「アフリカ徒然草」( AU代表部員によるアフリカに因んだエッセイ)

第26回 アフリカにおける民主主義と選挙(その1)

アフリカの民主主義
今回のテーマは難しいので少し緊張するが、重要な論点だと思っている。職場の同僚たちと本件について大議論を展開したことがある。簡単に議論が収斂する性格のものではない。その時の議論の中身も少し敷衍しながら、アフリカの民主主義について述べて、次回は選挙について触れたい。

民主主義の実態は、辞書で定義づけられている以上の意味や課題が含まれるものと思われる(注)。言論の自由、法の支配、基本的人権、自由な経済活動等、様々な側面が考慮される必要がある。国家の体制について言えば、全体主義や独裁主義の対局にある概念だと考える。

(注)「民主主義」
・自由や人々の間の平等における信念、あるいはそれに基づいた政府の制度で、そこでの権力は、選挙で選ばれた代表者か、直接人々に掌握される。
・選挙で選ばれた代表者によって権力を掌握された国。
(Cambridge Dictionary 該当部分を筆者が仮訳。)

アフリカにおける民主主義は、元来は西側諸国によって導入されたものである。民主主義が現代の形になるまでには、人類が血を流して獲得した歴史がある。アフリカが今日の姿に至るまでには、植民地支配、冷戦、独立闘争と独立後の統合に向けた取組、といった長い道のりがあった。欧米が主導し、世界が民主主義や人権といった概念を構築していく過程に、アフリカが参画している余裕は、当時はなかったかもしれない。
形だけのシステムをアフリカに適用し、あとはじっと待っていればよい、ということではない。
「材木がどれだけ長く水に浮いていても、絶対にワニにはならない(注)」のだ。どんなに形式がよく似ていても、偽物は本物にはなりえない。民主主義も、そのシステムを使う側が、それを自分のものとして取り入れていく必要がある。

(注)西アフリカのニジェール川流域を中心に居住するソンガイ系の人々諺。15、16世紀には、この地域にソンガイ王国が栄えた。

伝統と近代化(西欧化)との狭間で
アフリカにも民主的なシステムは以前から存在している。人々が村のシンボルツリーの下に集まり、長老や賢者の導きで対話を行う。そこには、コンセンサスによる合議形式による意思決定という「民主主義」が存在すると言えるのではないか。透明性も確保される。これが、アフリカの民主主義のルーツであろう。

欧米が是とする自由で公平な選挙で選ばれたリーダーが統治するシステムが、このような(既に十分機能している)伝統社会のルールを上書きすることは可能だろうか?
アフリカ固有の伝統的、宗教的な社会統合のあり方とは別の文脈での正当性が付与されたリーダーは、その権限で従来の社会のルールを変え、自分自身や自分が属する一族の利益の最大化を求めようとするかもしれない。アフリカに限ったことではないかもしれないが、そうなった場合、そのリーダーが権力の座に座る政府は間違いなく腐敗するだろう。

アフリカの学校にも、いわゆる公民授業があり、生徒は選挙や法の支配を学ぶという。しかしながら、その概念は、伝統的、宗教的な価値判断に強く影響を受ける彼らの日常生活に、身近なものとして根付いている訳では必ずしもないだろう。
なお、アフリカの名誉のために言うと、民主主義の実行に成功しているアフリカの国も実際に存在している。

伝統的には、国家というよりはむしろ部族社会の単位としてだが、宗教指導者等の地域社会のリーダーを話し合いによって民主的に選出するシステムはアフリカに存在する。こうしたシステムは現在も根強く存在し、むしろ良く機能している。そのため、尚更、日常生活に密着した伝統・習慣と、現代社会において要求される新たな制度との間でジレンマが生じることになる。個人の生活における紛争解決方法としては、裁判所に持ち込む司法制度もあるが、伝統的、宗教的な統治メカニズムを通じた解決方法もある。すなわち、もめ事は村の長老か宗教指導者に相談し、裁きを下してもらうのである。アフリカでは、多くの人は後者を選好するだろう。
年長者に敬意を払う文化は日本を含めて世界共通で、アフリカに特有なものではない。年齢が基準となって年長者が社会の代表に選ばれるシステムにおいては、選出

された長老の指示には誰もが従うであろう。しかし、その社会にいきなり選挙が導入されて、留学帰りの若者が選出された場合、その新たな指導者は、伝統的な社会でリーダーとして尊重されるのだろうか?

アフリカ人はアフリカ人たらねば
アフリカの状況に照らせば、未知のものを探るより、既に持っているものを活用して、それを開発するアプローチをとる方が上手くいくのではないだろうか。その方が、アフリカの一般的市民の感覚にも合致するだろう。外部の社会から一方的に押しつけられるよりも、アフリカの潜在能力を生かした方が良いということだ。
現実問題として、アフリカでリーダーになる人の多くは、英、仏をはじめとする欧米で勉強している。そうして欧米的な思考や振る舞いを身につけたアフリカ人の多くは、知らず知らずのうちに欧米人になろうとしているのではないだろうか?
また、アフリカで民主主義というシステムが失敗する原因の1つには、選ばれたリーダーへの権力の一極集中があるのではないだろうか。政権交代で権力の座を降りても、自分や側近たちが、その生命も含めて安全が確保され、要すれば引き続き政治活動に参画し続けられるスペースが確保される必要がある。これが無いと、最後まで権力の座にしがみつかざるを得なくなるのではないか。他方、権力の座を離れた者に対し、権力掌握期間内に行った取組への説明責任を免除することは危険である。権力を離れた後に説明責任を求められないのであれば、在任中、それまで以上に汚職など法に触れることに手を染めることにもなりかねない。
これまでに上手くいっている土着のルールと合理的な西洋ルールの関係をどう調節していくか、が問われているのだろう。

民主主義は贅沢なもの?
さて、民主主義を経済開発の観点から捉えると、民主主義の支持層は、いわゆる中間層かそれ以上の層である。貧困層は、自分たちの存命で精一杯で、自国や世界の政治経済事情について考えたり、働きかける余裕は余りないだろう。開発の度合いが低い国の場合、独裁体制である方が、意思決定のスピードが速く、経済開発に有利という皮肉な考え方もできる。かつてのアジアの開発独裁がその例であろう。独裁体制の是非はともかく、その国の経済開発にとって良い政策であれば、独裁者は強いリーダーシップで政策を推進するため、一定程度の成果を得ることは可能だろう。しかし、その過程で、プロジェクトの現地の環境アセスメントは無視され、住民は立ち退きを余具無くされ、十分な補償は得られないかもしれない。それでもマクロ経済上はプラスの結果が得られ、経済社会開発は次の段階に上がる。そうなれ

ば、民主的選挙の必要性が叫ばれ、環境や人権・人道を擁護する活動が始まるだろう。幹線道路を建設する計画を実施する場合、その道路が通る地域の住民たちの意見や自然環境について十分な調査と評価をせずに建設することは、もはや不可能となる。

すなわち、民主主義は「高価なシステム」ということだろう。無理矢理押しつけられても機能しないし、持続的ではない。
民主主義は、その発祥の起源はともかく、西洋のものではもはやない。その証拠に、日本を含む国際社会の多くがその価値を主張しているではないか。
では、どうすれば万国共通の価値といえるのか?
形態に差はあっても、人権、言論の自由、選挙の実施等の中心となる価値観は尊重されるべきである。
アフリカの民主主義についてのこうした議論にはまだ結論はない。その答えは、アフリカ人自身が下すべきなのだ。

(AU代森本)

(本エッセイは、AU代表部員個人の見解を記したものであり、必ずしも当代表部または日本政府の立場を反映したものではありません。)

(村のシンボルツリー。ここで民主的な合議により重要案件の意思決定が行われる。筆者撮影)

pdfのダウンロードはこちらから