第14回 TICAD(進化し続けるメイド・イン・ジャパンのアフリカ開発フォーラム)(その2)
●2008年はアフリカ開発のチャンスの年
前回は、TICAD の誕生から10年間の歴史を振り返ってみた。その間、アフリカを取り巻く国際社会の環境は大きく変化している。まず1つは、2002年の AU の誕生である。OAU から AU への発展改組については、AU の回に説明したので省略する。そして、国際社会におけるアフリカの主要議題化である。
2000年の夏、G8 九州・沖縄サミットが開催された。主要8か国(注1)の首脳に加え、南アフリカ、ナイジェリア、アルジェリアの大統領が招待され、G8 首脳とのセッションが行われた。G8 での議論の主要議題の1つにアフリカが取り上げられ、アフリカ大陸の代表3か国の首脳が参加した、画期的なサミットだった。翌年のイタリア・ジェノヴァでのサミットの主要議題には、アフリカの貧困削減を含む開発問題が取り上げられ、これに続く2002年のカナダのカナナスキス・サミットにおいて「G8 アフリカ行動計画」が採択されたのは、沖縄で日本がホストしたサミットの流れを汲むものだったと言えよう。
次に日本が G8 サミットのホスト国となったのは、8年後の2008年(北海道洞爺湖サミット)。奇しくも、5年毎に開催してきた TICAD の第4回目の会合と年を同じくすることとなった。G8 は8年毎に日本がホスト、TICAD は5年毎に開催されるので、最小公倍数の40年に1度という黄金機会が巡ってきたのだ(注2)。
(注1)8か国は、日、米、加、英、仏、独、伊、露。これに EU も参加する。なお、G8 はその後ロシアが抜けてG7 となった。
(注2)現在、TICAD は3年に1度開催されている。またG8 が G7 となり、黄金機会の頻度は加速した(40年(5×8)に1度から21(3×7)年に1度)。
●TICADⅣ
「日本は、5年間で、アフリカ向け ODA を倍増する」
2008年5月の TICADⅣの開会演説で、福田康夫総理大臣がこのメッセージを伝えた時、本会場となった横浜の国際会議場は一瞬どよめき、すぐに拍手喝采に変わった。改めて言うが、TICAD はプレッジング会合ではない。しかし、このスピーチ
で日本がアフリカと二人三脚で歩んでいく本気度があらためて伝わった筈だ。 41名のアフリカの元首・首脳級を含むアフリカ51か国、34か国の開発パートナー諸国及びアジア諸国、74の国際機関・地域機関の代表に加え、民間セクターや NGO の代表等合わせ、3000名以上が参加した TICADⅣは、「元気なアフリカを目指して」をテーマとして開催され、3つの成果文書を採択した。
1つ目は、アフリカの開発のために国際社会が目指すべき政治的意思をまとめた「横浜宣言」、2つ目は、今後の TICAD プロセスの取組を示す「横浜行動計画」、そして3つ目は、TICAD プロセスの進捗状況(TICADⅢの合意事項の実施状況)を検証するための「TICAD フォローアップ・メカニズム」である。
「横浜宣言」では、「成長の加速化」(人材育成、広域インフラ開発、農業・農村開発、貿易投資の促進、民間セクターの重要性等)を筆頭に、「(国連の)ミレニアム開発目標(MDGs)の達成」と「平和の定着と良い統治」そして「環境・気候変動への対処」が掲げられている。
「横浜行動計画」では、具体的取組として、先述したアフリカ向け ODA の倍増や、最大40億ドルの新規円借款供与等の実施計画が提示された。
「TICAD フォローアップ・メカニズム」の採択により、モニタリング合同委員会の開催や年次進捗報告書の取りまとめを行うことで、毎年、実施状況をモニターすることが決定した。TICAD は、単にアドバルーンを打ち上げるのではなく、有言実行、きちんと実施されるよう、関係者でフォローするのである。
アフリカ向け ODA の倍増が目立ってしまったかもしれないが、政府の支援のみならず、貿易投資を強化し、経済を活性化し、民間セクターを巻き込んで、経済成長を加速することで、開発を促進することが強調された。
●TICAD は TICAD
ところで、TICAD の「T」は東京の「T」だが、TICADⅣは、初めて東京以外で開催された。だからといって、横浜の「Y」を取って「YICAD」にはならず、201 6年はケニアのナイロビで開催されたからといって、「KICAD」や「NICAD」にはならない。TICADⅠから15年。地球上のどこで開催しても、TICAD は TICAD である。
●北海道洞爺湖サミットとの連携
2008年7月、北海道の洞爺湖で、G8 サミットが開催された。TICADⅣと連続する形で開催されたサミットでは、アフリカが主要テーマの1つとなった。具体的には、「開発・アフリカ」として、2015年までの MDGs 達成に向けたメッセー
ジを発し、TICADⅣの成果をサミットの議論に反映し、また当時問題視されていた食料価格高騰に関し、力強いメッセージを出すことを目指した。
それ以外のテーマにおいても、次に示すとおり、TICADⅣで議論された諸点に関連する議論が含まれている。
「世界経済」(原油価格高騰への対応、貿易・投資等)
「環境・気候変動」(森林、生物多様性等)
「政治問題」(アフガニスタン、中東和平、スーダン等)
また、G8 以外の招待国の中に、多くのアフリカ関係者が含まれていた。サミット日程のトップに、拡大ワーキングランチが開催され、G8 首脳とアフリカ(アルジェリア、エチオピア、ガーナ、ナイジェリア、セネガル、南アフリカ、タンザニアの首脳と AU 委員会委員長)が一同に会し、昼食を取りながら議論した。
全体を通した会合の成果として、G8 首脳宣言に加え、多数の文書が採択された。特にアフリカに特化したものとしては、当時情勢不安であったジンバブエに関するG8 首脳声明と、2002年のカナナスキス・サミットで採択された G8 アフリカ行動計画の実施に関する進捗報告書である。TICAD に倣い、進捗をきっちりフォローするところが日本らしい。
ところで、洞爺湖サミットの期間中、参加したジャン・ピン AU 委員会委員長(ガボン出身)が体調を崩し、ヘリコプターで病院に搬送される事態が生じた。疲労によるもので、直ぐに元気になられたが、現地は一瞬緊迫した。サミット後、無事にアディスアベバの AU 本部に帰任したピン委員長は、AU 本部で開催した報告会で、アフリカとパートナーの代表を前に、「自分の体調を心配する声が聞こえるが、あれは単に少し疲れただけだったのだが、完璧を追求する日本のオペレーションにより有無を言わさずヘリで運ばれたのだ」とバツが悪そうに釈明していた。
●ホスト自治体との連携は成功の鍵
TICADⅣの誘致に名乗りを上げた横浜市は、国際会議場、首脳や代表団が宿泊するホテル等の施設の確保に加え、市と住民が一体となって TICAD をホストした。大型会議の成功は、そこでの議論や成果に加えて、会議の運営に必要なあらゆる準備にかかっていると言っても過言ではない。横浜市は、関連する様々なイベントや、一校一国運動(横浜市内の小中学校が、アフリカの1国を交流国と定めて交流を行うことで、アフリカへの理解を深める)等、TICAD の開催を盛り上げた。また、TICAD 期間中は、多数の市民ボランティアが会場内外で道案内等を行っていた。
TICAD の機会に、ホスト・シティが日本とアフリカ、日本人とアフリカ人の距離を縮める触媒となった代表例である。
●筆者は、TICADⅠの頃はフランス留学中、TICADⅡの準備プロセスの 1 つである西部・中部リージョナル・ワークショップが開催された際にはちょうど開催地のコートジボワールに在勤中であっため、下っ端のロジ(ロジスティクス)要員として無線機を持って会場施設内を走り回っていた。TICADⅡの本番では、一部の行事に日仏通訳として参加させて頂いた。TICADⅢへ関わる機会はなかったが、TICADⅣ の際には、日本政府の TICAD 事務局にいて、文字どおり不眠不休で働いた。そして、2013年の TICADⅤ以降も引き続き関わっていくことになる。
また、TICADⅣの機会に、第1回野口英世アフリカ賞の授賞式が行われた。以後、TICAD の開催の度にこの授賞式が開催されることになる。野口賞については、別の機会に紹介したい。
(AU代森本)
(本エッセイは、AU代表部員個人の見解を記したものであり、必ずしも当代表部または日本政府の立場を反映したものではありません。)
(左から、TICADⅣロゴマーク、首脳による集合写真、野口英世アフリカ賞授賞式:外務省 HP)
(TICADⅣと G8 の連携(番号5))