モンレアル便り

第5号

カナダの国歌

カナダの国歌は、「オー・カナダ」という歌です。意味は、文字どおりの「おお、カナダよ」です。歌詞は、最初はフランス語で書かれました。原題は「Ô Canada」と、「O」の上にフランス語のアクサン記号が付きます。その後、歌詞は英訳され、英語の題名はアクサンなしの「O Canada」です。英仏2か国語を公用語とするカナダらしく、国歌の歌詞にも英仏の2つがあります。更に、第3のバージョンとして、英仏混合版も存在します。

国歌誕生譚

世紀をまたぐ国歌の制作と決定

「オー・カナダ」の制作は、1880年に遡ります。今日では「ケベックの日」と呼ばれ、ケベック州において重要な祝日であるサン・ジャン・バプティストの日(6月24日)に、フランス系カナダ人の祝日を祝うための歌を制作するよう、当時のケベック州副総督であったロビタイユ(Théodor Robitaille)氏が依頼したのが始まりとされています。当時は、「Chant national」すなわち「国民の歌」と呼ばれ、祝日の2か月ほど前の1880年4月に完成しました。現地紙は、「ついに、正真正銘のフランス系カナダ人の歌が完成した!」と報じました。国民の歌は、フランス系カナダ人の間に浸透し、やがて、英語系住民たちに英語に訳されて歌われるようになりました。
英語の歌詞には複数のバージョンがありましたが、法律家であり詩人でもあったワイヤー(Robert Stanley Weir)氏が1908年に書いたとされる歌詞がベースとなって国歌の英語化が進められました。
歌詞は何度か手が加えられ、最近では、2018年に最終的な修正がなされて、今日の歌詞になりました。それに対し、仏語版はオリジナルの歌詞から変更はありません。なお、英仏共に、元々の歌は4つの節で構成された長いものでしたが、国歌「オー・カナダ」として採用されたのは、そのうちの第1節だけでした。
「オー・カナダ」は、1967年3月15日に、議会の上下両院で構成された特別合同委員会によってカナダ国家として承認されました。その後、国歌法が編成され、1980年7月1日にカナダ総督がこれを公布したことをもって、最終的に決定されました。国歌の初版の楽譜の表紙には、この歌の作成を依頼したケベック州のロビタイユ副総督の姿が載っていました。長い年月をかけて完成した国歌の成り立ちを振り返ってみたいと思います。

産みの苦しみ

1880年以前、特に英語系カナダ人の間では、英国国歌の「国王陛下万歳(God Save the King)」と「メープルリーフ・フォーエバー(The Maple Leaf Forever)」の2つが事実上のカナダの国歌として歌われていました。後者は、カナダが英国から自治権を獲得した1867年に、カナダ建国を讃えるために、詩人で教師だったミュア(Alexander Muir)氏が作詞作曲を手がけて作成した英語の歌でした。彼は軍人でもあり、兵役中にこの歌を作ったと言われています。

メープルリーフの歌は、出だしが「In Days of yore, from Britain’s shore, Wolfe the dauntless hero came and planted firm Britannia’s flag on Canada’s fair domain. Here may it wave, our boast, our pride」という歌詞になっています。「英国から英国国旗を掲げて勇敢な英雄ウルフがカナダに来た」という趣旨です。英雄ウルフとは、英仏が戦ったフレンチインディアン戦争で英軍が勝利した際に指揮をとったウルフ将軍のことで、この歌はその勇姿を讃えています。「カナダの地に旗を掲げよ、我らが誇り」といった歌詞が続きます。英国系の勇ましい歌を前に、フランス系カナダ人は面白くありません。当然ながら、彼らはフランス語の国歌を求めます。1829年に、「カナダの愛しい大地(Sol canadien, terre chérie)」というフランス語の愛国歌が、ケベック生まれの政治家で弁護士のベダール(Isidore Bédard)氏の作詞と、ドイツ生まれでケベックに移住した音楽教師のモルト(Théodore Molt)氏の作曲で発表されますが、国歌として採用されるには至りませんでした。これ以外にも、「オー・カナダ!我が国!我が愛(Ô Canada ! mon pays ! mes amours !)」「La Huronne(先住民の名にちなんだ題名)」「カリヨンの旗(Le Drapeau de Carillon)」(フレンチインディアン戦争で仏軍を率いたモンカルム将軍の旗を指す)なども候補に上がりましたが、いずれも十分な支持を得るには至りませんでした。
ケベックの音楽家のガニョン(Earnest Gagnon)氏は、当時良く知られていた「Vive la Canadienne」と「Claire Fontaine」のメロディーを当面の間、国家として代用してはどうか、と提案しました。モントリオールのサン・ジャン・パプティスト協議会(ケベックの主権やフランス語を擁護する団体)は、古くからあるフランス語のフォークソングである「A la claire fontaine」を国家とする内容の意見書を採択し、1880年1月24日に、フランス系カナダ人総会の事務局に送付しました。
その意見書には、同年の6月23~25日に予定されるサン・ジャン・バプティストを祝う祭典の期間にケベック市で開催される国民総会において、国歌を決定するためのコンペを行うことが提案されていました。事務局は、大会までに十分な時間がないことを懸念しつつ、同年3月15日に国歌制作委員会を立ち上げます。23人の専門家で構成されるこの委員会の議長はガニョン氏が務めました。メンバーの中には、後に国歌「オー・カナダ」を作曲するラヴァレ(Calixa Lavallée)氏も含まれていました。カナダ国歌が完成するまで、あと一息というところまで来ました。

栄誉をかけた検証

作曲家ラヴァレは、ケベック州のモントリオールに近い町に住む音楽一家の子供として1842年に生まれました。幼少の頃から音楽の才能を見いだされ、音楽教育を受けました。米国やヨーロッパに音楽留学したり、自ら演奏したり、また作曲家、音楽教師として働きました。その後、ケベックに帰郷し、作曲活動などを行っていた1880年に「オー・カナダ」の作曲を依頼されました。1891年、彼は、当時住んでいた米国で、49歳という若さで亡くなりました。短い音楽家人生の中で、60余の作品を残しました。遺体は米国で埋葬されましたが、遺品はモントリオールに持ち帰られました。

国家制作委員会の議長を務めたガニョン(Ernest Gagnon)氏の娘のブランシュ・ガニョン(Blanche Gagnon)が1920年6月に述べた内容によれば、1880年のサン・ジャン・パプティストの祭典のために国民の歌を作曲して欲しいと、父(Ernest)がラヴァレ氏に依頼します。歌詞についても、父からケベック最高裁判事のルティエ(Adolphe-Basile Routhier)氏に、自分が考えた歌の出だしを伝えて、それに続く歌詞を書くよう依頼しました。

しかし、同年12月に地元の新聞「ラ・プレス(La Presse)」が「オー・カナダ」の起源について報じた内容は、娘ブランシュが語った内容とは異なります。記事によれば、まず初めにルティエ氏が作詞をして、それにメロディーを付けるために、当時のケベック州副総督ロビタイユ氏がラヴァレ氏に作曲を頼んだことになっています。この説は長く通説とされ、カナダの百科事典にも掲載されていたそうです。
それから半世紀以上を経た1975年に、新たな事実が発覚します。「オー・カナダ」の作詞をしたルティエ氏が、トロント生まれの医者リチャードソン(Thomas Bedford Richardson)に宛てて英語で書いた1907年2月12日付の書簡が見つかりました。その中で、ルティエ氏は、「ガニョン(Ernest)氏は、私(ル ティエ)とラヴァレ氏の大親友である。ガニョン氏の提案で、ラヴァレ氏と私は国民の歌を制作することに同意した。ラヴァレ氏は作曲を先にするべきだと主張し、曲を作った。私はその曲に合わせて歌詞を書いた」という趣旨を伝えています。この書簡は、リチャードソンの娘のハガーマン(Florence Hagerman)氏がカナダ国立図書館に提供したことで明らかになったのです。

その書簡の約1か月前の1907年1月8日付の別の書簡が更に事実を解き明かします。これは、弁護士で政治家のラヴェルニュ(Armand Lavergne)氏がリチャードソン氏に宛てたもので、その中で、ガニョン氏の証言が綴られています。すなわち、ガニョン氏は、ラヴァレ氏が作曲した曲をルティエ氏に渡しつつ、出だしの歌詞の一案として、「Ô Canada! Terre de nos aïeux(カナダよ! 我らが祖先の地よ)」を提示して、これに続く歌詞を考えるよう依頼しているのです。
ルティエ氏は、1920年6月にこの世を去る前に、孫のアドルフに宛てて、カナダ国歌誕生の様子を書き記しました。そのメモは、1980年6月に議会で読み上げられ、その内容は多くの人々が知ることとなりました。それによれば、ある日、作曲家ラヴァレ氏の自宅に招待されたルティエ氏が、ラヴァレ氏が演奏するサン=サーンスの「英雄行進曲」とバッハの「G線上のアリア」を聴いた翌日に、一晩かけて「オー・カナダ」の歌詞を第4節まで一気に書き上げたのでした。また、国歌の選定は、音楽委員会に依頼されていたとはいえ、時間が限られていたことから、ラヴァレ氏、ガニョン氏、ルティエ氏の3人が中心となってドンドン進めていったようです。3人は、他の委員たちから反感を買うことを恐れ、それを避けるために、ロビタイユ副総督に相談し、あたかも副総督の命令で、ラヴァレ氏とルティエ氏に作詞作曲が依頼されたように取り繕ってもらったそうです。
ロビタイユ副総督が国歌の制作を依頼し、ラヴァレ氏が作曲し、ルティエ氏が作詞して「オー・カナダ」が完成した、という通説は、確かにそのとおりかもしれませんが、実際のやりとりは、もう少し複雑だったようですね。

なお、少し笑える話ですが、「オー・カナダ」の作曲をしたラヴァレ氏は、余りにも興奮したためか、楽譜へのサインをするのを忘れていました。時間がなかったので、ラヴァレ氏と交流があったバイオリニストのラヴィーニュ(Arthur Lavigne)氏が代わりにサインして、急いで副総督に届けられました。副総督は、ラヴィーニュ氏に出版業を始め、楽譜本を出版するよう依頼したそうです。

国歌斉唱のエチケットと著作権

カナダ政府は、国歌斉唱や演奏のエチケットに関する一般的なルールを定めています。法律ではないので、絶対にそうしなければならない、というものではありません。著作権についても定められています。

  • 式典などで「オー・カナダ」を演奏・斉唱する場合、式典のどのタイミングで行うのが相応しいかについて、特に決まりはありません。大抵は式典の冒頭に国歌を演奏・斉唱することが多いのではないかと思います。また、歌唱するか、器楽のみとするか、についても決まりはなく、式典の主催者の判断に委ねられています。
  • 例えば、日本とカナダが共催する行事で両国の国歌が演奏される場合、カナダ国内で開催されるのであれば、「オー・カナダ」が優先されるべき、となっています。具体的には、式典の冒頭に2つの国歌を演奏する場合、「オー・カナダ」を先に、次に「君が代」を演奏。もし、式典の最後に両国国歌を演奏する場合には、先に「君が代」、最後の大トリに「オー・カナダ」を演奏するのが望まれる、ということです。
  • 国歌への敬意として、演奏される際には起立するのが慣例です。以前は民間人の男性は帽子を脱ぐことになっていましたが、現在はそういった決まりはなく、性別にかかわらず帽子やベールをどうするかは各自の判断に任されています。現代らしいルール変更ですね。
  • 一般的に、観客は国歌斉唱後に拍手をしない、となっています。
  • 国歌法では、「オー・カナダ」の旋律と歌詞は公共物とされ、著作権はありません。つまり、カナダ政府の許可なく使用することができます。また、その楽譜を自由にアレンジすることができます。(アレンジが加えられたものには、著作権が発生することになります。)
  • 法律で定められている「オー・カナダ」の歌詞は、英仏2か国語のみです。従って、英仏以外の翻訳版の歌詞は公式なものとはみなされません。

「オー・カナダ」の誕生だけで紙面が尽きてしまいました。次号は、英仏の歌詞について述べたいと思います。

(つづく)
(了)

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