英国ダラム便り(その23)

  • Durham, 2014/3/9

皆さま

ダラム便り(その23)をお届けします。

つい先日パリに「生ガキを食べに」行ってきましたが、その時北駅で「コートの背中が汚れているよ」という例のかっぱらいのターゲットにされました。勿論そんなものには取り合わず、スタスタ歩いていたのですが、今度はちゃんとした紳士からフランス語で「コートが汚れている」と言われ、安全な場所で確認したら背中に唾がべっとり。

英語で「汚れているよ」と言って来ても、大体は本当に汚さないのに、本当にやりやがったということです。ふつうはコートを確認するために脱いで、その間に財布をやられますから、日本人観光客の被害は相当のものだと思います。

このほかに地下鉄切符売り場親切泥棒も多いですね。これはパリだけでなく、イタリーでも何回も経験しました。自販機ですから、どうやるのかなと考えていると、「親切に」
英語で教えてくれるわけです。その過程でパクリドロンでしょう。こちらは親切ドロボーとわかっていますから、もちろん相手にはしませんが、乱暴に追い払うと、暴力を受ける恐れもあり、そこはうまくやる必要があります。

皆さまも思い出しませんか、昔のパリを。この手のドロボーは今も同じで、大活躍。昔同様ポリスは取り締まる気は全くないようです。

増渕

英国ダラム便り(その23)

[スコットランド独立の足音]

太いオジサンがスカートをはいてバグパイプを吹いているのがスコットランドのイメージです。伝統を守る昔堅気の頑固者。もうひとつ日本人にとってはスコッチ・ウィスキー。当地日刊経済紙Financial Timesが2月3日付で「スコットランド独立特集」記事を載せましたが、4日、5日とさらに関連記事が続きました。もしも独立したら通貨をどうするのかといった類のTV報道も今年に入ってやたら増えてきました。独立支持派は相変わらずスコットランド住民の 1/3程度ですが、これだけ「独立したらどうなる」とメディアでガンガン騒がれると人間の心理はどうなるのでしょうか。今年の9月19日に独立の是非を問う住民投票が行われます。もしもYesの場合、2016年3月にスコットランド国誕生です。知り合いの英国人(イングランド人)の誰に聞いても「独立なんてあり得ないよ」という反応ですが、「本気で独立するならどうぞ」という感じもします。イングランド人にしてみればこれだけポンドも含め政治・経済・社会が一体化していて、おたがいの反目もないし、分離独立のメリットなんてあるわけがないと見えるでしょう。私も全くそう思うのですが、
民族の根っこの感情には微妙なものがあるのかも知れません。現在のスコットランド政府の長は独立派のサモンド首相です。オックス・ブリッジ卒の英国中央政府エリートとは違い、ずんぐりむっくりの武闘派と言う感じで、かなり強引に民意を手繰り寄せようとしています。スコットランドでは人気があるものですから、メディアの煽り方次第ではアレレと言う間にYesになってしまったということも無きにしも非ず。英国のためにそうならないことを願っています。さすがにキャメロン首相もスコットランド引きとめキャンペーンを始めていますが、これまではほとんど無策に見えました。

上記特集記事でも「何故独立が必要か」の分析は明確ではありません。歴史を踏まえた民族感情なのでしょう。イングランドの連中に好きにされているのが我慢できなくなったということでしょうか。「独立してもやっていける」最大の理由はスコットランドが北海油田の権益収入を見込んでいることです。現在はその収入が中央政府に吸い上げられているという不満もあるようです。またEUに加盟すれば独立しても問題ないだろうという読みも重要です。カタロニアの独立問題を抱えるスペインが「スコットランドの独立問題には干渉しない」と声明していますが、独立と将来のEU加盟には敢えて反対しないということです。同じ問題を抱えるベルギーもそのうち同様の声明を出しそうです。独立後のスコットランドが目指すのは、同じ北国で距離的に近く人口規模も似ている北欧モデルだと同記事は書いています。こういう話が次々に住民の耳に美しく入っていくと「独立」ムードが生まれても不思議ではないと思います。金融を筆頭に経済界は勿論反対していますが。
この辺で少々「歴史のうんちく」にお付き合いください。スコットランドの完全併合は1707年。それまでは古くはローマ帝国支配以来、イングランドと様々な抗争が繰り返されました。スコットランド人兵士は強かったようです。さすがのローマ軍もダラムの少し北までは押さえたものの、スコットランドにまでは入れませんでした。逆襲を受けてその防衛のためにハドリアヌスの長城を築き、今も一部残っています。1066年のノルマン・コンケスト以降、ダラムは北方防衛の拠点でした。高台の要塞城からスコットランドが攻めてこないか、見張っていたのでしょう。その頃の城の一部がチャペル跡と共にしっかり残っています(世界遺産)。1296年にプランタジネット朝のエドワード1世 は一時スコットランドを征服、玉座のシンボルだった「スクーンの石」を奪ってイングランドに持ちかえってしまいました。最近返還されましたが、これは長くスコットランド人にとって屈辱だったとのことです。王家同士は婚姻関係で親戚です。エリザベス1世が生涯独身でなくなり、即位したのが血の関係が一番濃いスコットランド王朝のジェームズ王でした。このころから少なくとも王侯貴族のマインドはプロ・イングランドに変わっていったと思います。宗教も多少の違いはあっても宗教革命以降はプロテスタント。ただしょっちゅうフランスがスコットランドを焚きつけてイングランドに対峙させていました。クロムウェルの共和政時代にも両者は激しい戦闘をしています。1707年以降も散発的な独立運動がありましたが、徐々におさまっていきました。まだ北海油田もなく貧しかったスコットランドにとって経済的に英国と一体であるメリットは計り知れなかったでしょうし、世界戦争や冷戦の時代には安全保障上も大国英国の一部である意味は大きかったと思います。ウィリアム王子とケイトさんが知りあったのはエジンバラ大学です。数代前のブレア首相もブラウン首相もスコットランド出身です。ブレア首相の時にスコットランド、ウェールズ、北アイルランドに独自の議会が置かれるようになり、自治体の長が「首相」になりました。ブレア首相がスコットランドの独立を志向したわけはないのですが、この時の自治権の拡大が、結果として「寝た子」を起こしてしまったのでしょうか。

[北欧への親近感]

スコットランドだけでなく、イングランド北東部も北欧に対する親近感が強いです。南の隣国フランスよりもよほど近い存在なのでしょう。征服王ウィリアムも元はと言えばヴァイキングですし、北東部は長いことデンマーク系ヴァイキングの支配下でしたから、血のつながりもかなり濃いのでしょう。特に夏には地元のローカル空港から北欧へのチャーター便が多数仕立てられます。食事/ファッションでフランスに対するような劣等感を持たないで済むからと言ったら、英国人からも北欧の人からも叱られそうです。

2014年3月6日
増渕 文規

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