パリ通信(8)「下からみたフランス」フランスのミュージアムは多すぎるか?(1)(Y a-t-il trop de musées en France?)

  • Paris le 14 déc. 2013

パリクラブの皆様

仕事で忙しく、気が付いたらすでに前回から3か月弱経ってしまいました。
フランスでの楽しみは「食べる」、「見る」、「着る」ですが、今回は「見る」の中から私が今こっている美術館を選びました。

綿貫

パリ通信(8)「下からみたフランス」フランスのミュージアムは多すぎるか?(1)
(Y a-t-il trop de musées en France?)

綿貫 健治

パリは求めない人に冷たく、求める人には温かい。実際、自分で行動を起こさないと面白くない都市である。年を取ると求めなくなり、行動も起こしにくくなる。故、私はパリに来る友人には「35歳以上は面倒をみない」、「パリに来るときは何かを求めろ」とアドバイスしている。最初は「冷たい奴だ」と思われたが、今では「あの一言でいろいろなことに挑戦できた」と感謝されている。しかし、パリは選択するものが多すぎることが悩みだ。私自身も昨年からまた、長期間パリに滞在する機会を得たので、自分自身に挑戦を課した。プロジェクトとして美術館を選択し暇があれば美術館に行っている。別に絵を描くわけでもなく、特段美術に詳しいわけでもない。強いて言ってみれば衰えていく「脳の活性化」と今まで仕事でできなかった「人生の忘れ物」を取り戻したかったからだ。

美術館に行くたびに、アンドレ・マルローの「美術館は人間最高の考え方を教えてくれる場所(Le musée est un des lieux qui donnent la plus haute idée de l’homme)」とう言葉を実感している。美術館は不思議なところで世界の歴史、人やものにじか触れることで心を豊かにしてくれある種の達成感を感じさせてくれる。美術館は「自分の生きた時代だけがいい」というような偏見を取り除いてくれるし、いわば「心の栄養剤」みたいなもので年齢を選ばない。頭が活発になり翌日のエネルギーまで湧いてくる。

庭もきれいで人気のあるロダン美術館

庭もきれいで人気のあるロダン美術館

美術館に興味を持ったのは米国での苦い経験があるからだ。20代後半にアメリカ留学(ミネソタ大学大学院)を経験したが、勉強以外はほとんど野球、フットボール、サッカー観戦に費やし、いつもプロ野球のミネソタ・ツインズ、プロフットボールのミネソタ・ヴァイキングズ、ダイガクフットボールのゴーファーズとホッケーのノーススターを応援しにスタジアムに通っていた。ミネソタ大学はイリノイ、ミシガン、ノースウエスタン、ウイスコンシン大学などとともに中西部の「ビッグ・テン・スクール」としてアカデミックとスポーツに優れた有名校であり、ノーベル賞学者、副大統領、駐日米国大使を輩出している実力校である。文化面でも強く有名な歌手のボブ・ディラン、俳優のヘンリー・フォンダ、ジェシカ・ラングなどの母校であり、ミネアポリス美術館、ウオーカーアートセンター、ガスリー劇場、ミネソタ・オーケストラなどは文化人に高い評価を得ている。しかし、当時は全く興味がなかった。

2度目の米国生活は1970年代後半にソニーの駐在員としてニューヨーク(マンハッタン)に駐在した。アメリカに対するあこがれから、昼間は「目が青くなるまでアメリカ人になり切ろう」と猛烈に仕事をし、夜は日本人と日本食をたべ、ウイークエンドはスポーツ観戦や仲のいい友人とゴルフをすることが多かった。仕事でも周りにいた会社の米国人はどちらかというと営業・スポーツ系が多く、ビジネスでの話題は米国人の好きな野球、アメリカンフト、バスケット、ゴルフなどのスポーツの話で済んだ。セールスを兼ねた懇親会などでも家電を売ってくれるディーラーの親父さんたちとはスポーツの話の方が盛り上がった。

しかし、徐々に地元の名士、政治家、弁護士、医者など少し教養の高い人たちと公式な場所で付き合い始めると話題が家族、音楽、絵画、読書などのいわゆる教養的な話になり途端に話に詰まった。そしてある時に教養ありそうな米国人から「日本人ビジネスマンは9時から6時までは優秀だが、6時以降は退屈な人が多い」と言われた。かなりショックだったのを覚えている。要するに勤務中は専門知識やビジネスに精通していて米国人とそん色ないのに、勤務後の食事やパーティの場では話題が限られ教養があり話ができる人は少ないと言われた。

新渡戸稲造がベルギーの法学者に「宗教がなくてどうやって道徳教育をするのか」と言われてショックを受け「武士道」を書き上げたとの話があるが、「文化的教養がなくてどうやって社会的な仕事ができるのか」と言われたような気がした。そこで、すこし話題を広げ教養をつけようと始めたのが美術鑑賞で、そのために家賃を奮発してマンハッタン・アッパーイーストサイドのアパートを借りた。近くには現代美術で有名なグッゲンハイム美術館、ちょっと歩けば世界有数のメトロポリタン・ミュージアムと巨大なセントラルパークも近かった。5番街の82丁目から105丁目は博物館や美術館が10館近くあり「ミュージアム・マイル」と呼ばれていたのでそのような地域に住めたことはラッキーであった。

イースト88丁目のグッゲンハイムは建築家のフランク・ロイド・ライトが設計したカタツムリのような形状でカデンスキー、モンドリアン、ピカソ、シャガールなどの作品を多く持つ現代美術専門の美術館である。82丁目のメトロポリタン・ミュージアムは世界的に有名な美術館でフェルメール、シスレー、アングル、モネ、ゴッホ、ゴーギャンなどのヨーロッパ画家の作品だけでなく日本をはじめ世界の絵画が展示されている。驚くのは両美術館とも私立の美術館で有志の財団によって経営されていて、グッゲンハイムは名前の通りドイツ貴族のコレクションから始まり、メトロポリタンはアメリカ独立記念日を祝うためにパリに集まったアメリカ人の会合の席で決まったというからフランス、ドイツをはじめヨーロッパとの関係が深い。

アメリカでの基礎的な知識をもって次にパリに来たが、パリには大小あらゆる分野の美術館が多く存在し過去の知識はあまり役に立たなかった。マンハッタンのミュージアム・マイルと比べたらパリは「ミュージアム・シティー」で街自身が大きな美術館であることに驚いた。散歩にでれば歴史的な文化遺産にぶっつかるし、オフィスを訪ねれば多くの人が天井の高い、歴史的ファサドをもったビルの中の文化遺産的なオフィスで働いていた。1-2度経済のミッションで当時パリ市長であったシラク氏や地方の政治家のオフィスにお邪魔したことがあるが、まさに歴史と文化の中で仕事をしている印象を受けた。街の風景も絵画にでてくる風景とかわらない。その上、パリ中に広がる美術館の多さにも驚き、会社の人や一般の人と話しても文化のメッカフランスでは「6時以降の教養」が必要とされていることを感じた。

今回、パリに住むようになり、最初はまず健康のためにパリのメインストリートをすべて歩いて制覇する計画を立てた。そのことを友人と話したら、彼は笑いながら「ケン、それは典型的な日本的発想だよ」と言われた。それもそうだと思い美術館めぐりを主にしてついでに通りを散歩することにした。未だに彼が言った「トレ・ジャポネ」という言葉が頭に残っている。フランス人から見れば目的のない散歩は意味がなく、大体「制覇しても何の意味があるのか」と言いたかったのだろう。お蔭さまで、以前は同じ美術館や同じ絵に2度以上行くことはなかったが、今では気に入った美術館、絵にはなんども通えるようになった。過去の絵は将来を見る鏡であり人生の羅針盤にもなり人に根源的な力を与えてくれる。その時代の歴史、人の生き方、感情までが読み取れるような気がする。美術評論家が、「この世界には“眼”の世界と“手”の世界があり、美術は“眼”の世界である」といっていたが当を得ていると思う。自分の人生を振り返ると、今までは手で作ったものを売り、注目してきたが、これからは美術鑑賞を通して自分の眼を鍛え文化的教養を高めたいと思った次第である。

したがって、今回のテーマはフランスの美術館の話である。まず、美術館の定義だが、美術館は歴史的に博物館の一分野として登場した。博物館で絵画以外の芸術品を含み美術を見せることもあるし美術館で博物館的性質をもつものもある。国の博物館発達の歴史による。美術館は「過去・現在の美術品を中心に収集、保存、展示し、それらの教育、普及、研究を行う施設」と定義され、展示を通して人間を教育する「社会的教育」のための文化継承装置である。ただ単に絵画などを見るだけのものでなく人々の教養を高め教育文化を継承する場所である点が大事である。

美術館の歴史は古い。その語源は紀元前の古代ギリシア神話に登場する9人の学術女神ムーサ(Musa)にささげられた神殿ムセイオン(Mouseion,ラテン語でMuseum)に由来する。特にオリエント文化と融合したヘレニズム時代にはアレクサンドリア美術品を含む芸術品を収蔵する総合学術機関でもあった。一方、アテネのアクロポリス巡礼者の休息所兼ギャラリーであった「ピナコテーカ」に飾るために保管された板の絵(ピナス)をムジウム(Musium)の原型という説もある。したがって、美術館でもパリのマドレーヌにある私立美術館のようにピナコテーカの名前がついている美術館も多数存在する。

最初に文化的な意味でミュージアムという言葉を使ったのはイタリア人でフランス人ではない。16世紀のイタリア医者、歴史家、伝記作家パオロ・ジョヴィオが収集した有名人のポートレートや絵画をコモの自宅に展示して、そこを「ムゼオ(Museo)」と呼んだことに始まる。17世紀にはラテン語のミュージアムが一般的になったが、現代のように一般の人に見せる公共的な展示型ミュージアムの原型はイギリスから始まった。イギリスは1688年の名誉革命で立憲君主制が誕生し、いち早く社会の近代化、自由平等、公共性に目覚めた。市民社会で財を成した上層市民階級が美術品や工芸品の収集するようになり、それらのコレクションに歴史学者で財力のあったエリアス・アシュモールのコレクションを足して開館したのが最初の博物館であるオックスフォード大学付属アシュモレアン博物館である。

大英美術館は美術品を一般市民に公開した最初の公共博物館である。公開のために政府は議会で大英博物館法を作り法的および財務的整備を整え、1759年に国王の侍医で同時に王立アカデミー会長で、博物館の公共性を唱えて遺書にも「私のコレクションはすべて公共の人々のために開示すべし」と残したハンス・スローン卿のコレクションを中心に一般向けに公開された。その意味では大英博物館はヨーロッパで「公共性(Public Good)」が実践された初めての博物館であった。明治維新後に近代ヨーロッパを研究に来た岩倉使節団(1871-73)はイギリスに4か月滞在したが、大英博物館を訪問し産業革命の成果だけでなく文化や市民革命の成果を見て驚嘆したと同時に公共性の重要性を学んだのだった。

フランスでは美術品は長い間王室、貴族、教会などの特権階級の楽しみであった。権力者が有名な芸術家を抱えてコレクションを私的な楽しみとし自らの権力と教養を高めていた。その頂点がルーヴルの王宮美術館であった。ルーヴルも時代とともに拡大されギャラリーやカレで「ル・サロン」と呼ばれる宮廷芸術家の展示会が開催されるようになった。そこには画商や特権市民階級が集まり、その中に「百科全書」(1751-72)を編纂したドウニ・ディードロがいた。ディードロは哲学が専門であったが美術評論家でもあり、その先見性からすでに私的サロンを学生、教師、画家の教育の場所として開放すべきことを唱えていた。百科全書派のルソーも「社会契約論」でフランスの新しい形の政治社会の理想を説き、「エミール」で理想的な教育を描きディードロとともにフランス革命へ向かう市民思想に大きな影響を与えていた。

フランスの美術館が発展したのは1789年のフランス革命後のことである。革命でブルボン王朝、高級貴族や教会の美術コレクションが没収され、人権宣言により国民が教育の自由と知る権利を獲得したこともあり、美術館の代表であるルーヴルは国家の「学問と芸術の記念碑的なコレクションの場所」と指定された。ルイ16世が処刑された年の翌年、1793年にルーヴルは内務大臣管轄のもとにおかれ中央芸術博物館として設立された。設立を急いだ裏にはフランス革命や亡命貴族による美術品の流失を防ぐ理由もあった。この年、限られた人たちではあったが、市民のための美術館ということでグランドガラリーとサロンカレで王室や亡命貴族のコレクションが初めて市民や外人にも公開された。その後、ナポレオンの第一帝政時代(1804-14)時代には植民地拡大政策でイタリア、エジプトをはじめ多数の戦利品コレクションが加わり、ナポレオン3世の第二帝政時代(1852-70)には産業革命と植民地政策のさらなる拡大でルーヴルの改装が始まり、ルーヴルとチュルリーがつながりナポレオン中庭が完成した。

パリコミューン(1871)期には一時期チュルリー宮殿の火災事件などがあったが、ルーヴルの近代化は着実に進み、リヴォリ通り側のギャラリーも2倍に拡大されイスラム関係の展示品も増加し、このころから近代的ルーヴルへの展開が始まった。残念なことにパリを訪問していた岩倉使節団は、パリコミューンの混乱期でルーヴルは閉鎖されており図書館は見たがルーヴルは見ていない。第一次世界大戦時のドイツの進駐などで美術品が離散したがその後の努力で復活した。1930年からの再開発計画を経て第2次世界大戦後、ド・ゴールとレジスタンス仲間の文化大臣マルローのコンビによるルーヴルをはじめとするフランス文化遺産の厚い保護政策で美術館は拡大し、ポンピドー、ジスカール・デスタンが美術プロジェクトとして充実させ1981年のフランソワ・ミッテランの「大ルーヴル計画」につながった。

ド・ゴールは偉大な軍人であったが文化はマルロー任せであった。しかし、ミッテランは偉大な政治家でもあり文化人でもあった。天才ジャック・ラングを見出してコンビを組み文化予算も大幅に増やし、パリ近代化のための大規模施設や巨大建築プロジェクト「グラン・プロジェ」を推進した。美術館も力を入れフラッグシップ美術館ルーヴルのさらなる近代化と地方美術館の展開を推進した。1989年にナポレオン中庭に作られたガラスのピラミッド建設はフランス美術界に大議論を呼んだが結果的には大成功であった。

広々と明るいルーヴル・ピラミッド内

広々と明るいルーヴル・ピラミッド内

ミッテランはレーガンの招きで米国を訪れ、中国系アメリカ人建築家イオ・ミン・ペイの作品をラングと一緒にナショナル・ギャラリーで見る機会があり、そこからガラスのピラミッドのヒントを得た。ガラスのピラミッドを実現することによりルーヴル美術館の特色が倍加するとともに、美術館へのアクセスがよくなり、懸案であった大蔵省の引っ越しでリシュリューウイングが拡大しカルーゼルショッピングセンターや駐車場もできて展示スペースと見学客収容力が格段に上がった。ミッテランとラング文化大臣の文化に対する深い理解とイニシアティブ、厚い友情と国家愛、ガラスのピラミッドをめぐる攻防戦はラング著「ルーヴル美術館の戦い」(2013、未来社)が面白く詳しい。ちなみにガラスのピラミッドがあるナポレオン広場の美しい照明は東芝のLED照明が使われており日本の技術が生かされている。究極の美や効果をもとめるためのフランスの国籍を問わない寛容さに感心する。

フランスは「ミュゼオロジー(美術館学)」が発達し、世界に先駆けて美術館の特徴や生い立ちによって分類化を進めた国である。ルーヴルのような百科全書的な総合美術館、オルセー、ポンピドーのような専門的現代美術館、リヨン、ボルドーなどの地方美術館、そしてロダン、ピカソのような個人美術館が出現した。相続税の代わりに物納が許されるようになったためにパリのピナコテーカ、バルザックなど個人や私的美術館も作りやすくなった。美術館の発達のために法律も変えた。法整備を整え1895年には国家コレクションの充実と共同プロモーションのために「国立美術館のネットワーク(RMN)」をつくり、1921年に入場料を有料にしたことで生じた資金的余裕で新しいコレクションの収蔵が可能になった。2002年には美術館を単なる美術品保存装置だけでなく文化民主化政策として平等アクセス、教育普及、質の向上を目的とした「ミュゼ・ド・フランス」ラベルを創出した。

2004年には国立美術館の行政法人化でルーヴル、ヴェルサイユ、オルセー、ギメを独法化し財政的自立と独自企画、購入が許可され美術館全体の活性化につながった。ちなみに、新大陸のアメリカの美術館は、政府ではなく民間の財団基金が、移民教育とコミュニティー形成のために1846年にスミソニアン博物館、1866年にトロポリタン美術館、1870年にボストン美術館などを作った。(以下次号・・・1月半ばに掲載予定)

2013年11月31日

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