「アフリカ徒然草」( AU代表部員によるアフリカに因んだエッセイ)

第24回 野口英世アフリカ賞

●野口英世の功績
「アフリカン・フェスタ」というイベントをご存じだろうか。ウェブ上では、202 2年はコロナ禍で中止と掲示されていたが、アフリカに関する大規模な祭典で、1 999年から開催されてきた。筆者も会場である横浜の赤煉瓦倉庫に行き、外務省ブースで受付や来客対応をしたことがある。野口英世の等身大のパネルをブースの前において、御覧頂いたり、一緒に写真を撮ったりできるようにしていた。
医師・野口英世。日本人で知らない人はいないくらいの偉人の1人だろう。貧しい農家に生まれ、幼少の頃に左手にひどい火傷を負って障害を抱えつつも、医師・細菌学者となり、渡米し、最後には黄熱病の研究のために英領ゴールド・コースト(現在のガーナ)に滞在し、自身も黄熱病に倒れ、1928年に51歳でこの世を去った。酒好きで浪費家だった一面もあったと言われている。ノーベル医学賞候補に3度名を連ねる程研究熱心だったが、受賞はならなかった。2004年発行の千円札の肖像にもなっているのは皆知るところであろう。ちなみに、2024年には北里柴三郎にバトンタッチし、その裏面には、葛飾北斎の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」が描かれるようだ。
野口語録の1つとして、「ナポレオンは3時間しか寝なかった」というのがある。独力で勉強して医者になった努力家ならでは、の弁である。後になって思えば、筆者は幼少のころから、母親からこの言葉を聞かされてきた。仕事で深夜残業し、頭が煮詰まってくると、しばしばこの言葉を思い出した。

●野口記念医学研究所
アフリカン・フェスタで等身大のパネルとして登場する程、野口英世がアフリカとの文脈で語られることは多い。前述したとおり、黄熱病の研究でガーナに渡航したことがその理由である。そのガーナに、1979年、日本政府の支援により医学研究所が設立された。これが「野口記念医学研究所(Noguchi Memorial Institute for Medical Research(NMIMR))」である。この研究所の研究能力の向上のため、日本政府は、技術協力、施設整備・機材供与等の支援を行っている。
コロナ対策としても、西部アフリカで中心的な役割を果たしている現役バリバリの医学研究所である。

●野口英世アフリカ賞と TICAD
野口英世の志を受け継ぎ、アフリカのための医学研究・医療活動それぞれの分野において顕著な功績を挙げた方々を顕彰し、アフリカに住む人々、ひいては人類全体の福祉の向上を図ることを目的として、「野口英世アフリカ賞」(以下、野口賞)が創設された。2006年7月、小泉総理と来日中のコナレ・アフリカ連合委員会 (AUC)委員長により、野口賞に関する記者発表が行われた。
そして、2008年に横浜で第4回アフリカ開発会議(TICADIV)が開催された機会に、第1回野口賞授賞式典が執り行われた。以後、TICAD の機会に、野口賞の発表が行われることとなった。

これまで、野口賞授賞式は3回開催された。受賞者は以下のとおり。
・第1回(2008年)
【医学研究分野】ブライアン・グリーンウッド博士(英国)、ロンドン大学衛生熱帯医学校教授
【医療活動分野】ミリアム・ウェレ博士(ケニア)、国家エイズ対策委員会(NACC)委員長
・第2回(2013年)
【医学研究分野】ピーター・ピオット博士(ベルギー)、ロンドン大学衛生・熱帯医学大学院学長
【医療活動分野】アレックス・G・コウティーノ博士(ウガンダ)、マケレレ大学感染症研究所所長
・第3回(2019年)
【医学研究分野】ジャン=ジャック・ムエンベ=タムフム博士(コンゴ民主共和国)、国立生物医学研究所(INRB)所長・キンシャサ大学医学部医学微生物学/ウイルス学正教授
【医療活動分野】フランシス・ジャーバス・オマスワ博士(ウガンダ)、グローバルヘルスと社会変革のためのアフリカセンター(CHEST)所長

●野口英世アフリカ賞は突然やって来た!
2006年のゴールデン・ウィークの期間に、小泉純一郎総理大臣が、エチオピアとガーナを訪問した。最初の訪問地であるエチオピアに到着したのが4月29日だから、日本を出発したのは28日の筈だ。もうその頃は、現地では準備が佳境に入り、てんやわんやの状態だった。そこに、一本の電話連絡が入った。アジアの某国で給油中の小泉総理一行を乗せた政府専用機からだった。

「小泉総理が野口賞というアフリカの医学に関するノーベル賞のようなものを発表するので、コナレ AUC 委員長との会談でその話を持ち出すので宜しく。」
一瞬何のことだか分からなかったが、すぐに「さぁ大変だ。準備準備」と現場が更に活気づいたのを昨日のことのように覚えている。
それから話はトントン拍子に進み、2008年の TICADIV で、天皇皇后両陛下、総理大臣、そして TICAD 出席のアフリカ首脳、更には日本からの来賓が一堂に会した中で、第1回野口賞の授賞式典が執り行われた。

●野口賞の創設に係るエピソードについては、2007年7月に開催された経団連の常任理事会における小泉元総理の講演内容をお読み頂くのが最も良いので、関連部分を抜粋する。
(以下、引用)
○(前略)この「野口英世アフリカ賞」は、私が昨年、現職の総理大臣としてアフリカを訪問する際、アフリカ53か国あるわけですが、どこの国を訪問したらよいかと。(略)選んだのはエチオピアとガーナです。エチオピアをなぜ選んだかといいますと、これはアフリカ連合AUの本部がエチオピアにあります。(略)もう一つ、これは、ガーナ。野口英世博士が51歳で黄熱病の研究の最中、亡くなったところです。(略)
不思議なことで、アフリカに行く飛行機の中、1人で政府専用機の総理大臣の部屋で考えているうちに、野口博士の声が聞こえて来るような気がしたんです。 「よく来てくれたな」
野口博士からうれしそうな声で。そのときふと考えたのは、日本も病や貧困に悩んでいるアフリカの人々に何かしてあげるべきだと。そして考えたのが、この「野口英世アフリカ賞」なんです。(略)

○それにしても、よくもまあ、すでに世界で十分名声を博した博士が、50歳になって、昭和2年にガーナにわたり、一年たらずで亡くなったわけですが、アフリカにまで渡り、黄熱病の研究に取り組んだものだと思うんですね。この情熱たるや、使命感たるや、尋常ではない。その野口博士の研究室はガーナに今も残っています。

○野口博士は、幼くして手を囲炉裏でやけどをし、貧しい家庭で学校に行く金もない。もちろん医者に診てもらう金もない。手術してもらう金もない。しかし野口博士に対して、回りの方々が、野口博士の才能については多くの人が認めた。そして資金を援助するわけです。学校に行かせてもらい、手術をし、多くの人に助けられ

て医学博士になり、アメリカにわたり、ロックフェラー医学研究所で研究をやっ て、業績を認められた。その後さらに病の根絶のため研究の情熱さめることなく、アフリカに渡り、自ら黄熱病で亡くなった。

○野口英世博士の人間性については、毀誉褒貶相半ばする人であります。(略) そこにある野口英世は、人間性を考えたら二度とこういう人とは付き合いたくな い、という人です(笑)。変人と私はいわれていますが(笑)、変人どころじゃない(笑)。もう、ある意味においては性格破綻者といってもいいくらいな借金王です。貧しいせいか、誰彼とかまわず借金をするんです。そして平然と踏み倒すんです。不思議なことに、これほどひどい借金をして踏み倒すのに、また貸しちゃう人がいるんです。(略)

○「野口英世アフリカ賞」は、アフリカの病の撲滅に努力している人、医療活動に従事している人に対象を絞って、ノーベル賞級の資金を授与しようというもので す。ノーベル賞を超えるというのはノーベル賞に対し僭越ですから、ノーベル賞程度の1億円の賞金を、医学研究者、医療従事者に、5年に1度与えようというものです。(略)

○日本は5年に1回、アフリカ開発会議(TICAD)を開催しています。
来年は4回目で、横浜で開催しますが、この会議にはアフリカの大統領、首相が来ます。その TICAD の席で第1回の「野口英世アフリカ賞」授賞式をやろうと。たまたま来年5月は、野口博士が亡くなって80周年の節目にあたります。そういうことから、私は、日本としてもアフリカに対して進んで取り組む姿勢を示すことが出来ると思います。

○野口英世アフリカ賞は、宗派にとらわれず、また、政治にもとらわれず、世代を超えて、アフリカ医療に関する業績、これを顕彰しようというものです。(略)

○野口英世は借金王だと、確かに天才的借金王。あれほどの貧苦の中から、アメリカに渡って、そして、世界的な功績をあげた。こういう天才でありましたので、考えてみれば、亡くなった借金王の野口博士が、現職の総理に借金を申し込んだと思えばいいのかなと思っています(笑)。野口英世という天才に入れあげるのであればいいなぁと、喜んで募金委員会の代表世話人になりました。(略)

○総理大臣の5年5か月の退職金は、全部、この「野口英世アフリカ賞」に寄附しました。

○募金は一口千円です。なぜ一口千円かというと、千円札の肖像画が野口英世だからです。政府だけではなく、財界だけでなく、一般国民にも、小学生にもお年玉から千円なりとも、寄附してくれることを期待しています。多くの国民が野口英世の人生を見て、学んで、何か感じる。
それで勇気付けられる。自分も何か努力しようと。そしてその善意がアフリカの病に苦しんでいる人たちを少しでも助けることになる。」(引用終わり)

●ちなみに、野口英世の身長は150センチちょっとで、当時の日本人にしても小柄だったようだ。アフリカン・フェスタのパネルを見た来訪者が一様に、「意外と小柄なんですね」と感想を漏らしていた。中には、「本当にこんなに小さかったのか」と聞いてくる方もおり、そうだと答えても、「嘘だろう」と疑いの目を向けられたことがあった。等身大として作られているので間違いない筈だが、歴史上の人物だけに面識はなく、説得力はないが、間違いありません、と答えるしかなかっ た。小さな偉人、野口博士よ永遠に。

(AU代森本)

(本エッセイは、AU代表部員個人の見解を記したものであり、必ずしも当代表部または日本政府の立場を反映したものではありません。)

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(野口記念医学研究所:JICA HP より)

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