パリ通信(12)「下からみたフランス」フランスの知性派リーダー ミッシェル・ロカールとその遺産(L’héritage de Michel Rocard et sa théorie « deuxième gauche »)

パリ通信(12)「下からみたフランス」

フランスの知性派リーダー
ミッシェル・ロカールとその遺産
(L’héritage de Michel Rocard et sa théorie « deuxième gauche »)

パリクラブ参与 綿貫 健治
2016年12月24日

約半年前の2016年7月2日、フランス政治界の巨星ミシェル・ロカール元首相が85歳で亡くなった。ロカールの名前は一般の日本人にはなじみがないがフランス人にとっては特別な存在である。1968年の反体制運動「5月革命」で学生や労働者を指導しフランス左派の「新しい顔(un nouveau visage)」として華々しくデビューした。1970-80年代には社会党内で権力の頂点にあった第1左翼のミッテランと対峙して、改革、現実派の「第2の左翼(la deuxième gauche)」を形成し大統領職を争った知性派リーダーである。1981年にミッテラン大統領が誕生したときにはその実力を買われ国土開発相、農業相に登用され、第2期の1988年、今度は国民的人気を買われ首相に抜擢された。首相時代には社会党内をまとめ失業者や低所得者に対する社会復帰のための給付金制度(RMI)、社会保障会計の赤字脱却のための一般社会貢献税(CSG)などの制度をつくり、ニューカレドニア独立問題の平和的解決、国営企業民営化や高等教育改革で実績を残した。ミッテランとの確執に翻弄され大統領になり損ねたが、先見の明をもち社会党を国民政党までもっていった功績は大きい。私のフランス人の友人はロカールフアンで、現在の混とんとしたフランス政治界を危惧し「今、ロカールがいたら、今度は確実に大統領になっていた。。。だが、まだ希望はあるよ。彼の意志を継いだヴァルスやマクロンがいるから」と目を輝かしていた。
ロカールの死のインパクトは想像以上に大きかった。フランスメディアは深い哀悼の意を表し特集号を組んで一面で報道した。左派系雑誌「ヌーヴェル・オブザバトウール」は「ロカールと我々」というタイトルで40ページにわたって彼の業績や彼との関係を掲載し、右派新聞紙「ル・モンド」はロカールとミッテランとの確執関係、右派系雑誌「レキスプレス」は「ロカールの想い出」と題してロカールの生き方、多彩な人生、大衆誌「パリ・マッチ」は妻との写真を表紙に載せて「ロカール、闘争の人生」と題して政治闘争だけでなく多彩な人生闘争の裏側を紹介した。あの風刺週刊誌「シャルリ・エブド」も「さよなら、ロカール」特集を組み、風刺画を添えて「今や左翼は死んだから、私も去るよ」と現政権に皮肉を込めた哀悼のメッセージを送った。権力に固執したミッテランと比べてヒューマンなロカールはより人々の記憶に残っている。彼と時代をともに生きたフランス人は皆、かれのメッセージと行動が頭と心に残っていて、歴史の一時点では「皆、ロカールディアン」であった。教育や人材育成にも熱心で、ヴァルス、マクロン以外にもB.ハーモン、J.キューザック、M.サパン、M.トレーヌ、J.Y.ルドリアン、現首相のB.カズヌーヴ(ヴァルスの友人)などの重量級が彼の影響を直接、間接に受け活躍しているのも偶然ではない。

ロカールを特集する仏雑誌

ロカールを特集する仏雑誌

ロカールの人生を一言で表すのは難しい。 しかし、彼の生い立ち、教育、キャリア、生き方から透けて見えるものがある。1930年パリ郊外セーヌ県のクールブヴォアで生まれプロテスタントの家庭に育った。父はカトリック系ブルジョア家系の学者であったが不可知論者、母は中流家庭出のプロテスタント教師でおもに母の影響を受けた。 二人とも厳格、教育熱心だったのでロカールはその期待と重圧に耐えるのは大変だった。特に、父はとびぬけて優秀な学者でパリ師範学校物理科を出て母校の教授、研究所長を務め科学界では「レーダー開発者の一人」、「フランス原爆開発の父」と呼ばれ有名であった。ロカールは父の意に背いて17歳の時に数学能力の限界を知り、内緒で将来政治家になるためにとパリ政治学院に入学した。通常なら親は喜ぶところだが、科学者の父は激怒し「政治家は人をだます低級商売だ」とまで言ってロカールを責めロカールは長い間父を納得させることに苦労した。父が軽度の難聴者であったこともありお互いが十分話し合いができなかったことも原因である。したがって、厳しかったが教育、社会的活動に熱心で社交的な母、近所のやさしいプロテスタント改革派の牧師、家庭外ではボーイスカウト運動の友人が良い相談相手だった。後年、ロカールが身の危険を冒してまで飛行機、グライダーなどの空のスポーツやスキー、ヨットなど海、山のスポーツに走ったのも父の重圧から逃げたかったからかもしれない。

政治的主張や規律と比べて彼の性格は複雑だった。インテリ、真面目、誠実、正直、純粋、温かい面もあるが、その一方で単純だけど複雑、インテリだけど直情的、温かいけど無関心、誠実だけど純粋すぎ、計算高いけど不器用など二重人格者的な面ももっていた。また、しゃべり方も独特で高い教養からレベルの高い発言をするので、政敵で政治、文化的素養の高いミッテランでさえも何度ロカールと話しても「社会学者か? 雄弁家だけど言っていることがよくわからない」と言うのが口癖だった。「神秘的なロカール(le mystère Racard)」と言われるゆえんである。ただ、友達好きで部下を育てるという温かさは母譲り、最後まで多くの友人を作り後継者の面倒を見た。女性にもてて若手に人気があった。女性遍歴(?)のある歴代大統領ミッテラン、サルコジ、オランドと同じように女性に優しく、24歳の初婚から3度の結婚を経験し4人の子供がいる。3度目の結婚相手がロカールの魅力を上手くまとめている。「アラン・ドロンのようなカッコよさはないが、インテリ、スポーツ・冒険好き、文化的教養が高く、はつらつとしていて女性的感受性に富んでいる(Il n’avait pas le physique Alain Delon mais,… il était tellement intelligent et pétillant avec un temperament d’aventurier. …Il avait une sensibilité plutôt feminine.)」(「パリ・マッチ」、2016年7月7-12号)。やはり、女性に人気があることは人の心をつかむことにたけているということだろう。
ロカールの生き方は改革者の生き方だ。若い時はパリ政治学院、国立行政学院(ENA)に入学しENA卒業後は財務省会計検査院に勤めた典型的なエリート人生だった。しかし、動乱時代の背景と学費稼ぎで父のラボラトリーでアルバイトさせられた時、一緒に働いた貧しい労働者の影響を受け政治に興味を持った。19歳の時に旧社会党(SFIO)青年部に入って活動したが、学生運動で目立ったせいか難関ENAに入るのにも苦労し口頭試験で2回落ち初めて挫折感も味わった。社交的なロカールは友人関係も幅広く、パリ政治学院時代には2歳年下の後の首相ジャック・シラクと知り合い社会党への入党を勧めて断られたこともある。ロカールが首相になった時、シラクは自分の経験から首相交代期に気難しいミッテランとの付き合い方まで伝授した。学外では一時籍を置いたパリ大学では学生フランス全国学生連合(UNEF)で活動していたジャン・マリー・ルペンとも会っている。ロカールは学生運動で頭角を現し労働インターナショナル・フランス支部であった旧社会党(SFIO)に加入するが、アルジェリア戦争に反対し1957年に脱退、1967年に統一社会党(PSU)の全国書記長になった。「真実を話す(Parler vrai)」政治家として1966年のグルノーブル社会党大会で穏健中道左派リーダーだったマンデス・フランスの後継者と言われた。1968年の学生・労働者などの反体制運動「5月革命」で主導的役割を果たし左翼世代のスターになり、その勢いで1969年に大統領選挙に立候補し3.61%と期待以上の票を集め自由管理社会主義の独自路線を強めた。

ミッテランとロカールには出身地(地方とパリ)や宗派(カトリックとプロテスタント)の違い以上に相対立する立場の違いがあった。本格的な政治的対立は1974年に当時、左翼キリスト系、非マルクス主義でヨーロッパ的社会主義を唱えていたロカールが社共共闘作戦をとりミッテラン主導でまとまりつつあった社会党(PS)に復帰したときに始まった。先進的なロカールは1977年のナント社会党大会でタブーであった社会党の「二つの社会党文化」論にふれ、社会党内には「市民参加型の地方分権、地域主義、自主管理主義を主体とする第2左翼の考えと急進主義、中央集権で国家優先の第1左翼の二つの文化が混在する(La Deuxième gauche, décentralisatrice, régionaliste, héritière de la tradition autogestionnaire, qui prend en compte les démarches participatives de citoyens, en opposition à une Première gauche, jacobine, centralisatrice et étatique)」と指導部を攻撃しミッテランを激怒させた。国民に支持され大統領候補としての力をつけたロカールは1981年の大統領候補を決める社会党メッツ大会(1979)にミッテランを一時的に離れたモーロアを味方につけ社会民主主義、市場主義に根差した第2左翼政策で臨んだが、第1左翼のミッテラン、ファビウス、シェヴェヌマン連合に負けた。
ミッテランは1981年に共産党を含む左翼をとりこみ念願の大統領になった。社会党政権の誕生が政治を目指す若手に大きな影響を与え、ミッテラン側には大統領と顧問のジャック・アタリを慕ってオランドやロワイヤルのような優秀な若手官僚が集り、ミッテランと戦ったロカール側には官僚だけでなくいろいろな分野の人材が集まり、その中に若いスペイン出身のヴァルスがいて友人とロカール支援の青年政治クラブ「クラブ・フォーラム」を作った。ミッテランはロカールを嫌っていたが力のあるロカールを閣僚に取り込み大統領第2期の1988年にはモーロワ、ファビウス、シラク(コハビタシオン)の後の首相に任命した。ミッテランはロカールの周りをミッテラン派の閣僚でかため、ロカールの力を過少評価し側近には「ロカールは15か月も持たないだろう(Vous verrez, au bout de quinze mois, on verra á travers.)」ともらしていたが、ロカールはその上を行き3年間つとめたのはミッテランの誤算だった。その間、ロカールは周囲と国民を取り込み新しい社会党を目指す第2左翼派の政治家として実績を残した。新自由主義的思想を受け入れた中道政策をとり政府・企業協業の混合経済政策、国有企業の民営化、失業者の社会復帰(RMI)や社会保障赤字削減を考慮した制度(CSG)導入など次々実績を出した。景気の良い時代の後押しもあり政策も好評であったため、ミッテランもあまり口も出せずロカールは改革派リーダーとして力を振るえた。パリ大学時代、17歳からロカールを応援してきた若いヴァルスも成人してロカールの首相官房の広報担当秘書官としてデビューしロカールを支えた。

1988年、ミッテランが第2期の大統領選でシラクに勝った時がミッテラン政権の頂点だった。ライバルのロカールを首相にしてからミッテランが外交、ロカールが内政とすみわけ、欧州統合の準備に忙しかった。ミッテランは仲間から「おやじ(le Vieux)」、国民から「トントン(幼児語でおじちゃん)」と親しまれ72歳であったが頂点を極めていた。しかし、裏では病気(癌が)進行しており、右派からは「もう10年で後退期の長期政権だ」と言われ始めていた。加えるに1990年3月、社会党レンヌ大会でロカールが取り込んだミッテラン派のジョスパンと子飼いのファビウスとの主導権争いが始まり、いわゆる「ミッテランディスト」の内紛が浮上した。それに、火をそそるようにロカールが1995年の大統領選挙出馬を公言するようになると、ミッテランはもう社会党を混乱させるロカールを許せなくなった。ミッテランは「ロカールは大統領に必要な力と性格を備えていない(Michel Rocard n’avait ni la capacité ni le caractère necessaire pour exercer la présidence )」(Jacques Attali 「C’était François Mitterand」 Fayard, 2005)などロカールを側近にだけでなく、あらゆる場面でけなし始めた。その激しさはひどくロカール自身は後年「ミッテランは残忍さの主だ(Mitterand savait être d’une grande cruauté)」(JDD, 2016/7/3)と回想している。
レンヌ大会以後社会党指導部は、ミッテランが「ジョスパンは傲慢、ファビウスは尊大で、ロカールは狭量。。。社会党の幹部は“エスカルゴ状態”でどうしょうもない」というほど後継者難に陥り焦っていた。ひそかに英国のサーッチャーファンだったミッテランは「人気をとるなら女性」と安易な考えで5月にたった「3分間の説明」でロカールを解雇し、子飼いのクレッソン女史を首相にした。グランゼコールHEC出身で慎重なロカールと正反対の性格を持ち、不用意な発言で敵を作りやすい性格でサッチャーとは器が違う女性であった。アタリがミッテランの命を受けロンドンの欧州開発復興銀行(EBRD)設立に旅立った直後でミッテランは側近に相談相手がいなかったせいもあったか。クレッソンはすぐに実力不足と不用意な発言で農業や外交問題をおこし地方選挙で負け辞任に追い込まれ、後継者に経済に強いが高齢で時代遅れの子飼いベレゴヴォアを首相に選んだ。ベレゴヴォアも薬害エイズ問題、社会党不正会計などのスキャンダルと国民議会戦で負け辞任した。ロカールは1993年に再起し社会党の「ビッグバン」政策を掲げて党書記になったが、すでに遅く社会党はバラバラ、国民議会選挙で大敗して保守のバラデュールとのコアビタシオンが始まり1995年大統領の夢は絶たれた。ミッテランにとって首相辞任後ベレゴヴォアがミッテランがらみの事件で自殺したことや翌年隠し子の存在と私生活をパリ・マッチに暴露されたことも致命傷で、晩節を全うできなかった。1992年欧州統合で名を挙げ、ロカールと同じプロテスタント、第2左翼グループのジャック・ドロールも期待されたがミッテランのいじめと失望で大統領選挙に出馬せず欧州議会委員長にとどまった。再起を期したロカールは1994年の欧州議会選挙にPSから出馬したが、ミッテランが後押しした実業家で俳優でもあるベルナール・タピを筆頭とする名簿名「急進エネルギー」のMRG(Mouvement des Radicquax de Gauche)の攻勢に敗北を喫した。更にPSが正式にジョスパンを大統領候補に指名しミッテランが承認したためロカールの夢は終わった。1995年は右派のシラクが大統領選を制した。

その後、ロカールは活躍の舞台を欧州に移し2009年まで14年間欧州議員として欧州統一とフランスの利益のために尽力した。ミッテランもドイツとヨーロッパ統合に尽力し1993年に最後の仕事であるマーストリヒト条約発効を見届けて1996年1月に癌でなくなった。ミッテラン派から「アメリカン」と言われるぐらい右派的思想を持っていたロカールは、その後も保守派からも声がかかりサルコジ大統領の大型未来投資プロジェクト「Les investissements d’avenir-Le Grand Emprunt」実施のための共同議長(右派ジュペと一緒)や環境保全のための北極・南極交渉大使として活躍した。また、若手を育成し次の大統領を狙う前首相マニュエル・ヴァルスを指導し、そのライバル元財務相エマニュエル・マクロンなどに影響を与えた。イギリスの欧州離脱問題に対しては、EUの結束を高めるためキャメロン元首相やラファージュ独立党党首のEU批判に対して「友人のイギリスよ、どうかすみやかに離脱して、欧州を壊わさないでくれ」とEU離脱を勧めた。ロカールがイギリスのEUの一因であったことはあまり知られていない。

「ワールドクラス・ユニバーシティ会議」(上海、2013)で基調講演をするロカール元首相

「ワールドクラス・ユニバーシティ会議」(上海、2013)で基調講演をするロカール元首相

ソニーでの私のパリ駐在はロカールの首相時と重なるが、残念ながらお会いする機会もなく、パリ市長になっていたシラクやロカールを継いだクレッソン首相の工場訪問、強烈な日本バッシングの想い出の方が強い。しかし、奇しくも2013年に上海で開催された高等教育国際会議「World Class University Conference」でロカール元首相にお会いし講演を聞きディナーでご一緒する機会を得た。高齢であったが高等教育に関する見識と情熱は高く、英語で「高等教育の新しいフレンチエクセランス」について発表された。サルコジの未来投資のプロジェクトの一つである政府、企業、研究所、大学が一体となった最高水準の研究センター「パリ・サクレー大学」プロジェクトの詳細を披露してくれた。英語ではあったがスピーチは好評でかつてフランス国民を熱狂させた片鱗を見せてくれた。ディナーでは学識の高さだけでなく、温かい人柄と丁寧な対応でヴァルスなどを育てたやさしさが伝わった。ふだんの食事もフランス的で、朝食時には煙草、ワインを愛し、就寝時にはたくさんの本を読む生活をながく続けていたと聞いていた。しかし、以前にインド出張中に軽い脳溢血を起こしたらしい。昨年のクリスマスカードでレジョン・ドヌール最高位(グランクロワ)受賞のお祝いを伝えたが返事がなかったので心配はしていたが本当になった。

友人としてロカール近く、ミッテランとの関係をよく見ながら2人の間を調整していた前ミッテラン顧問で政治学者ジャック・アタリは、「ミッテランとロカールは補完的な関係で結果的に同じ道を目指していた。ミッテランはフランスと権力を愛し、ロカールはフランス人と行動力を愛した(Les deux hommes étaient très complémentaires et ont servi ensemble une même cause. François Mitterand aimait la France et le pouvoir, Michel Rocard aimait les Français et l’action)」(Le blog de Jacques Attali sur Lexpress.fr 「La Tyrannie de la vérité」 2016/7/3)と、ミッテランは権力でロカールは知力でそれぞれ勝り、フランスをより偉大にしたと上手なまとめ方をしている。フランスとしては「WIN, WIN」の補完関係ではなかったか。しかし、感情は全く補完的でなかった。現在の社会党もいまだに分裂していてエスカルゴ状態、ミッテランの弟子オランド大統領とロカールの弟子ヴァルスが社会党政権を担っているがこれも似ている。オランドは2017年の大統領出馬を断念したが、新しい社会党を目指すヴァルスは首相を辞任して、マクロンはその前に閣僚を辞任して2017年の大統領選挙に臨む。ヴァルスもマクロンも社会党の改革や自由経済の認識を十分認知しておりロカールの第2左翼の先を目指している。ミッテランとロカールが争った時代はもう古く、ヴァルスは社会党の名前さえも変えるべきだと言っている。世評は2017年の大統領選挙では共和派のフィオンと国民戦線FNのマリー・ルペンとの決戦投票であると予想されているが果たしてどうなるか? じっくり、そして興味深く見守りたい。
(2016年12月24日)

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