「アフリカ徒然草」( AU代表部員によるアフリカに因んだエッセイ)

第13回 TICAD(進化し続けるメイド・イン・ジャパンのアフリカ開発フォーラム)(その1)

●日本のアフリカに向けた取組を語る上で、絶対に避けて通れないのが「TICAD」である。TICAD は、日本主導のアフリカ開発会議(Tokyo International Conference on African Development)の略称で、「ティカッド」と発音する。筆者も長く関わってきた TICAD、その始まりからこれまでの歩み、特徴、そして今後について、4回に分けて書いていきたい。

TICAD の始まり
TICAD は、1993年に東京で開催された。1990年代初頭、冷戦の終結によって、東西両陣営にとって、アフリカに援助をすることの戦略的重要性は低下していた。加えて、それまでに行った多額のアフリカへの投資(支援)にもかかわらず、アフリカの経済成長が十分に見られなかったことや、先進国における経済停滞や財政難もあり、「援助疲れ」と言われる状況が生じていた。時代が大きく変化し、世界のグローバル化が進む中で、日本はいかに国際貢献すべきか、政府内で検討が重ねられていた頃であった。そうした中で、日本は、南アフリカのアパルトヘイト政策の撤回を契機に、アフリカの民主化や経済成長を支援するための国際会議を開催する方針を打ち出した。すなわち、国際社会のアフリカへの関心を引き戻し、様々な関係者を巻き込んだ会議を開催するためには、多国間、多角的なアプローチ、いわゆる「マルチ(multilateral)」のプラットフォームが必要と結論づけた。

最初の TICAD(TICADⅠ)
日本は、国連(アフリカ及び最貧国特別調整室(OSCAL))(注1)、アフリカのためのグローバル連合(GCA)(注2)と手を組み、3者の共催体制で、1993 年10月に、TICAD を東京で開催した。アフリカ48か国、ドナー13か国、国際機関10機関、オブザーバーとして45の国、機関、NGO 等から約1000名が参加した。
この会合の最後に採択された「東京宣言」では、アフリカの潜在力を自主的に発揮する「自助努力」(オーナーシップ)と、こうした努力に対し、国際社会が平等なパートナーとして参画していくこと(パートナーシップ)が強調された。この「アフリカのオーナーシップと国際的パートナーシップ」は、今日に至っても、TICAD

の基本姿勢として貫かれている。この東京宣言の中には、民主化や良い統治(グッドガバナンス)の重要性、政府開発援助(ODA)のみならず、民間セクターの活動を通じた経済開発の重要性が強調されている。また、アジア諸国の経験を踏まえ、アジア・アフリカ間の南南協力の促進にも言及がなされている。更に、自然災害等の予防や女性支援の重要性、また非政府機関(NGO)の参加といった、現在の議論にも通じる取組が既に書き込まれていた。
TICAD は、アフリカの開発に関する政策や哲学を協議する対話の場(フォーラム) であることから、援助金額を発表し合う、いわゆる「プレッジング(pledging)会合」ではないと位置づけられているが、ホスト国の日本政府は、3年間で約3億円規模の無償資金協力を行うことを表明した。
なお、この時点では、TICAD がシリーズ化することは必ずしも想定されておらず、同様の会議を「遅くとも今世紀の終わりまでに開催する意図」が表明されたに留まっている。よって、今でこそ、この最初の会議は TICADⅠと標記されるが(ティカッド・ワンと読む)、当時は TICAD だけで、第 1 回目を指すローマ数字の「Ⅰ」は付されていなかった。

(注1) UN/OSCAL (United Nations Office of the Special Coordinator fro Africa and the Least Developed Countries)
アフリカと最貧国への支援を行い、国際社会に対等なパートナーとして統合することを目的とする。2002年に解散、翌2003年に設立された、国連アフリカ担当事務総長特別顧問室(UN/OSAA : United Nations Office of the Special Advisor on Africa)に代わった。
(注2) GCA (Global Coalition for Africa)
アフリカの開発に関する重要事項に関し、国の枠組みを超えて議論する場を提供する NGO 組織。2007年にその設立目的を果たしたとして解散した。

第2回 TICAD(TICADⅡ)
TICADⅠの翌年の1994年には、そのフォローアップとして「アジア・アフリ カ・フォーラム」がインドネシアで開催された。また、1995年と96年には、アフリカの東部・南部及び西部・中部を対象とする「リージョナル・ワークショップ」がそれぞれジンバブエ、コートジボワールで開催された。そして、1996年の国連貿易開発会議(UNCTAD)総会の場で、日本政府は、「対アフリカ支援イニシアティブ」を発表し、TICADⅠの5年後の1998年に TICADⅡを開催する意向を表明した。この瞬間に、TICAD のシリーズ化が決まったと言うことができよう。

そして、1998年10月、TICADⅡが東京で開催された。アフリカとアフリカ以外の国合計80か国、国際機関40機関、NGO22団体が参加した。共催者には、TICADⅠの3者(日本、国連、GCA)に加え、国連開発計画(UNDP)が加わり、4共催者体制となった。
TICADⅡは、「アフリカの貧困削減と世界経済への統合」をテーマに開催され、その成果として「東京行動計画」が採択された。ここでは、TICAD の取組を、①社会開発(教育、保健・人口、貧困層支援等)、②経済開発(民間セクター・工業・農業開発、対外債務問題等)、③開発基盤(良い統治、紛争予防と紛争後の開発)の3本柱に整理され、数値目標を含む具体的なプロジェクトが例示された。また日本政府からは、5年間で約900億円の無償資金協力として、教育・保健・水供給分野への支援が表明された。

第3回 TICAD(TICADⅢ)
時代は21世紀になり、2001年1月、日本の現職の総理大臣として初めて森喜朗総理大臣がアフリカを訪問し、行った政策スピーチにおいて、TICADⅢに向け て、閣僚級の会合を開催することに言及がなされた。同年の12月に東京で開催された閣僚級会合では、TICADⅡのレビューに加えて、アフリカ自身によって策定された、アフリカ開発計画である「アフリカ開発のための新パートナーシップ(NEPAD)」について議論が行われた。NEPAD は、TICAD の基本姿勢の1つである、アフリカのオーナーシップを体現するものとして、今でも国際社会の注目を集めている。
TICADⅢに向けた準備は、日本、国連、GCA、UNDP に加え、世界銀行が共催者の仲間入りをして、5共催体制で進めることとなった。
TICADⅡから5年後の2003年9月に東京で開催された TICADⅢには、アフリカの首脳を含む89の国と47の機関の代表が参加した。1000名以上の参加を得て開催された会議の成果として、「TICAD10周年宣言」が採択された。TICAD 開始から既に10年が経過していた。発表された日本の対アフリカ支援策には、「人間中心の開発」「経済成長を通じた貧困削減」「平和の定着」を3本柱として、教育、水、保健、食料の分野に対し、5年間で10億ドルの無償資金協力、30億ドルの債務救済の他、平和の定着や南南協力の推進が含まれていた。
また、アフリカの首脳たちから、TICAD の継続を求める声が多く発せられたことも踏まえて、TICAD プロセスを制度化していくこととなった。メイド・イン・ジャパンのアフリカ開発のためのイニシアティブの重要性・有用性が、冷戦後の混乱の中

で産声を上げてから10年を経て、アフリカの首脳や国際社会に再認知された瞬間でもあった。
TICADⅢの翌年の2004年11月、「TICAD アジア・アフリカ貿易投資会議」が、首脳を含むアフリカ48か国に加え、アジアや欧州の政府関係者、国際機関や民間セクターから多数の参加を得て、東京で開催された。2006年2月には、「TICAD 平和の定着会議」がエチオピアのアディスアベバで開催された。アディスアベバの大使館で、筆者は同僚たちと参加者用の入構証を徹夜で作り上げ、そのまま朝を迎えたのを覚えている。参加国の問題で調整が難航したりもしたが、アフリカの閣僚を含む73か国の他、多数の国際機関や NGO の参加を得て会議は成功裡に終わった。この年の春には、小泉総理がアフリカを訪問した。その翌年の200 7年3月には、「TICAD 持続可能な開発のための環境とエネルギー閣僚会合」がケニアのナイロビで開催され、平和の定着会議と同様に多くの政府や機関が参加した。
TICAD は、首脳級の本会議に加え、こうしたテーマ別の会合も開催されるようになり、TICAD プロセス自身の多角性や柔軟性が認められるようになってきた。ここまで、TICAD プロセスの変遷の前半部分を御紹介した。続きは次回以降に。

(AU代森本)

(本エッセイは、AU代表部員個人の見解を記したものであり、必ずしも当代表部または日本政府の立場を反映したものではありません。)

(TICADⅡとⅢのロゴ(TICADⅠは無し)。以後、回毎にロゴも変遷していく。)

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