パリ通信(9)「下から見たフランス」パリの美化(2)L’embellissement de Paris(2)

パリ通信(9)「下から見たフランス」

パリの美化(2)
L’embellissement de Paris(2)

綿貫 健治

フランスは自由と民主主義、そして英雄によって導かれる国である。第二帝政の主役ナポレオン3世は19世紀半ばの混迷の時代に絶妙なタイミングで登場して来た。遅咲きで人生の4分の3を牢獄、逃亡や海外での流浪生活に費やし皇帝になったのは44歳であった。政治的には気が進まぬまま始めた普仏戦争の敗北、多額の賠償金とアルザス・ロレーヌの割譲、ボナパルティズムを嫌う共和主義者やマルクス、ユーゴーなどの社会主義者が作り上げたイメージがあり、個人的には小柄で目立たず、寡黙で演説下手、ドイツ語なまりのフランス語を話し、女性関係で生活が乱れ奇異で無能な人物と言うのが定説だ。たしかに損をしている印象だ。しかし、よく調べると実際のナポレオン3世は違うようだ。若いときには乗馬、フェンシングなどが好きな活発なスポーツ青年、行動も大胆で、いつも先頭に立ちとっぴな行動をとって人を驚かせ女性を魅了する不思議な笑顔と魅力を持っていた。また、サン=シモン主義に共鳴し24歳から「政治的夢想」、「ナポレオンの思想」、「貧困の絶滅」をはじめとする啓蒙的著作を発表し、ナポレオン1世とは違うインテリジェントなリーダーであった。亡命中にイタリア、アメリカ、イギリス、スイスなどに滞在し、その国の高度な政治、経済、社会システムを経験した国際派で、皇帝になった時には、すでに頭の中にはしっかりした未来の青写真ができていた。聞き上手で決断力があったためナポレオン3世の夢を実行する優秀な官僚やエキスパートが集まった。

悪い評判は、当時、社会主義者で批判者の常連ユーゴーとマルクス、古い伝統を守るカトリック教会、特に普仏戦争時の惨めな敗北とその後のフランスの苦難から共和主義者が責任をナポレオン3世になすりつけ多くの事実を歪曲したため過小評価につながった。事実、「パリの美化」(1)で述べたように、最近の研究ではナポレオン3世自身の近代的な統率能力、組織力、行政能力が再評価されて来ている。パリの大改造も初期のころは、ナポレオン3世が自分の思想を元に当時の上院議員、7月王政時のセーヌ知事アンリ・シメオン公爵(Henri Simèon)に命じて作った「シメオン委員会」の草案が下敷きになりオスマンが発展させたと言うのが今や定説になっている。海外では特にナポレオン3世を温かく迎えた亡命先のイギリスと幕末から明治初期にかけて近代化の協力関係にあった日本にフアンが多く、イギリスではウエールズ大学教授でフランス歴史学の権威ロジャー・プライス氏はナポレオン3世は「政治から党派色を一掃して行政権を強化し、経済と社会を近代化させ人民の正当な要求を満足させることによって革命時代を終わらせる明確な目標があった」(「フランスの歴史」)、日本では東京大学名誉教授で著名なフランス近代史学者である柴田三千雄氏は「第二帝政は単なる(ナポレオン3世の)“茶番”として片付けるべきでなく、ひとつの政治文化として検討するに値する」(「フランス史10講」)と評価している。

日本ではフランス文学の権威鹿島茂氏が名著「怪帝ナポレオン三世」の中で、距離を保ちつつも業績を評価し、むしろ口を出しすぎた皇后ウージェニーを非難し「ナポレオン3世は特異な人物で、単なる“馬鹿殿”、“好色家”、“成り上がり者”という色眼鏡でみてはいけない」と弁護している。ただし、現実にはこうした努力にもかかわらずまだまだ評価は十分でない。本家のパリでも有名書店に行くと歴史区分の書棚「帝政時代」にはナポレオン1世の本がほとんどでナポレオン3世の本は少なく、20-30冊に1冊の割合という書店が多い。本の数では彼の部下のオスマンの本のほうが圧倒的に多い。ちなみにペレール兄弟は1冊、シュヴァリエの本は見つかず仕方ないので仏文フランス経済史(アカデミックな研究書には上野喬「ミッシェル・シュヴァリエ研究」がある)の本を参考にした。しかし、これは現在書店での話しで日仏の国立図書館に行けば過去の出版物に出会える。

アンヴァリッドのSALLE NAPOLEON IIIに飾ってあるナポレオン3世像

アンヴァリッドのSALLE NAPOLEON IIIに飾ってあるナポレオン3世像

第二帝政時代はまた、ナポレオン3世を支えるオスマン、シュヴァリエ、ペレール兄弟などの改革派が登場する「時代の必然性」があった。当時のフランスは政党が入り混じり、帝政を支持するボナパルト派、古い秩序の回復を目指す王朝派、立憲君主制を主張する初期の共和派、自由主義的なオルレアン派とカトリック派が結びついた秩序派、急進的な社会主義派、加えて新に登場した産業発展を唱える企業、起業家などの新興ブルジョア派など主義のことなる政党が乱立し政治は安定せず混沌とした状況であった。このような混乱の中でナポレオン3世は国民を味方につけクーデターを起こし、ナポレオンブランドと国民投票を利用して大統領、皇帝となった。産業革命の完成によるフランス近代化と豊かな国民生活の実現が目標であったが、前半は政権を安定させるために対立する政党間と資本家、労働者、農民間の難しい調整のために専制的、権威的統治方法をとり、後半は権力を維持、発展させるために人民主権、自由、民主主義を進め議会権力、言論統制の緩和、団結権・ストライキ権の合法化、教育改革などを行い、フランスの威光を拡大するためと国民の視線をそらせるために海外戦争、進出を積極的に行った。

ナポレオン3世が最優先したのはパリの大改造であった。当時、産業の発達にともなう労働者流入で高まりつつある都市労働者の不満と新たに登場した豊かな中流上級階級の不満を解決しなければ真の産業革命は起こせないと判断したのである。自治区の編入もあり人口は急増し、19世紀初期の50万人が1846年には2倍の105万人台になり1866年には180万人になっていた。同じころロンドンはすでに400万人でナポレオン3世はロンドンの経験からパリが世界一になるには何をしたらいいかを十分学んでいた。人口急増は1820年代の繊維産業の発展から始まり、1830-40年代の重工業を中心とする産業革命、1842年の鉄道法施行による交通革命により加速した。鉄道だけをとっても第二帝政時代下の約20年間の間に鉄道営業キロ数が5倍になり炭鉱業や製鉄業が飛躍的に伸びた。全国が繋がったことでペレールの新興金融業だけでなく伝統的金融業オートバンク(haute banque)も参加し始め全国的に金融業がネットワーク化し地方産業もより発展した。反比例して、人口増加でパリ中心部は過密状態になり、ナポレオン3世は「このままではパリはつぶれる」と危惧した。ナポレオン3世は有能なオスマンを抜擢し見通しの良い広い大通りと住民のための大公園、売り水に頼らぬ新鮮な水道・下水、放水設備、明るく広く安全な歩道、街灯を整備した。商業発展と消費者を忘れず中央市場、デパート、商店街、ブルジョアと庶民の生活を豊かにする教会、劇場、美術館なども作った。しかし、結果的には大改造で家賃が高くなり家族持ちや低所得労働者はパリ郊外やパリ内高層建築の屋根裏に追いやられ、後世も苦しむ郊外の赤い左翼勢力ベルト地帯や、市内の東方地区の貧民街が生まれた。

パリの近代化と産業革命はナポレオン3世を筆頭に、それぞれの分野の専門家が集められ「チーム、ナポレオン3世」として進められた。彼らの職務期、主な業績と寿命を整理してみるといろいろな特徴があることがわかる。

名前 主な役職と在位期間 死没
ナポレオン3世(1808-73) 皇帝在位(1852-70) 64歳
オスマン(1809-91) セーヌ県知事(1853-70) 81歳
シュヴァリエ(1806-79) コレージュ・ド・フランス教授(1840-62)
ナポレオン3世顧問、英仏通商条約(1860)
73歳
ペレール兄弟 パリ―サンジェルマン鉄道(1835)
クレディ・イモビリエ銀行(1852-67)
 
エミール・ペレール(1800-75)   75歳
イザック・ペレール(1806-80)   74歳

一言で言うと、彼らは共和制にはさまれた約20年間の第二帝政時代にナポレオン3世とともにフランスの基礎を作るために生まれてきた人たちである。第二帝政とともに登場し約20年の間に歴史的な業績を残しさびしく消えて行った。1800-09年の間に生まれ、ナポレオン3世以外は長寿であったことも特徴である。ナポレオン3世とオスマンは生まれた年もひとつ違いでナポレオンが皇帝にオスマンがセーヌ知事になったのも44歳と遅咲きで同年齢であった。オスマンはナポレオン3世のために生まれたような家系で、名づけ親はナポレオン1世の養子ユージェヌ・ド・ボアルネ、オスマンと妻の家族は名望家でボナパルト派、父はナポレオン1世政権の将校で財政担当、ナポレオン関係者、政府、金融関係者に顔が利いた。風体もシラク元大統領みたいな巨漢で、ブルドーザー的な行動力と実行力でセーヌ県知事になる前にヴァール、ヨンヌ、ジロンド県の知事として実績を上げ中央政界に認められていた。

経済学者のシュヴァリエと企業家のペレール兄弟が活躍し始めたのはさらに若く35歳前後である。サン=シモン主義活動を通して若いころから交流があり年齢が近い。シュヴァリエと弟のイザックは同年生まれで亡くなるときも一年違い、兄のエミールとシュヴァリエは親戚同士でイザックはシュヴァリエのサン=シモン機関誌「グローブ」時代からの親友である。若い時の無理と持病の胆石のため64歳で亡くなったナポレオン3世を除いて、81歳まで生きたオスマンを筆頭に70歳以上生きて当時としては長寿であった。この4人の他に、ナポレオン3世皇后ウージェニーのいとこで同時代のサンシモニアン、フランス外交官でパナマ運河を開通(1869)させたレセップスがいるが、彼はなんと89歳まで生きた。もっと驚くのはナポレオン3世の皇后自身で知性、教養、ファッションに秀でていナポレオン3世の摂政を務めるほどの才女であったが、ナポレオン3世の死後、亡命先のイギリスで94歳まで生きた。

しかし、歴史的な仕事を終えたその後の彼らの人生は悲しい。それは、その後の権力者の立ち位置で歴史が語られ真実が歪曲されるからである。「チーム、ナポレオン3世」も、彼らが輝かしい実績と遺産を残したにもかかわらず後世の評価が低く、それぞれの人生の最後は生前の活躍に比べて不幸である。ナポレオン3世はマルクスやユーゴーのために「小人、ナポレオン」「無能、好色」と言われ、パリ大改造をしたオスマンは容赦なく中世の伝統的なカルチエを取り壊したために「引き裂き男爵」と呼ばれ、貿易自由論者で英仏通商協定を結びフランス産業を牽引したシュヴァリエは保護主義派のブルジョアから「フランス産業の破壊者」、新しいタイプの投資銀行をつくりイノベーションでフランス産業を発展させたペレール兄弟は「強欲な狼たち」などと呼ばれた。ナポレオン3世の最後も哀れである。気の進まない戦争に重病を押して前線に出てセダンでとらわれの身になりイギリスに亡命した。それでもセダンからの撤退を気にしながら亡くなった。病床で主治医に「私はセダンで“臆病”でなかったか」と言ったとか。臆病を卑怯と訳している本や解説書があるが、撤退は卑怯であったかもしれないが、無理を押して前線にでたナポレオン3世は重病人でそれ以上戦いを続けられなかった。卑怯なのは電文を改ざんしナポレオン3世を戦争に引きずり出したビスマルクの方だ。

特にオスマンの後半は惨めだ。財務問題でナポレオンに解任された後、恵まれず地方議員を務めたが最後は回想記を書きながらのわびしい年金暮らしであった。ナポレオンに過保護され実績を重ねるオスマンには最後まで敵が多く、ナポレオン3世体制が弱体化すると議会外での財政調達方法を非難され反ボナパルト派の「生贄」にされてしまった。シュヴァリエはコレージュ・ド・フランスの教授をして経済学者、ナポレオンの顧問として活躍したが、議員のときに普仏戦争に反対して公的舞台から下ろされ、経済学者としてもあまりにリベラルすぎて本流からはずれ足跡を残せなかった。ペレール兄弟は金融および多角事業で財を成し本来は財閥になれるほど資産を作ったが、過大投資やロッチルドなどのオートバンクグループの反撃を受け頼みの動産銀行などビジネスが破綻し最後はさびしく故郷で亡くなった。ナポレオン3世の皇后ウージェニーのいとこレセップスはスエズ運河成功の後パナマ運河疑獄事件に巻き込まれ失意のまま死んだ。案外本人たちは満足して死んだかもしれないが後世の人の見方は厳しかった。

最後に第二帝政時代のそれぞれの生き方をまとめて終わることにする。第2帝政時代の総指揮者ナポレオン3世は産業革命、都市革命、交通革命、消費革命を完成させることによってフランス型資本主義の原型を完成させた。ナポレオン1世の夢を実現し、名実共にフランスをヨーロッパ列強第一の美しい国に変容させた。ナポレオン1世の遺言「イギリスとは喧嘩するな」を守り、懸案であった英仏通商条約を締結させ関税を下げ自由貿易を推進した。パリをオスマンに大改造させ世界一魅力ある都市にし、起業家を奨励して新しい銀行、産業、鉄道、商業を起こさせフランスにビジネスインフラを作り、海外植民地化政策でフランスの対外勢力を拡大した。外交でもクリミア戦争でロシアに勝ちイタリアの独立を助け、国内では産業革命の集大成としてのパリ万国博覧会を成功させ世界にフランスの偉大さを見せつけた。しかし、欲を出しすぎメキシコ出兵、スペイン王位継承戦などで失敗し最後は新興勢力プロシアのビスマルクにだまされ普仏戦争で敗北した。日本の近代化には大いに貢献した。日仏修好通商条約(1858)を結び日仏関係を強化し幕末から明治にかけて横須賀製鉄所(造船所)、富岡製糸場、軍事システムなどの日本の近代化を援助すると同時に、渋沢栄一、西園寺公望など明治以降の近代化を支える人材を多数育成した。

オスマンはリセ名門アンリ4世およびブルボン校で学び、大学はパリ大学の法学部を卒業し弁護士の資格をとり、その間パリ音楽院でも学んだという教養エリートであった。法律に精通しており、夫婦ともに家柄も良く、高校、大学、知事時代のネットワークをフルに活用した。当時として先進的な強制的土地収用法や新しい信用を元とした財政、金融システムを作り次々と高額の資金を調達し改革を進めた。しかし、最後に反ナポレオン派で共和派のジュール・フェリーに刺された。フェリーが書いたパンフレット「オスマンの驚くべき会計報告(Les Comptes Fantastiques d’Haussmann)」(1868)で、オスマンが莫大な借金を抱えパリの財政事情を悪化させていると会計内容を暴露・糾弾し解任に追い込んだ。フェリーのターゲットはナポレオン3世であったが、戦略も上手でパンフレットのタイトルも当時大ヒットしていたオペラの題名を利用して効果を上げた。この活躍で名を上げたフェリーは、第3共和制で2度も首相を務め高等教育の無償化、義務化、世俗化などで実績を残した。

免職されたオスマンは、ナポレオンの失脚もあり公職年金がもらえず元老院議員にもなれなかった。まだ60歳と若いのに手を差し伸べる友も少なく、ようやく友人のおかげで動産銀行の役員や、一時期コルシカの議員も勤めたが縛りがあり中央政界に復帰できず、後半はわずかな国家年金と海外を含む都市コンサルティング料で生活をつなぎ「回想録(Mémoires)」の執筆に専心した。愛妻家でもあり1890年最愛の妻オクタヴィ死去のわずか18日後にさびしく死んでいった。しかし、オスマンには目に見えない実績があった。それは、公職中の利権で金を作れば作れたが、敬虔なプロテスタントであるオスマンは最後まで大事なプライドを守り清廉潔白な人生を送った。

また、後世の都市計画人材を育てた。たとえば、知事時代の部下アドルフ・アルファンは公園緑地を担当し、ウージェヌ・ベルグランは上下水道方式を完成しパリの給水量を2倍とした。専門家で招聘されたヴィクトール・バルタールはパリの心臓、パリ中央市場を完成させ、シャルル・ガルニエはオペラ座(ガルニエ宮)などを作り、ジャン・ピエール・デシャンはブローニュ、ヴァンセンヌなど公園緑地を開発しオスマン後のパリ都市計画にも貢献した。アルファンはオスマンの後継者となった。

凱旋門を見つめて立つオスマン

凱旋門を見つめて立つオスマン

ナポレオン3世の経済顧問として活躍した経済学者シュヴァリエはポリテクニーク、ミーヌを優秀な成績で卒業したが在学中から社会主義的なサン=シモン主義に傾注したために卒業後に期待した職に就けなかった。しばらくの間、サン=シモン主義教祖アンファンタンにスカウトされ機関紙「グローブ」の編集長をしていたが、現実的なシュヴァリエはアンファンタンとも対立して教団を去ったことで公共事業省に入省できた。サン=シモン主義の理論である国や人をつなぐ鉄道や地中海を都市とヨーロッパの発展が経済成長に大事であることを唱えた著書「地中海構想」(1831)で注目され当時の内務大臣ティエール(第3共和制の初代大統領)に見込まれ米国交通調査団員に抜擢されてから将来の道が開けた。2年の米国生活や活発な研究活動で34歳の若さで有名な経済学者レオン・セイも教えたフランス最高峰のコレージュ・ド・フランス教授になり将来を期待された。しかし、シュヴァリエは学者よりも行政官として頭角を現しナポレオン3世の経済顧問、ロンドン、パリ万博推進や国際審査委員長などをして活躍し、また、ナポレオンの顧問中の1860年に英仏間の自由貿易を推進する「英仏通商条約締結」を実現した。この条約は画期的な自由貿易をもたらしたが、保護貿易主義者のブルジョアや社会主義者の反対を呼び、また急進的な自由貿易の影響でインフラや投機を生みフランス経済を損なったと非難された。

立法院や元老院の議員もつとめたが、インテリにありがちの理論のためには対立をはばからない猪突猛進型の性格で、シュヴァリエは最後は普仏戦争に反対しティエールを始めナポレオンと同僚の信頼を失い政界を去った。普仏戦争以後には再度保護主義が復活したため、超自由主義者のシュヴァリエは1870年ごろには居場所がなくなり公的な生活を引退し、貧しくはなかったが南仏の館でさみしく一生を終えた。自由主義的経済学者バスティアを尊敬しイギリスの自由主義貿易論のマンチェスター学派との交流もあったが出世のための思想転向、再転向を重ねたことが響いて経済学者としては実現性の薄い超自由主義者として位置づけられ損をしている。しかし天才的な才能と先見性があり「ドーヴァー海峡トンネル構想」(1875)はイギリス王立協会メダルを授与され今日のユーロトンネルの下敷きになっている。

ぺレール兄弟は貧しいユダヤ系ポルトガル移民出身であったが、当初ロッチルド銀行に助けられ長期信用制度を利用した低金利の事業銀行(banque d’affaires)を創設し創成期の鉄道開発で成功した。第2帝政初期には独立して株式投資銀行(Crédit mobilier)創設し、新しい長期産業金融モデルでオスマンのパリ美化計画を援助し成功した。国内外の不動産開発、海運業、ホテル・観光業,起業家支援など手広く事業を広げて第2帝政の産業発展の原動力となった。モンソー公園周辺の新興高級住宅開発、アルカション高級避暑地開発、冒険家クレモン・アデールの最初の飛行実験を補助するなど幅広い活動をした。後半は国民議会議員としても活躍したが事業の過剰投資、ナポレオン、オスマンの凋落、同じユダヤの伝統銀行ロッチルドと対立などがあり1868年に主力銀行の動産銀行クレディ・モビリエ破綻閉鎖をきっかけに事業の連鎖倒産に追い込まれた。その後兄弟とも故郷のアルマンヴィルに戻ったが、エミールは喘息、イザックは肥満からくる腰痛でまもなくこの世を去った。かれらの「サン=シモンの夢」は1860年の半ばまでには終わっていた。

このように、今日のフランスは「チーム、ナポレオン3世」の活躍に負うところが多いのに彼らの歴史的位置と存在価値が希薄であることは悲しい。しかし、パリの美化や産業革命によって大きく変化した躍動的なパリに光を当て都市とそこに住む人たちの姿を鋭く描く芸術家たちがいた。それは印象派のグループである。パリ大改造が完成し第二帝政の成果がさめやらぬ1874年にモネ、ドガ、セザンヌ、ピサロなどが第1回印象派展覧会を開催し、モネはこの展覧会にパリの大改造によって変化したオペラ座近くのキャプシーヌ通りの近代性を描いた「キャプシーヌの大通り」(1873)を出品している。モネは伝統的な印象派のテーマ以外にも鉄道の発展と駅の喧騒を描いた「サン=ラザール駅」(1877)などパリの近代化と人々の変化を表現し続けた。特に、その中でも都市や市民にスポットライトを当てて、当時のパリの美化と変容を強く伝えたのは資産家で画家、印象派のコレクター兼スポンサーだったグスターヴ・カイユボット(Gustave Caillebotte:1848-94)の作品である。カイユボットは変化したパリでブルジョアの都市的生活とパリの現代性、産業発展を切り取ってそれを独特なアングルから描いた。商売を通じてドガ、モネ、ルノワールなどと交流があり貧しかった彼らの絵を買い集め彼らの美術展を援助し、当時失敗に終わった第1回印象派展は彼が資金を出したといわれている。カイユボットは、ルイ・ル・グラン高校卒業後パリ大学法律学校を卒業し弁護士となったが絵をあきらめきれず美術学校エコール・ド・ボザールでも絵を学んだ。

彼の作品では、1877年の第3回印象派展に出品された「パリの通り、雨」(1877)と「ヨーロッパ橋」(1876)が有名である。「パリの通り、雨」は、近代的な都市となったパリの風景とブルジョア風カップルを対比させた構成で、遠近法を用いて広い広場、オスマニアン風の建物、見通しの良いパリ、ガス灯、豊かそうな人々などが背景に描かれている。そこには近代的な、雨天でも美しいパリがある。「ヨーロッパ橋」は新しく作られたサン=ラザール駅の上にかけられたヨーロッパ橋をクローズアップして、そこを行きかう裕福なカップルと橋から線路を覗き込む犬連れの紳士などが描かれている。後方には広い通りとオスマン風の建物、橋の向こう側には駅の風景と産業革命後の躍動的な雰囲気が伝わる。カイユボットの作品は近年注目され、日本でも公開されて「NHK日曜美術館」などでも取り上げられた。現在は、パリ近郊の画家の生誕地で「CAILLEEBOTTE-Á YERRES」(7月20日まで)が開催されて印象派フアンの注目を浴びている。現代で最も人気のある印象派は「チーム、ナポレオン3世」の成し遂げた「パリの美化」があったからこそ絵画界にデビューできたといっても過言でない。

北駅外側のナポレオン3世広場といたずらされたプレート

北駅外側のナポレオン3世広場といたずらされたプレート

ナポレオン3世、オスマン、シュヴァリエ、ペレール兄弟の活躍はようやく再認識され始めたが、彼らのモニュメントも少ない。ナポレオン3世の肖像画や軍事的装備はアンヴァリッド、豪華な住まいはルーヴルで見られるが断片的で、パリには銅像がなく北駅のナポレオン3世広場(Place de NapoleonⅢ)ぐらいであった。ヴィシーなどには銅像があるらしい。オスマンの全身像はオスマン通りにあり凱旋門に向いて立っているが目立たない。シュヴァリエやペレールのモニュメントは見当たらなかった。いつの日か「チーム、ナポレオン3世」が一緒になったモニュメントができることを期待したい。(2014年5月)

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