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【レポート】第46回輝く会 講演会 「シャンソンの真実~アラン・ドロンからミッテランまで」

シャンソン研究家&音楽ライターの十川ジャンマリ氏がフランスの国民的歌手ダリダの生涯をサンプルとしてシャンソンとフランス国民・政界との歴史的関わりについてわかりやすく解説くださいました。
さて、シャンソンの始まりは、フランス革命に遡ります。特権階級に独占されていた音楽が市民たちに解放されました。19世紀のボヘミアンというアーティストの卵たちの活躍、ベルエポックにモンマルトルにシャンソンを歌う店が流行するなどを経て、シャンソンは、大衆の歌として発展します。
エディット・ピアフなど歴史に残るシャンソン歌手が沢山いる中、今回ジャンマリ氏が選んだのはイタリア系フランス人歌手、ダリダでした。当時既に美的人気スターとして活躍していたアラン・ドロンと組んだ「あまい囁き」(パローレ)は、「これでどうだ!」という組み合わせで、世界的なヒットとなりました。これは、シャンソンの栄光の一つの頂点といってもよいとのことです。
シャンソン文化の発展には、ミッテラン政権が大きな役割を担いました。従来の保守政権は、クラシックやオペラなどの高尚な音楽を国民に普及させようとしました。それに対して、政権交代後の社会党・ミッテラン政権は、市中の大衆音楽こそがこれからの時代に必要だという思いがありました。
ミッテラン政権において1981年~92年まで文化大臣を務めたジャック・ラング氏が創設した『音楽の祭日』(Fête de la Musique)など 若者文化を取り入れた文化事業が花開き、そこでシャンソンは表舞台に出ることとなり、大きな発展を遂げることになったそうです。
実は、ミッテラン大統領は、ダリダの熱心なファンで、選挙キャンペーンをダリダにお願いします。会場に社会党のシンボルであるピンクのバラの花束を持って現れたダリダは、国民の半数(保守層)を敵に回すことになり、そのスキャンダルがきっかけでダリダの人気に陰りが訪れ、晩年はうつ病に苦しむことになりました。そして1987年睡眠薬で自殺を図り翌日に死亡します。自殺の直前にアラン・ドロンに電話をかけたがあいにく彼は撮影で留守。アラン・ドロンは車中のラジオでダリダの死を知ることになり、電話に出れなかったことを悔やんだそうです。
さらに他の話題も。日本でヒットした「フランシーヌの場合は」という和製シャンソンは新聞で小さく報じられていたフランスで起きた焼身自殺にインスピレーションを得た日本人が作詞・作曲しました。この作品は反戦歌としては異例の大ヒットをしたのですが、今ではすっかり忘れ去られています。フランスでは、反戦歌は歌い継がれて行きます。日本の流行歌の一過性が残念でなりません。
このように、知られざる沢山のエピソードがアコーディオンと共に披露されました。
参加者の皆様にはランチと共に楽しいひと時を楽しんでいただきました。

お食事

【開催済】第46回輝く会 講演会 「シャンソンの真実~アラン・ドロンからミッテランまで」

輝く会ではこれまで音楽に関するイベントも開催してまいりましたが、今回はシャンソンを知り尽くした音楽ライター 十川ジャンマリさんを迎え、フランスの歌謡界、政界、芸能界が交差する微妙な関係を語っていただきます。

ジャンマリさんからご講演前のコメントです。

「シャンソンの話をする時に、もちろん恋愛は避けて通れない テーマです。これは例えですが、皆様ご存知のエディット・ピアフの人生を一枚の美しいタペストリーだとすれば、縦糸の シャンソンと横糸の恋愛で織りなされていると表現すること ができるでしょう。彼女は、歌うことと恋することで人生のほとんどを費やしたと言っても決して過言ではありません。 ピアフの人生は、映画などでよく知られていますので、今回の講演では、ダリダという容姿端麗な女性歌手を取り上げ、 アラン・ドロンから始まりミッテランで終わる、彼女のラヴ・ストーリーを辿りたいと思います。

恋愛以外にもう一つ、シャンソンには階級間闘争という重大なテーマがあります。中世の時代、王権と教会権力によって 音楽は一部の人々に独占されていました。クラシック音楽家たちは、王侯貴族や教会に雇われていました。

はっきりと シャンソンと呼べるものが形作られたのは、フランス革命以降です。講演では、パリコミューンの時にできた『さくらんぼの実る頃』から現在に至るまでのシャンソンの歴史を振り返り、加えて知られざるミッテランの功績についても解説したいと思います」

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