「アフリカ徒然草」( AU代表部員によるアフリカに因んだエッセイ)

第3回 エチオピアについて(日本との深い関係)

●前回、ナイル川に言及したが、その主流をなすブルーナイルの水源を有するエチオピアに筆者が 最初に赴任したのは2005年から09年までの4年間。アフリカ勤務・生活は、コートジボワールに続いて2 度 目。よって、多少の心構えはできていたのだが、アフリカの西と東では、やはり勝手が違う。しかも、エチオピアは、私が理解するアフリカとも異なっていた。広大かつ多様なアフリカ大陸の東西で、事情が異なることは分かるが、特に標高200000m以上の高地に位置する首都アディスアベバの気候、民族、歴史、文化等、多くの点でエチオピアという国や人々は、独特なものを有することを知った。そのことについては、また回を改めることとしたい。
今回は、日本との関係について幾つかの事例を紹介したい。エチオピアを知る人にとっては、既知のことばかり だと思うが、エチオピアと1度ならず2度も袖 すり 合った者として、出来る限り多くの日本の方々に知って頂きたい。

「ジャパナイザー」
まずは、20世紀のエチオピアの近代化への日本の重要な関わりである。皇帝ハイレセラシエ1世(1892〜1975年)は、国家の近代化を進めるにあたり、欧米ではなく、日本をモデルとした。その頃、日本を研究していた「ジャパナイザー( Japanizer)」と呼ばれる知識層がいた。彼らが日本に注目した背景には、日露戦争による日本の勝利や第一次大戦後のパリ講和会議で日本代表が行った演説で人種 差別撤廃に言及したことへの共感等があるようだが、ハイレセラシエ自身、出張先のスイスで接した 日本人外交官 に非常に 好印象を抱いたとも言われている。同時に、関係が微妙になりつつあった欧米へのアンチテーゼでもあったの かもしれない。
かくして、国造りの基礎は憲法から、ということで、ジャパナイザーを中心とする近代化のための 具体的な作業は、憲法制定から着手された。1931年に制定されたエチオピア憲法起草の範となったのが、当時の日本の憲法(大日本帝国憲法)であった。両国は、1930年に修好通商条約に署名。第二次大戦で一時関 係が中断したが、1955年に外交関係を回復し、良好な関係のまま現在に至る。

●「マスカルの花嫁」
このタイトルの本を御存知だろうか。日本をモデルに近代化に取り組むエチオピア政府が1931年 に日本に送った使節団の中に、ハイレセラシエの甥のアラヤ・アババ殿下がいた。この殿下は、日本が大好きになり、是非とも日本人女性と結ばれたいと強く希望された。複数のお妃候補の中から、千葉県久留里藩の旧藩主である黒田広志子爵の次女 、雅子様が第1候補に選ばれた。実は雅子様、御両親に内緒で立候補したらしい。
これを機に、日本は 一気に エチオピアで盛り上がり、「エチオピアの唄」という歌がレコード会社から発売される までになった。また、使節団を率いたエチオピアのヘルイ 外務 大臣は帰国後、日本についての紀行文を記し、これは日本でも「大日本」と邦語訳されて出版された。
しかしながら、この世紀の婚約話は、後に第二次世界大戦に繋がる国際情勢の悪化により破談となってしまった。エチオピアを含むアフリカの角地域への関心を示していたムッソリーニのイタリアからエチオピア政府に「待った」がかかったと言われている。事実、その直後にイタリアはエチオピアに侵攻した。歴史に「IF」はないとしても、もし 御成婚されていたら …。

●「エチオピア」 という名の魚
深海に生息するシマガツオ、という スズキ目の 魚を御存知だろうか。この魚は、通称「エチオピア」と称される。その名前の由来は、一説によれば 次のとおり。
エチオピアとの交流が盛んになった1930年代初頭に、相模湾に、深海魚のシマガツオが多く見つかった。地元の人々は、エチオピアからの来賓を歓迎して浮上してきた に違いない、と噂し、以来、この魚は「エチオピア」と称されるようになった 。

●「エチオピア饅頭」
魚の次は饅頭か、と思うなかれ。エチオピアに侵攻したイタリア軍 (1935〜36年、第二次エチオピア戦争)に果敢に応戦するエチオピア軍の奮闘振りに感銘を受けた、高知県 のお菓子屋さんの店主が販売する饅頭に命名。10年以上前になるが、筆者もエチオピア饅頭を 美味しく頂いた。黒砂糖が入った皮とこし餡の調和が絶妙だったことを鮮明に覚えている。
これを読んで、「是非食べたい!」と思った方には 大変残念な お知らせであるが、このお菓子屋さんは、2013年に閉店。在日エチオピア大使館公認菓子となった銘菓の味は、歴史の記憶と共に、食べた人々の中に永遠に残ることとなった。

●コーヒーセレモニー
エチオピアがコーヒー発祥の地と言われていることは日本でも知られるようになった。これについては、別途の回に書くこととしたい。
コーヒー好きの筆者は、喫茶店で「エチオピア・モカ入荷」という貼紙を目にすると、思わず注文してしまう。 最近では、日本でも、ハラール、シダモ、イルガチェフといった具体的産地名がついたコーヒーが売られていることもある。子供の頃 、モカとはコーヒーの代名詞だと思い込んでいた。因みに、「モカ」というのは、エチオピアではなく、アデン湾を挟んで対岸にあるイエメンの港町の名前(英語では Mochaと表記)。ここからエチオピアやイエメン産のコーヒーが輸出されていたため、そう呼ばれるようにな り、日本でも「モカ」が定着した。

●伝統的お作法で本場を味わう
エチオピアでコーヒーセレモニーに招かれることがしばしばある。客は、白を基調とした綺麗な民族衣装のドレスを着た女主人を取り囲むように座 る。床は、ケテマと呼ばれる 「い草」のような植物 が 敷 かれる。 まずは 水で 生豆を洗うところから始まり、炭火で 焙煎する。この炭火に乳香が入れられると、その場の雰囲気が一気に格式高いものに感じられる。豆がローストされて良い匂いが立つと、女主人がそれを客に回して嗅がせてくれる。
豆が良い色になったら、それを粉にして(本来ムカチャという臼で潰すのだが、ガーッと電動ミルでやるときもあり、急に感覚が21世紀に戻ることもある)、ジャバナと呼ばれる特徴的なポットに水と一緒に入れて、火にかけて沸騰させる。これでブンナ(エチオピアの公用語アムハラ語でコーヒーの意味)の 出来上がり。小さめのカップに入れて、客に振る舞う。
正式にお呼ばれされた場合、3杯頂くのが礼儀。そこまで飲めば、長老が皆の幸福を祈ってお開きになる。

●味わい方も様々
コーヒーに香草(エナーダム )を入れて飲むこともしばしばある。
地方によってはバターを入れるところもある。南部のグラゲという地域に出張した時には、このバター入りのコーヒーを頂いた。大事なお客であれば、バターの割合が増えるのだと。
有難いことに、筆者もバターの油分が分厚い層になって見えるような 特別なコーヒーを、勧められるままに何杯もお代わりした。
また、一つのカップにコーヒーと紅茶を半々にして飲むこともある。綺麗に二層に分かれた2in1のコーヒー&紅茶が透明なグラスに入れて出してくれる店もあった。味は、コーヒーと紅茶のそれぞれの味が交互に感じられた(個人差あり)。

●さて、日本との関係 の文脈でなぜコーヒーに言及したのか。日本には茶道がある。3000年もの長い歴史を有し、独立を保ってきた両国。一杯飲むのに、これだけ格式を持ち、時間をかける国民は珍しいだろう。大統領宮殿の敷地内に、日本庭園がある。両国関係に因んだ記念行事の際に、茶道のデモンストレーション(野点)を行ったことがある。急ごしらえではあったが、美しい日本の着物に身を包んだ大和撫子を中心とするエチオピア在住日本人編成チームが、お琴の生演奏と共に奮闘。来賓として御出席された当時の大統領に最初の一杯を味わって頂いた。ギャラリーに開放した途端に長蛇の列ができたことは言うまでもない。
次回はコーヒーとお茶についてまとめてみたい。

(AU代森本)

(本エッセイは、AU代表部員個人の見解を記したものであり、必ずしも当代表部または日本政府の立場を反映したものではありません。)

(上:アディスアベバのヒルトンホテルのロビーに設置されたハイレセラシエ皇帝のパネル。1969年 11月 、皇帝がこのホテルの除幕式に出席した記念。筆者撮影。)
(下:コーヒーセレモニー。女性が右手に持っているのがジャバナ。筆者撮影。)

pdfのダウンロードはこちらから