「アフリカ徒然草」( AU代表部員によるアフリカに因んだエッセイ)

第28回 アパルトヘイト

アフリカについて随筆文を書く場合、アパルトヘイトに触れない訳にはいくまい。

ツツ大司教の死
モダン・ジャズの巨匠、故マイルス・デイビスが1986年に発表したアルバム「Tutu」というのがある。当時流行し始めた電子音を取り入れたフュージョン・タッチの楽 曲で構成され、マイルスの特徴的なトランペットの音色が語りかける。このアルバ ムの1曲目は、タイトル曲「Tutu」である。Tutu とは、ノーベル平和賞受賞者の南 アフリカの神学者デズモンド・ツツ大司教のことである。ツツ司教はアパルトヘイ ト撤廃に向けて非暴力で立ち向かった活動家である。1981年から毎年ノーベル 平和賞にノミネートされ、1984年に受賞した。このツツ大主教が、2021年1 2月26日に死去したとのニュースが世界中を駆け巡った。享年90歳。
1989年に白人で大統領に就任し、アパルトヘイト撤廃を加速させたデクラーク氏の死(2021年11月11日、享年85歳)を追う形となった。
ちなみに、このマイルスのアルバムのラストは「Full Nelson」という曲。フルネルソンとはレスリングの技にもあるが、この曲は言わずもがな、2013年12月5日に95歳で天に召されたネルソン・マンデラに向けたものである。

アパルトヘイトとは
「アパルトヘイト(Apartheid)」とは、南アフリカの公用語のアフリカーンス語で「分離、隔離」を意味する。特に南アフリカにおける白人と非白人(黒人、アジア系、カラードと呼ばれた混血等)の関係を規定する人種隔離政策を指す。アパルトヘイトという単語自体は、1913年の「原住民土地法」に登場するが、一般に普及したのは、1948年に居住地区条項を法律で定めた頃からである。アパルトヘイトは、1994年に撤廃されるまでの半世紀もの間、いや差別自体はもっと長期に亘り、行われてきた。現在の人種差別とは異なり、国家が政策として法律その他の公の制度で定めていたことは、21世紀に生きる我々にとって、想像を絶するものである。しかし、これがまかり通っていたのは、人類史における純然たる事実である。
なお、一部のリベラルな白人の中には、反アパルトヘイト運動を行っていた者がいたことも事実である。

日露戦争の背景との繋がり
ロシアのバルチック艦隊を破って日本が勝利した日露戦争(1904–05)は、有色人種が白人との戦争に勝利したとして、アジア、中東、アフリカの多くの人々を勇気づけたと言われている。 開戦の2年前の1902年に日英同盟が締結された。「栄光ある孤立」政策を維持していた大英帝国が、なぜ日本と同盟を結ぶに及んだのか? 筆者は歴史家ではないので、実務家としての解釈を述べる。ロシアの欧州での南下を危惧する英国は、その当時、南アフリカでのボーア戦争(南阿戦争、ブール戦 争)の終局を迎えていた。ボーア戦争は、南アフリカに移住していたオランダ系移民の子孫(ブール人)と、南アを支配下に収めようとする英国との間の戦争であ る。1880~1881年の第一次ボーア戦争では、英国側が圧倒的な数の死傷者を出して屈辱の敗退。満を持しての第二次戦争(1899–1902年)では、序盤こそ劣勢に立ったが、終盤に巻き返してなんとか勝利した。英国は、このボーア戦争に大量の資源を投入し、多大な犠牲を払った。そのような中で、不凍港を求めて南下するロシアを食い止める必要があったが、正面から戦う余裕はなかった。また、ボーア戦争を通して、オランダの裏にいるドイツの動きにも警戒が働いた。そこで、同じように極東でロシアの南下に脅威を感じていた日本と同盟を結ぶこととなった。締結は1902年1月。ボーア戦争に英国が辛勝した(同年5月)ほんの数か月前のことだった。

このボーア人、英国との戦争に負けた後も支配層である英国人に抵抗を続けるが、その生活は貧しく、「プア・ホワイト」と呼ばれていた。この困窮白人を救済するために、鉱山労働法、原住民土地法、産業調整法といった法律が次々と成立し、有色人種との差別化が図られた。

あのガンジーも影響を受けた
インド独立の象徴的存在の政治指導者、マハトマ・ガンジーを知らない人はいないだろう。しかし、ガンジーの活動に南アの人種差別が直接的な影響を及ぼしたことは余り知られていないかもしれない。英国の植民地下のインドで生まれ育ったガンジーは、ロンドンで法律を学び、卒業後、1893年に英国領南アフリカ連邦で弁護士として開業した。丁度、第二次ボーア戦争激しかりし頃である。そして、まさに白人優位の人種差別が行われていたところであった。英国紳士として振る舞っていたガンジー自身もインド系ということで差別を受け、インド人としての意識に目覚めていった。そしてインド系移民の差別に対する権利の請求運動を行い、投獄さ

れる苦難も味わった。その後、インドに帰国してからの活動は皆の知るところである。帰国直前には南アのダーバンで農場を経営し、そこで、禁欲、断食といったストイックな生活を送り、精神面が強化されたと言われている。
インドのニューデリーでガンジーが暗殺された1948年1月の半年後、南アで は、アフリカーナー(南アの白人)国家主義のマラン率いる国民党が総選挙で勝利し、アパルトヘイトが国家制度として確立された。天国でガンジーはどういう思いでこの状況を見ていたのだろうか。

高まる反アパルトヘイト運動
アパルトヘイトによる差別を受けていた非白人たちは、黙って耐えていただけではない。何年にもわたり、南アフリカ各地で様々なデモ活動や地下活動が行われてきた。反アパルトヘイトの活動家として有名なのは、ネルソン・マンデラ、オリバ ー・タンボ、そして白人との混血のウォルター・シスルの3名だろう。彼らはいずれも、現在政党となっているアフリカ民族会議(ANC)の青年同盟に加入し、ANC幹部にまで登りつめた。オリバー・タンボだけ、アパルトヘイトの撤廃を見ること無く、1993年に他界した。彼は、訪日した際に、広島の原爆資料館を訪れており、そこで記帳を行っている。21世紀になり、ANC 幹部が訪日した際、広島でオリバー・タンボの署名が入ったページを見て大変感銘を受けていたと聞いた。彼らの正義を求めた闘争は、今も関係者の心に刻み込まれているのだ。
反アパルトヘイト運動の母体としては、ANC の他にも、南アフリカ・インド人会議(SAIC)、ANC から分派したパン・アフリカニスト会議(PAC)等がある。

シャープビル虐殺事件とロベン島大学
1960年、「パス法」(1952年に成立)に反対する集会が、PAC の呼びかけに ANC が合流する形で、ヨハネスブルグ郊外で開催された。「パス法」とは、南ア居住の16歳以上の黒人は、氏名、写真、指紋、雇用主(白人に限定)の連絡先等が明記された身分証を常時携帯していなければならないとする法律である。集まった群衆に軍が発砲し、参加者は次々と逮捕された。この事件は、集会の地名から 「シャープビル虐殺事件」と称される。これを機に、ANC と PAC は非合法とさ れ、マンデラは1962年に、シスルは1963年に逮捕され、ロベン島の刑務所に送られた。タンボは、その頃には既にザンビアに亡命しており、遠隔で活動を続けていた。マンデラは、釈放されるまでの実に28年間、ロベン島で過ごすことになる。ここでは、様々な政治犯が投獄されていたが、自由と民主主義について学びあったことから、「ロベン島大学」と呼ばれることもある。ロベン島は、ケープタ

ウンから十数キロ離れた距離にあり、その間の海の波は比較的荒い。受刑者は、脱獄したとしても、遊泳はもちろん、ボートで簡単に本土に戻れる訳ではない。つまり、島流しにはもってこいの場所といえるだろう。

学生運動のソウェト蜂起
日本が安保闘争で荒れていたころ、南アでもう一つの反アパルトヘイト活動が始まっていた。マンデラら3人の活動家にもう一人、象徴的な活動家を加えるとすれ ば、大学生のスティーブ・ビコの名が挙がるだろう。ビコは、1968年、黒人だけの学生組織「南アフリカ学生機構」を結成し、様々な活動を行った。黒人の意識を高めるこの運動は全土に広がり、1976年、オランダ系移民の言葉で南アの公用語となっていたアフリカーンス語での教育に反対する黒人がヨハネスブルグで抗議運動を起こした。これは「ソウェト蜂起」と呼ばれ、南ア国内のみならず、国際社会の目をアパルトヘイトに向けさせる重大なケースとなった。以後、南ア国内では反アパルトヘイト活動が盛んになっていく。

国際社会からの制裁
1952年以降、国連総会は、アパルトヘイトに対する非難決議を毎年採択し続 け、1973年には「人道に対する罪」と糾弾した。南アは1960年に共和制に移行し、現在の南アフリカ共和国となった。この際、英連邦への継続加盟申請を行ったが、英連邦からの非難を受け、翌61年に英連邦から脱退した。
アパルトヘイト制裁はスポーツの祭典にも及んだ。1960年のローマ五輪への出場が叶わず、1970年には国際オリンピック委員会(IOC)から除名。1992年のバルセロナ五輪で漸く復帰した。

日本は名誉白人
1980年代には、国際社会の多くがアパルトヘイトに反対し、南アとの経済制裁や交流停止の措置を執った。日本は南アにとり、重要な貿易相手国であったことから、1961年以降、日本人は「名誉白人」として他の非白人とは区別され、特別な地位を有していた。しかし、白人専用のホテルやレストランといった施設への出入りが認められたにとどまり、永住権や不動産取得権は認められなかった。また、白人と非白人の間の性交渉を禁じる背徳法は日本人にも適用された。日本が南アの最大貿易相手国となったことを受けて、1988年2月、国連反アパルトヘイト特別委員会の委員長は、遺憾の意を表明した。

マンデラ氏ついに釈放!
80年代、当時の南ア政府は、ソウェト蜂起の際にやり玉に挙げられたパス法を含む複数の措置を廃止したが、国際社会の南ア政府への批判は止むことはなかった。その後、1989年に大統領に就任したデクラークは、アパルトヘイト撤廃に向けた改革を促進した。彼は、1990年2月に、ANC 等の非合法団体を政党として合法化し、マンデラを釈放した。その後、1994年のアパルトヘイト完全撤廃まで、一気に改革が加速するのだが、移行期は常に不安定で危険な期間である。黒人による白人狩りのような仕返し行為も含め、国内には不安も広がり、混乱し、多数の死者も出た。
1994年4月に初めて全人種が参加する総選挙が行われ、5月にマンデラが大統領に就任。新政権が樹立された。これでアパルトヘイトは終了。国際社会の制裁も順次解除されていった。ツツ司教は、様々な肌の色が1つにまとまったこの国を「レインボー・ネーション」と表現した。

差別は無くならない
21世紀の今でも、人種差別は続いている。ブラック・ライブズ・マター(BLM)という単語のハッシュタグが SNS 上でペタペタと貼り付けられるのを目の当たりにする。我々人類は、アパルトヘイトの反省をどのくらいしているのだろうか。

「アマンドラ! 希望の歌」という南アのアパルトヘイトを映したドキュメンタリー映画がある。この「アマンドラ」は、南部アフリカの土着言語の1つのングニ語で「力を」という意味である。誰かが「アマンドラ」と発すると、皆が「アウェイトゥ」と応じる。このやりとりは、「人々に力を(power to the people)」という標語になる。アパルトヘイトで苦しいときにも、常に人々は歌を歌っていた。歌が希望を与え、それが力となった。
21世紀の今も、アマンドラと誰かが声を上げなければならないのではないか。

マイルス・デイビスの曲にも「Amandla」というのがある。これが発表されたのが 1980年代終盤。まさにアパルトヘイトの末期である。ジャズの天才が65歳という若さで他界したのは、1991年。デクラークがアパルトヘイト廃止を宣言した年である。マイルスはいったいどのような心境で、トランペットを吹いていたのだろうか。

(AU代森本)

(本エッセイは、AU代表部員個人の見解を記したものであり、必ずしも当代表部または日本政府の立場を反映したものではありません。)

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