「アフリカ徒然草」( AU代表部員によるアフリカに因んだエッセイ)

第17回 「新しい花」という名の町(アディスアベバの誕生と現在)(前半)

●アフリカ外交の首都
エチオピアの首都アディスアベバは、標高約2400mの高地にある。富士山の5 合目から6合目あたりの高さだ。人口は、2020年で約480万人。福岡県とほぼ同格の大都市である。戦後の1950年には人口40万人に満たなかったので、半世紀で大発展を遂げたことが分かる。人口増加率はここ数年で4%強と高成長。国連は、2020年に500万人を突破し、2035年には900万人に迫ると予測している。
アフリカはどこも都市化が進んでおり、また人口動態においても世界トップクラスの成長率を続けていることから、この趨勢は驚くことではない。しかし、アディスアベバが大発展を遂げている大きな理由の一つは、やはりアフリカ連合(AU)の本部が置かれていることだろう。また、国連アフリカ経済委員会(UNECA)の本部もあり、関連する国連機関や国際 NGO のオフィスも多数置かれている。 そのため、世界の多くの大使館が所在し、2019年で、その数は115。アフリカ外交の首都と呼ばれる所以である。この町の名は、アムハラ語で「新しい花」を意味する。その由来を以下に紹介する。

●アフリカは、暑くない?!
アフリカをイメージすると、灼熱の大地、眩しく照りつける太陽、乾ききった砂 漠、うっそうと茂る熱帯雨林、といった情景が浮かぶだろうか。アフリカ徒然草の第1回を読まれた賢明な読者は、ファクトフルネスの勝負でチンパンジーに負けないように、ステレオタイプの誘惑にはそう簡単には乗ってこないかもしれない。アフリカは、必ずしも暑くはない。上記の環境は確かに存在するが、「アフリカは(常に・どこも)暑い」という考え方は、大陸全土では通用しない。アディスアベバの標高から想像がつくと思うが、最初に空港に降り立つと、まず高原のそよ風に出迎えられ、アフリカは暑いという認識は一瞬で覆される。
年間平均気温を見ると、最高気温は摂氏21~25度、最低は8~13度で、年間ほぼ一定(観測機関により、多少の差異はある)。暑いどころか、涼しい! 体感温度として、日中ですら寒く感じる時期もある。一軒家には、暖炉が設置してあるところが多い。高山らしく直径2cm の雹(ひょう)がバラバラ降ることがある。

●登山のかけ声は「エントット」?!
エチオピア歴代の王は、イスラエルのソロモン王とシバの女王の子メネリク1世に始まり、その後、何代にも亘って首都を転々と変えながら近代に至る。アディスアベバに首都を置いたのは、奇しくもメネリク2世。交易に適した海岸や河岸沿いに都市が発達する例は多が、戦闘を繰り返しながら王座に君臨する中で、首都を軍事的な観点から戦略的に有利な場所に設置する必要性も理解できる。すなわち、高地にそれが求められる。それは、戦闘だけでなく、病気のリスクを避ける意味でも重要であったとされる。事実、アフリカで今でも猛威を振るうマラリアの罹患は、アディスアベバのような高地では殆ど気にならない。
標高2400mのアディスアベバの北側に、エントット(Entoto)と呼ばれる山がある。ここは標高約3200mで、富士山の8合目。もうそろそろ頂上が見えてくる高さである。アディスアベバが一望できる絶景が拝める名所の一つ。エントットは、今ではテーマパークが建設され、アディスアベバの新たな観光スポットの一つとなっているが、実はアディスアベバが首都になる直前にメネリク2世が首都の候補地として陣を敷いた場所だった。しかしながら、戦略的な価値は満点でも、住んでみると色々な事情が分かるものだ。まず、気候の問題。エチオピアは高地が多いが、流石に3000m超では寒すぎたようだ。過去の主な首都で、世界遺産を有するアクスム、ゴンダールは、いずれも標高2000以上の高地である。標高が10 0m上がると気温が摂氏0.6度下がると言われている。よって、アディスアベバからエントットに上がると、気温は摂氏5度程下がる。かなり冷え込むだろう。そして、2つ目の理由には、メネリク2世の妻タイトゥ(Taytu)の存在があった。

●アディスアベバは温泉街だった?!
アディスアベバがエチオピアの首都になったのは1886年。皇帝メネリク2世の統治からである。それまで、ここは、「ホーラ・フィンフィネ(Hora Finfinne)」と呼ばれていた。エチオピア最大民族オロモの言葉(オロモ語)で「天然の温泉」を意味する。その名のとおり、エチオピアを含む地域にはプレート境界の「大地溝帯(Great Rift Valley)」が通っていて、至る所で温泉が湧き出ている。メネリク2世は、それまで拠点としていた、アディスアベバ北東約150km にあるアンコバー(Ankober)からエントットに移動し、ここに王宮を建てた。王宮といっても非常に質素な二階建ての私邸という感じの建物である。これは今もそこに立っているが、これがそうだと言われないと気づかないくらいである。

●新しい花が咲くまで
王女タイトゥは、エントットから見下ろした所にあるフィルウォハ(Filwoha)という名の温泉の近くに家を建てた。この鉱泉は、王宮の職員たちにも大人気のスポットとなり、従者たちはこの近くに住むようになった。ここがエントットよりも快適な土地であることに気付くのは時間の問題だった。メネリク2世はこのタイトゥの住居を広げて王宮とし、首都を移転した。ここには年中様々な花が美しく咲いていたことから、新首都を、「新しい(addis)花(ababa)」と名付けた。そう名付けたのは皇帝ではなく、王女タイトゥだった。タイトゥがエントットから見下ろした際に、眼下には花々に覆われた美しい光景が広がっていたと言われている。
ここから、ハイレセラシエ1世の治世に引き継がれるまでが、アディスアベバの誕生の歴史である。(次回に続く)

(AU代森本)

(本エッセイは、AU代表部員個人の見解を記したものであり、必ずしも当代表部または日本政府の立場を反映したものではありません。)

(右下:ハイレセラシエ公邸の寝室(アディスアベバ大学内の博物館:筆者撮影)
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(左上:アディスアベバの青空に映えるジャカランダの花。筆者撮影)

 

 

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