「アフリカ徒然草」( AU代表部員によるアフリカに因んだエッセイ)

第23回 国境画定(その3:エチオピアとエリトリアの国境視察録)

●百聞は一見にしかず
エチオピア・エリトリア間で国境画定に関する交渉が難航していた頃、幅25kmの安全地帯へのエリトリア側からの侵入や、UNMEE 要員への嫌がらせが報告されたりした。安全地帯への侵入は、収穫の季節には、近郊の住民たちが農作物の収穫のためと称して行われる。わざわざそのような場所に作付けしなくても良いのに、と思うかもしれないが、元々耕作地だったところを一方的に立ち入り禁止としたのは国際社会の方である。ならば一時的な侵入は仕方がないとするか。最近、「収穫(harvesting)」と称して戦車で相手国の領土に侵入した別の事案が生じた。こういう例があれば、収穫であろうと何であろうと、ダメなものはダメだと思い直してしまう。
話を戻すが、UNMEE の活動は思うように進まなかった。両当事国が非協力的で、本来目的である監視活動が妨害され、国境画定交渉も暗礁に乗り上げている。国連は、UNMEE の撤退を検討し始めた(2008年7月末に UNMEE は撤退した)。両者が一触即発の状態にあり、監視がなくなれば、何が起こってもおかしくない。ちょっとした小競り合いが大惨事に発展する危険性がある。そもそも、エチ・エリ国境紛争の発端はそうした小規模衝突だったではないか。
首都で様々なルートから情報収集をするが、百聞は一見に如かず。実際に見に行こう。そして、現地の人々の話を聞こう。ということになり、エチオピア北部ティグライ州の国境地帯に大使と共に出張することになった。

●出張日程を固めてから、エチオピア政府には、我々の出張日程、行き先、目的を明記して通報すると共に、安全面を含め、必要に応じた支援の依頼を書面で提出した。同時に、国連(UNMEE)に対し、現地への同行と案内を依頼した。程なく、国連からは、出張中に各自の身に起こるいかなる不利益についても自己責任で対処する、という内容の誓約書に署名するよう求められた。我々は、これに署名した。出張当日、空港に行くと、エチオピア外務省から責任者が見送りに来てくれてい た。その隣に、1名のセキュリティ・オフィサーと呼ばれる人物がいた。我々に同行するらしい。書面で安全面での支援を依頼したためだろうか。寡黙で英語も余り通じないようだった。我々の安全確保の目的の他に、恐らく我々の行動を見張り、

逐一本部に報告する役目も担っていたのだろう。後で分かったのだが、この安全対策官は、往復の航空券を政府から渡されただけで、宿泊費や食費は一切受け取っておらず、我々が支払うことになった。事後に、この点をエチオピア外務省に指摘したら、「分かった。払い戻しを検討する」と言われたが、結局うやむやになってしまった。
ティグライ州の州都であるメケレに到着し、ホテルにチェックインし、迷彩服を着た UNMEE の担当者と合流。交通の要所であるアディグラットを経由して、目的地の国境へ。

●ところで、「外交関係に関するウィーン条約」という国際約束がある(注)。この条約では、外交官は、その接受国(赴任先の国)の領域内を自由に移動・旅行することが認められ、そのための便宜が保証され、外交官の身分が不可侵のものであることが定められている(第25条、第26条、第29条)。同時に、外交官は接受国の法令を遵守することが求められる(第40条)。善良な市民でいろということだ。法律をどう解釈してどう適用するか、という知的作業とは別に、現実問題として現場で何が起きるか、ということを見る上で、筆者の経験は一つの例示となるだろう。

(注)外交関係に関するウィーン条約
第25条:接受国は、使節団に対し、その任務の遂行のため十分な便宜を与えなければならない。
第26条:接受国は、国の安全上の理由により立入りが禁止される又は規制されている地域に関する法令に従うことを条件として、使節団のすべての構成員に対し、自国の領域内における移動の自由及び旅行の自由を確保しなければならない。
第29条:外交官の身体は、不可侵とする。外交官は、いかなる方法によっても抑留し又は拘禁することができない。接受国は、相応な敬意をもって外交官を待遇し、かつ、外交官の身 体、自由又は尊厳に対するいかなる侵害をも防止するためすべての適当な措置を執らなければならない。
第40条ー1:特権及び免除を害することなく、接受国の法令を尊重することは、特権及び免除を享有するすべての者の義務である。それらの者は、また、接受国の国内問題に介入しない義務を有する。

●現地の自警団に取り囲まれる
現地に着くまでの道中、幾つものチェックポイントを通過した。ある地点では軍 が、またある地点では警察が、というように、治安部隊が要所を守り、通行車両や人を厳しくチェックしていく。国境に近づくにつれて、段々と道が細く、込み入っ

ていく。幾つかのチェックポイントを守っているのは、様々な服装をした現地の人たちだ。ある者は軍服、しかも、どこで手に入れたのか分からないくらい、皆バラバラだ。またあるものはTシャツにジーンズといった私服だったりもする。彼ら は、地元のミリシア(武装した自警団、といったところか)だそうだ。橋その他重要なポイントは、政府軍ではなく、むしろミリシアに任せた方が良いとも言う。現地を知り尽くした彼らは、通行車両や乗員が地元民かよそ者か、すぐに見分けることができる。また、守っているのが自分たちの土地ということで、士気も高い。もっとも、全てのポイントに正規の軍や警察を配備するのは困難だから、という政府側の台所事情もあるだろう。

●ここがそうだ、という場所で下車した。人間の背丈よりも高い植物が鬱蒼と茂るところで、UNMEE の要員から指さされた方を見ると、すぐそこが国境だった。その茂みからは、PKO 要員が巡回から戻ってきたりしている。季節にもよるかもしれないが、国境はもっと見晴らしの良いところだと思っていた。これでは、監視もままならないだろう。しかも、UNMEE による安全地帯の上空飛行を当事国が認めないと主張している。これなら、意図してこの地帯に潜り込むことも可能だろうし、誤射などの事案も発生するかもしれない。
やはり、百聞は一見にしかず。現場主義の重要性を再認識する。

●そのとき、現場が騒がしくなった。見ると、地元の若者が大勢、どこからともなく集まってきた。服装は私服。そのリーダー格らしい青年を含め何人かは銃を持っている。なにやら UNMEE 側と揉めている様子である。どうやら我々に関係がありそうなので、何事かと出て行ったら、突然の侵入者(我々)を危険分子とみなしているらしい。何だ、そんなことか、と思い、こちらは日本大使閣下で、私は大使館に勤める大使のアドバイザーである、と伝えた。相手は、それがどうした、という顔をしている。何をしている、との質問に、できるだけ丁寧に答え、またこの出張については、エチオピア政府にも通報していることを添えた。しかし、そのリーダーは、こんなところで何をしている、と繰り返し、敵対心をあらわにする。困っ た。この状況でウィーン条約云々、と言ったところで効果は期待できなさそうだ が、主張するだけはやってみた。しかし相手はニヤッと笑ったまま、そんな難しいこと言っても脅しには乗らないぞ、という感じである。こちらとしては、脅しでも何でもなく、国際法上の権利義務の説明をして理解を求めただけなのだが。彼は銃を見せながら、自分はお前たちを恐れていない、と繰り返す。大使はというと、そんな青年リーダーに対し、「君は勇敢だねぇ」と微笑みながら話しかけていた。

さて、押し問答も1時間近く続き、彼らの方も困ってきたようだ。リーダーが、今から大佐(Colonel)に電話する、といって携帯電話を取り出した。我々を持て余しているのだろう、上官に判断を仰ぐというのだ。彼らはミリシアである。国境地帯を守っているので、非常に重要な任務を負っている筈だ。

●強制連行?!
上官は市場に出かけていて、連絡が取れないという。その日は土曜日で、多くの人が市場に出かけるらしい。ますます困った彼らは、我々を国境から少し離れた街まで搬送する、と言い出した。UNMEE 要員とも相談し、ひとまず彼らの意思決定に従うこととした。その街に着くと、青年リーダーたちは、仲間に我々を引き継ぎ、笑顔で手を振って去って行った。お荷物がいなくなって安心したのだろう。今日は怪しい外国人を丁重に排除し、地域の安全を維持した、と上官には報告するのかもしれない。

●その次の街のミリシアからも同じ質問がなされ、我々は同様に返答した。そし て、同じように1時間がたち、彼らは我々を持て余した。そして、彼らが選択したのは、我々を国境から更に離れた次の街まで搬送することだった。新たな街に着くと、我々はそこの建物の中に案内され、ミリシアたちは去って行った。
通された一室には、軍服を着た責任者らしきが座っていた。挨拶もなく、我々を詰問するように誰何し始めた。

●またここでも同じようなやりとりが展開された。調書を取るためか、書類とペンを取り出し、名前を聞かれる。そこで、大使が割って入った。
「ちょっと待って下さい。我々は正式に公務で出張してきた。それなのに、現地の若者からここまで連れてこられた。この街が何で、ここはどこなのか、貴方はどういう立場の誰なのか、我々に質問する前に、我々の質問に答えて頂きたい。」
相手は虚を突かれた感じだったが、居丈高な態度は変わらない。そして名前を聞いてくるが、今度は我々も口を開かない。とうとう困った相手は受話器を持ち上げ、ニヤリと笑みを浮かべながら「今から将軍に電話するぞ」と言い、「日本の大使だな」と念を押すように言って電話を掛けた。将軍でも誰でもいいから、兎に角話の分かる立場の人に早く取り次いでもらい、と思った。

●電話での会話の途中で、相手の表情と口調が変わったように思われたが、実際のやり取りは分からない。受話器を置いて、開口一番、「今からお前たちを滞在先のホテルまで送り返す」と述べ立ち上がった。この責任者自ら車両で先導し、ホテルまで戻って来た。そして最後に、「明日、将軍が会いに来るから、その時にきちんと報告するように」と述べて去って行った。 「もちろん、ここで起きたこと全て報告しますよ」とこちらも応じた。
翌朝、ホテルをチェックアウトして帰路に着いたが、「将軍」とやらに会うことはなかった。

●さて、この珍道中をどう報告書にまとめて、結論付けるか。出張目的は、首都にいては分からない現地事情を理解し、この国境紛争が今後どうなるかを考えることである。その上で、日本政府としてどのような支援や外交を展開するのか、を検討する材料を整理するためである。実査ならでは、の要素は何か。

まず、道中の様子である。治安、交通の量、道路状況、走行車の様子、等に加え、重要なのが、チェックポイントについて。どの程度厳格にチェックがなされているか。橋を含む要所をミリシアが守っていたことはプラスに評価した。
加えて、ミリシアに取り囲まれた経験である。取り囲まれたこと自体が論点ではない。彼らがウィーン条約を知らなかったことも問題ではない。日本大使の出張が、公式な文書で伝達されていたにも拘らず、末端にまで周知されていなかったこと。これは少し残念だったが、それ自体もそれ程問題ではない。まあ、そんなもんだろう。
しかし、重要なポイントは、その次である。
すなわち、ミリシアたちは、突然現れた異邦人に素早く対処し、我々が何者かを特定しようとした。我々が逃げたり暴れたりしない代わりに、あれこれ英語で喋りまくったことから、対応に困り、上司の指示を仰いだ。そして、我々を手荒に扱うことなく、しかし確実に、国境から少しでも遠くに移動させた。その移動先でも同様の判断が下され、最終的に、ある程度の管理責任があると思われる人物(この人が市場に出かけて不在だった大佐だったのでは?)によるスクリーニングを受けて、更に彼も上司の指示を仰ぎ、然るべく対処した。
これの意味するところは、現場は、政府高官から末端に至るまで、系統だった組織として機能しており、無闇な乱暴も起こらない、と類推されることではないだろうか。彼らがとった行動は極めて冷静かつ論理的であった。この経験を踏まえて、万が一、エリトリア側から多少の挑発を受けることがあったとしても、戦闘再開に発

展するような武力衝突が起こる可能性は低いだろう、と結論付けた。

思わぬことで貴重な体験をし、その分報告書の筆致が強まったが、改めて、百聞は一見にしかず。現場主義の重要性を再度心に刻み込む機会となった。

(AU代森本)

(本エッセイは、AU代表部員個人の見解を記したものであり、必ずしも当代表部または日本政府の立場を反映したものではありません。)

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(上:UNMEE 活動地域を上空から。作戦本部での打ち合わせ:UNMEE の HP より)

(下:最後の UNMEE 要員の撤収:UNMEE の HP より)
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