフランソワ1世のルーヴル宮殿、17世紀にはルイ14世のヴェルサイユとシャンゼリゼ、チュルリ公園、18世紀にはルイ15世のコンコルド広場、凱旋門からルーヴルへの歴史軸が貫通し、ナポレオン1世のカルセール凱旋門、リヴォリ街の誕生があった。オスマン以前にも2人の知事がパリの近代化に腐心していた。実績のあった主だった知事を上げると、シャブロルは王宮から始まったパサージュを一般化し主要通りにガス灯がともした。ランビュトーは凱旋門だけでなく、バスチーユの円柱、コンコルドのオベリスク設置、通気と衛生を主眼に街路の新設と拡張、道幅13メートルのランビュトー通り(ノートルダムーシテー市庁舎)などを作った。オスマンの前の知事のベルガーはナポレオン3世の過大な要求に驚いて「不可能だ」と言って辞任してしまった。

整然としたパリの街(オスマン風建築物と見透しの良い通り)

整然としたパリの街(オスマン風建築物と見透しの良い通り)

ナポレオン3世は不安定な世相と政権を安定させるには「汚いパリ」を「きれいで安全なパリ」にする必要があった。イギリスですでに都市改革を見ているナポレオンは、是が非でも狭くて、暗く、汚れ、不安で防衛力のない中世都市のパリを、安全で防衛力があり、見通しがよく、水と空気、木陰と憩いがあり交通便利な近代都市に変革したかった。その希望を見事に実現したのがオスマンであった。しかし、産業革命と都市革命をしてフランスを当時の世界で最も魅力的な国にしたという偉大な功績にもかかわらず歴史は彼らに冷たく公平な評価が与えられなかった。二人とも通りの名前は残っているものの改革の頂点に立ったナポレオン3世は不名誉にも「Le Napoléon, le Petit(小人ナポレオン)」と呼ばれ、実際にパリを世界一にしたオスマンは「l’oblié(忘却の人)」となり今ではナポレオン1世やド・ゴールの陰に隠れてしまった。ナポレオンは戦争好きな侵略者の印象が強くナポレオン1世の陰に隠れ、オスマンも後半の強引なやり方に批判が集まり長生きした割には財政問題で糾弾され、最後は貧しく孤独に死んでいった。ナポレオン3世の顧問として活躍したシュヴァリエも経済史に確固たる名を残せず、アントレプルナーの走りで投資銀行と言う新しい手法を使って鉄道網の敷設や動産開発をしたペレール兄弟も伝統銀行の陰で存在感が薄い。

特にナポレオン3世とオスマンに同情しいつか書いてみたいと思っていたらここ10年ぐらいで彼らの業績の見直しが盛んになった。たとえば、有力政治家でシラク政権での閣僚(社会大臣)や国民議会議長、UMP総裁を務めた故フィリップ・セガン氏は、著書「Louis Napoléon, le Grand」の中でナポレオン3世を「Napoléon III est, sûrement, le plus mal aimé des chefs d’Étas de la France et le Second Empire le plus mal connu de ses régimes」と紹介し、その不当性を正しナポレオンの実績を詳しく紹介している。オスマンに関しては後の政治家、官僚に取り上げられることなく、一般の人もほとんど知らない。もっぱら一部の歴史家、建築家、都市計画研究者、エンジニアに取り上げられているのみである。歴史家でジャーナリストのジャン・ド・カー氏(Jean des Cars)は、オスマンを「Un célèblre inconnu(知られざる有名人)」として紹介し、彼の天性と業績を高く評価しているが十分とは言えない。(以下次号)

(2014年3月)

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