「アフリカ徒然草」( AU代表部員によるアフリカに因んだエッセイ)

第22回 国境画定(その2:エチオピア・エリトリア国境紛争の経緯)

●エリトリアという国(古代王国からイタリアの支配まで)
エチオピアは、3000年の歴史を有し、一度も植民地化されていない、という点で、アフリカでも極めて珍しい国。その北部に隣接するエリトリアは、エチオピア北部にあるティグライ州を中心に居住するティグライ系の人々が主な国民であり、主要言語もティグライ語。いわば、エチオピア(特にティグライ)とは兄弟の関係にあると言ってもいいだろう。エチオピアの歴史については、このエッセイの第5 回を参照頂きたいが、ここではもう片方の兄弟国エリトリアについて紹介する。

エリトリアという国名は、元々はギリシア語に由来するが、それがラテン語に訛って現在の発音に似た呼び方となった。エチオピアは、古代ギリシア語で「日に焼けた人」を指すのだが、エリトリアは、それらの人々が住む地域が面する紅海(Red Sea)の「紅」を意味するらしい。
エチオピアを含むアフリカの角地域が人類のゆりかごとして知られているように、エリトリアでも古代人の化石が発掘されている。
スーダン北部、エリトリア、ジブチ、ソマリア北部の沿岸地帯は、紀元前に古代エジプト王朝の一部を成していた。後に、現在のプントランド(ソマリア北部)の名称の元になったと言われるプント王国の一部を成していたとも言われている。
その後、長きに亘り、エチオピアのアクスム王国の一部を成した。アフリカ大陸の北部を東西に長く伸びる海岸線と、紅海を挟んで比較的近い距離にイエメンをはじめとする中東がある地形から、イスラム教徒を含む様々な民族との交流を経験してきた。当然ながら、オスマントルコの影響も受けた。
19世紀、欧州列強がアフリカに本格的に進出した際、イタリアがエリトリアに侵攻し、現在の首都アスマラの辺りを植民地化した。19世紀末から20世紀初頭にかけて起きたイタリアとの戦争に勝利した(アドワの戦い)エチオピアのメネリク2世は、沿岸地域の取決めについて、イタリアと協定を締結するが、協定文書の文言が、まさに「ロスト・イン・トランスレーション」とも呼ぶべき翻訳のマジックによって、いや恐らくイタリア側の欺瞞工作により、エリトリアに対するイタリアの主権を認めざるを得なくなった。

イタリアの支配が終わるのは第二次大戦後。そこから1950年までは、この地域からイタリア軍を排除した英国の管理下に置かれた。地政学上の要地でもあることから、冷戦下のソ連、そして歴史的・地理的にも関係があったアラブ世界も秋波を送っていた。最終的に国連が介入し、エリトリアの運命を民族自決に委ねるべきとの議論がなされたが、一定の自治権(独自の「国旗」、税収を含む独自の行政制度の導入等)は認めつつ、ハイレセラシエ皇帝配下のエチオピアに編入された。

●エチオピアからの独立闘争、兄弟の契りと訣別(前半)
エチオピアに編入されたことで、何となく元の鞘に収まったかに思われるかもしれないが、英国の管理下にあった影響から、エリトリアでは、エチオピアの王政よりも、よりリベラルな政治体制を選好する動きが生じていた。そして、1958年 に、エリトリア解放運動(ELM)が結成されると、エリトリアのエチオピアからの独立運動は勢いを増した。ELM は1962年に帝国軍に討伐されたが、それに先立つ1960年に、エジプトのカイロでエリトリア解放戦線(ELF)がエリトリア亡命者により結成された。ムスリムが多いエリトリアのこの動きは、一部のアラブ諸国から見れば、キリスト教国エチオピアの圧政に抵抗するムスリム同胞の戦いとも映り、シリアやイラクは ELF に武器を提供し、その活動を支援した。そこから約30年間に亘り、エリトリアの独立闘争が続いた。
エチオピア政府も黙ってはいない。秘密工作員を送り込み、反乱分子を捉え、殺害もした。これにより ELF は大打撃を受けたが、1972年には、エリトリア人民解放戦線(EPLF)が結成された。このリーダーが、現在のエリトリア大統領のイサイアスである。EPLF は強固な軍隊を有し、エチオピア軍を排除にかかったが、ソ連の空軍による支援を受けたエチオピア軍に苦しめられた。

そのエチオピアでは、1974年、ソ連の支援を受けたアマン・ミカエル・アンドムが軍事クーデタを起こし、皇帝ハイレセラシエを退位させると、軍事社会主義政権(軍事評議会「デルグ(Derg)」)のトップ(議長)に立った。彼は、実はエリトリア人だった。その後、彼はデルグの運営やエリトリアとの関係を巡ってデルグ内で他の幹部と対立した。そのライバルの1人が、後にエチオピアで軍政を敷いたメンギスツである。アマンは、対立派閥の手によって送り込まれた暗殺部隊との戦いの中で命を落とした。アマンのデルグ議長就任は僅か2か月間と非常に短命だった。
デルグ第1副議長だったメンギスツは、1975年に、軟禁していたハイレセラシエを殺害し、77年にクーデタを成功させ、自ら議長に就任した。メンギスツはソ

連やキューバの支援を受けて社会主義化を進め、国内の粛清を行った。同時に、エリトリア(エリトリア独立戦争)やソマリアとの戦争(オガデン戦争)を進めた。その結果、エチオピア国内では飢餓が拡大し、100万人にも及ぶ難民が流出し た。80年代に、英国ミュージシャンたちが結成した「Band Aid」の「Do They Know It‘s Christmas?」や、米国の「USA for Africa」の「We Are the World」は、この時に作られたチャリティー・ソングである。

●エチオピアからの独立、兄弟の契りと訣別(後半)
メンギスツによる軍事社会主義体制に対し、エリトリア軍とエチオピアのティグライ軍(ティグレ人民解放戦線(TPLF)率いる軍)は共に戦い、この軍事政権を倒した。TPLF は、1970年代の帝政時代に、ティグライの革命家によって結成された反政府勢力「ティグレ民族機構(TNO)」が原点となっている。この集団が政治的・軍事的にパワーアップし、1975年に TPLF に改組された。1989年にはオロモ、アムハラ、南部地域の主要政党と共に、エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)を結成した。この時に TPLF を率いていたのが、後に首相となるメレスである。
EPLF のイサイアスと TPLF のメレス。この2人が打倒デルグ陣営のツートップであり、兄弟のように共に戦った戦友である。そして、その後、エリトリア大統領とエチオピア首相としてそれぞれの国を代表する人物となり、やがて犬猿の仲となって対立することになる。

●独裁者の特別ゲスト
さて、イサイアスとメレスに打倒されエチオピアを追われたメンギスツは、ムガベ大統領(当時)の庇護を求めてジンバブエに亡命した。ムガベ大統領は、自国の独立闘争の際にメンギスツから受けた様々な軍事支援への恩返しとして手厚く保護を提供した。政権が変わった現在でも、メンギスツは大統領の特別ゲストとしてジンバブエに滞在中である。エチオピア司法は、メンギスツを終身刑に、そしてその 後、死刑の判決を下した。ジンバブエ政府は、メンギスツのエチオピアへの引き渡しを拒否し続けている。

●エチオピア・エリトリア国境紛争(その背景)
メンギスツを1991年に倒した EPLF は、協力関係にあった EPRDF(TPLF)と協力して、エリトリアに残るデルグ勢力を同地域から排除し、勢力下に置いた。内戦終結のための和平会議において、エリトリア州の独立について国民投票を行うこ

とが決定された。1993年4月、エチオピア政府によって行われた国民投票で99%を超える圧倒的多数を獲得し、エリトリアのエチオピアからの独立が決定した。

両国のトップに立ったのは、共に戦った戦友だった筈だが、何故この関係に亀裂が入ったのか。
エリトリアは独立後、独自通貨を発行したり、エチオピアとの間でエリトリアの港湾使用料の交渉が難航したことから、両国間の関係が悪化した。エリトリアにおいて、独立による国民の民族意識が高揚する一方、エチオピアは引き続きエリトリアへの影響力の行使を維持させたい考えが強かった。そこに来て、通貨の管理や港湾の使用といった経済安全保障上の規制がかかったことが、関係悪化の大きな原因と言われている。エリトリアが独立したことで、エチオピアは海への出口を失い、内陸国となった。これは、メレス首相の最大の失点とも言われる。しかし、イサイアスが率いるエリトリア軍は、メレスの勢力より強かったとも言われており、事実、メンギスツを狙って首都アディスアベバで最初に大砲を打ち込んだのは EPLF 軍だった。両者は、同一国にいたらいずれワントップを目指して決闘する宿命だったのかも知れない。それが分かっていたから、メレスはエリトリアの独立を黙って認めたのかもしれない。

●エチオピア・エリトリア国境紛争(悲惨な戦争と停戦合意)
さて、ここに来て漸く国境問題である。両国の国境沿いのバドメという都市を含む周辺地域の国境線が未画定のままであった。両国のそれぞれが、バドメを自国領と主張した。バドメは不毛な土地と言われているが、当時ここに金脈が発見されたとも言われていた。その真偽は分からない。
両国間の国境紛争は、1998年5月6日から2000年6月18日まで2年間続いた。エチオピア軍が占拠していたバドメに居たエリトリア兵をエチオピア軍が銃で撃ったことが発端とされる。これが引き金となり、エリトリアは軍を動員し、バドメを含む地域に攻撃をかけたため、エチオピアは一旦撤退した。その後、エチオピア政府がエリトリア軍の撤退を要求した。これをエリトリアは宣戦布告と受け取り、そこから戦闘が本格化した。
エリトリア政府は、正当防衛による攻撃を主張したが、国連安保理への報告義務を怠っていた。国際法上、こうした行為を正当化するためには、国内法でいうところの正当防衛や緊急避難行為を証明する必要がある。つまり、自衛権の発動としての行動を安保理に報告しなければならない。

エチオピアは、ロシア空軍の支援を受けて、ロシア(ソ連)製戦闘機 Su-27 による爆撃を行った。対するエリトリアは、ウクライナが支援し、ロシア(ソ連)製のMiG-29 で応じた。国境紛争とは言ったものの、双方が首都を空爆する程の激戦となり、戦闘の範囲と犠牲者の規模は拡大し、死者数は7万人とも10万人とも言われた。第 2 次大戦後、この規模の被害を出した戦争は、朝鮮、インドシナ、ベトナム、イラン・イラクの4つのみであり、その激しさが分かるだろう。また、この戦争は、それぞれを支えたロシアとウクライナの代理戦争と言われることもあり、冷戦の負の遺産がここにも影響していたとも考えられる。エチオピア軍にはロシア人の傭兵が参加していたとも言われている。

●停戦と国境画定
2000年6月に、OAU(アフリカ統一機構)の調整により、両者の間に停戦合意が成立した。そのポイントは、以下のとおりである。
・即時停戦。
・平和維持部隊の展開。
・エチオピア軍は、1998年5月以前の統治地域まで撤退。
・エチオピア軍の撤退ラインからエリトリア側に幅25km の暫定安全地帯を設置。エリトリア軍は、そこへの立ち入りを禁止。

その翌7月に、国連安保理は、決議 1312 を採択し、エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)(注)の設置を決定した。いわゆる国連 PKO が派遣されることになったのだ。
同年12月には、両国の包括的和平合意(アルジェ和平合意)が成立した。その内容は以下のとおり。
・停戦合意の遵守と敵対行為の禁止。
・OAU 事務総長の任命による「公平で公正な機関」による国境紛争の調査。
・中立の国境委員会が国境線を決定(画定及び確定)する。
・両国の国家及び国民が受けた損害について、相手国に請求するための請求委員会を設置。
(注:上記3つ目の、国境線の「画定及び確定」は、「delimit and demarcate」と明示的に記述され、地図上の線引きから地上での杭打ちまでが想定されている。)

(注)国連エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE:United Nations Mission in Ethiopia and Eritrea)
国連 PKO 活動の1つ。エチオピア・エリトリア間の停戦合意を受けて、停戦及び両軍の兵力引渡し状況の監視、暫定安全保障地帯における非武装化、地雷の除去、係争地帯における住民追放等の人権状況の監視が主な任務。2000年7月31日に任務を開始したが、国境線の決定に向けた交渉が進まず、受入れ当事国の UNMEE への非協力が日増しに高まり、2008年7 月末に活動が打ち切られた。

●OAU から改組した AU が発足する3か月前の2002年4月、アルジェ合意により設置された国境委員会による国境の画定が行われた。ところが、その地図上の線引きによると、係争地であるバドメがエリトリアに帰属するとなっていたため、エチオピアがこれに異議を唱えた。双方が譲らないまま時が過ぎ、2004年、国連安保理は、国境紛争に改善が見られないことを懸念するとの立場を表明した。その後、エチオピアはこの決定を「原則として受け入れる」とした。しかし、2005 年から両国関係は再度緊張し、同年末には、エリトリアが UNMEE に参加している西側諸国の要員に撤退を要求するといった不規則な動きも見られた。次の回に紹介する、筆者がこの国境地帯を視察に訪問したのは、両国がこうした険悪な関係にある最中のことであった。

●2005年12月、国連安保理決議に基づいて設置された請求委員会は両国の主張を審査し、以下の裁定を下した。
・1998年5月6日及び7日の事案について、両国の意見は異なるが、限定された小規模な紛争であることは明らかであり、国連憲章51条の「武力攻撃」にはあたらない。よって、エリトリアの侵攻は合法的な自衛権としては認定されず、その地域における戦時国際法違反についてはエリトリア側に責任がある。
・但し、国境未画定地域における攻撃が事前に計画されたものであるというエチオピア側の主張は、証拠が存在しないため認定されない。
・戦時国際法違反においてエリトリアが負う損害賠償の範囲は、この手続きの損害段階において決定される。

以上がエチオピア・エリトリア国境紛争の全貌(の概要)である。ビッグデータを無理やり簡略化したため、触れていない史実や説明が多々あると思うが、御容赦願いたい。次回はいよいよ筆者が国境を視察することになる。

(AU代森本)

(本エッセイは、AU代表部員個人の見解を記したものであり、必ずしも当代表部または日本政府の立場を反映したものではありません。)

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(エチオピア・エリトリア国境紛争の係争地、バドメ(赤印):筆者作成)

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(アディスアベバ市内の「レッドテラーマータイル(赤軍テロ殉教者)記念博物館」の展示の1つ「軍に連行されるハイレセラシエ皇帝」の写真:筆者撮影)

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