【レポート】第50回輝く会「シェ・イノの流儀  名シェフの妻が語る アクシデント連続の回顧録」

昭和の日を祝う4月29日、輝く会は第50回目のイベントを開催いたしました。ゴールデンウィーク只中にもかかわらず30名の皆様が日本橋のポンド―ル・イノにお集まりくださいました。

今回はフランス料理界のレジェンド 井上旭シェフの奥様、みほさんの幸せながらも波乱万丈な人生を楽しく聞かせていただき、井上シェフの愛弟子である柚原賢シェフのフルコースを満喫いただきました。

音楽ライター(シャンソン専門)の十川ジャンマリさん まずは井上みほさんの紹介者である音楽ライター(シャンソン専門)の十川ジャンマリさんの講師紹介から始まりました。「フランス料理に人生の情熱を捧げた亡き井上旭シェフはスーパースターだったが料理とワイン以外のことにはノンシャラン(無頓着)の様で奥様としては大変苦労なさったのではないか。井上シェフの評伝によると彼が愛したものは3つあり、1つ目はシェ・イノの店名のとおり『家』, 2つ目は『お客様』、3つ目は『料理とワイン』。その中には奥様が入っていないのが興味深い(みほさんから妻はいないものとされていたとコメント。私たちも井上シェフにとって奥様は一体化されていたのではと思いました)。偉大な人物の奥様が主役のTVドラマが多々あるが、自分も井上シェフについてもっと研究し執筆することによってみほさんの苦労話を世に出したい」と締め括りました。

井上みほさんにマイクが渡り、いよいよ「名シェフの妻が語る アクシデント連続の回顧録」が始まりました。以降、みほさんのご講演内容を私を主語に要約いたします。

勝負師の妻もまた勝負師

亡き夫とのエピソードの9割はコンプライアンス的に公にできない内容だが、TVドラマの題材になるとしたら半年分は裕にもつほどたくさんある。

井上は2021年11月、75歳で肝硬変のため他界。原因は酒の飲みすぎだった。DRC以外はボルドーの赤ワインしか飲まなかった。肝臓が強かったため75歳まで生きたのはラッキーだった。宵越しのお金は持たない賭け事好きで負けたことを忘れる都合のよい人だった。一言で言えば勝負師。かつて東京オリンピックで世界最高峰の国賓を招待する料理はフランス料理だと気づき、世界一の料理人になるべくヨーロッパをめざす。1966年、鳥取県の家族に畑を売ってもらい、たまたま大当てした競馬で旅費をつくり旅立った。チュ―リッヒに着いたときの所持金は5000円。ドイツ、ベルギー、フランスと足掛け7年修業し多少のお給料をもらいながら宵越しのお金は持たず命の危険に時には晒されながら生活し1971年に帰国。折しもヌーヴェル・キュイジーヌのお蔭でフランス料理がパワーのある時代。様々なレストランでお世話になりながら1984年に自分が100%オーナーのシェ・イノを京橋に開業した。その時の所持金は60万円、銀行からの借金でスタートした。好景気に恵まれ業績はよかった。1995年マノワール・ディノを渋谷にオープン。その時の所持金も60万円。現金はなかったがワインのコレクションは立派だった。このようにずっと勝負をかけてきた人生だったが、ものおじしない性格なのでけんかも多く徹底的に愛されるか嫌われるかのどちらかだった。ミシュランとも大喧嘩をしたことは業界でも有名になった。勝負師と結婚した私自身も勝負師だったのかもしれない。

国際人として活躍した独身時代

井上みほさん 私自身は横浜で育った。父は高度成長期の鉄鋼産業のサラリーマンでこれからの時代には英語が必要と感じ 猛烈に勉強し始めた。家では一日中英語放送が流れていた。ISO(国際規格)のある部門の日本代表になり国際会議などで世界を飛び回っていた。母は女学校時代に音楽をやりたかったがいろいろな事情でできなかったのでピアノを娘に習わせたかった。そこでピアノを買ってもらい4歳から14歳までクラシックを勉強した。譜面どおりに弾くよりも自由に弾き自由に曲をつくりたいというのが自分のスタイルでロックやジャズ、ポップスを聞くようになり独学で勉強した。大学は父の影響で国際人になりたいと思いフランス語が勉強できる大学に入学した。大学時代は学業の傍らミュージシャンとも交流がありバンド活動を積極的にした。夏休みを利用して1か月半フランスへも旅行しロワール地方でワインを覚えて帰ってきた。卒業時、4年生大卒女子を採用する会社はなかったので就職は大変だったが、フランス商工会議所からガボン大使館を紹介された。そこに就職するつもりだったが同じ日に日本ビクターから採用通知がありそちらを選んだ。当時日本ビクターはVHS開発の世界的成功を収めていた。非関税障壁を受け、英国・フランス・西ドイツ、日本ビクターで合弁会社をつくり現地生産をすることになったためその年は求人が多かった。私は日本から送った部品をヨーロッパで組み立てるための窓口担当で、海外出張も多く夢のように忙しく楽しく働いた。フランスの工場はシャブリの一級畑トネールにあった。しかしながら日本の会社では男女雇用均等法がまだ適用されていない時代で40名の女子社員はどんなに努力しても同じ等級のままだった。プラザ合意を受け円高の時期、私は1986年に外資系への転職を決意した。ドイツのダイムラー・ベンツ社の100%日本法人へ就職。本社や他の海外子会社との連携のお蔭で海外出張もあり楽しい日々を過ごしていた。外資系企業の給料は日本企業の3倍もあり、生活に余裕が出てフランス料理を楽しむこともでき主人と出会うことに・・・。

井上シェフとの出会いと人生

ある日、シェ・イノに行き食事を楽しんだ。オーナーシェフがやたら親切で感想を聞かせてほしいと本を3冊貸してくれた。読んだ後、返す日を決めようとしたら食事に誘われた。今はなきホテル西洋銀座だった。だが本のことは彼にとってはどうでもよく次のデートの口実だった。(その本は20年後、ヴァンセーヌの酒井シェフから借りて返していなかったものとわかった)
食事に誘われてデートを重ねるうちに私もレストランビジネスに興味を持つようになりレストランは素敵な商売と徐々に洗脳された。給料のよいベンツで仕事をしながらレストランの手伝いもするようになる。皆が笑顔になる仕事は素敵と思うようになり、この人についていったら幸せになるかはわからないが面白そう、と感じるようになった。
結婚するかの最大の決め手は初子さんだった。初子さんとは鳥取の義母で1週間彼女と2人だけで過ごす機会があり、この人の娘になりたいと思い結婚に踏み切った。

そして店から近い38平米のマンションで奇妙な新婚生活がスタートした。びっくりしたことに井上は個人の銀行口座を持っていない。マンションの家賃などは彼がなんとかしていたものの預金ゼロ。私自身はお金の心配がなかったので諸々の生活費は私の口座から出ていった。主人は巨人が負けたときは不機嫌であったし褒められると舞い上がって詐欺にもかかった。いろいろな人を信じてお金をつぎ込んだ。だから私はメルセデス・ベンツの仕事はやめられない。主人は病院や銀行にもひとりで行けないし掃除洗濯もできない人。家では料理もしない。毎日11時に店に行き、帰宅は夜中の2時。毎晩友だちのレストランや飲みにいって店の近くに住んでいるのに遠回りで帰ってくる。一方、私は京橋の「食の図書館」で料理やワインの勉強をした。

1995年にマノワール・ディノがオープン。 そのときも井上の所持金は60万円しかなかったが、広いレストランで披露宴も開催できるようになり、ようやくシェ・イノから私にも給料がでるようになった。

ベンツに比べたら金額は少なかったけれど、レストラン業の魅力はお金ではない素晴らしい商売と自分を励ましベンツを辞めた。その頃は他にもレストランを開業していたのであちこちに回って仕事をした。楽しいことばかりではなく悔しい思いもした。
相変わらず主人は夜中に帰ってくるので寂しい。その寂しさを紛らわせるために音楽活動を再開することにした。作曲もし、いろいろなミュージシャンと共演。映画や舞台の音楽監修などにも挑戦したがレストランには一年300日出て働いた。友人たちからは私の一日は24時間ではなく30時間ではないか、と言われるほど恐ろしい体力、集中力、精神力だった。

レストランのサービスは自分から発信することはない。クリエイティブな音楽活動は自分にとってバランスがよかった。レストラン業は皆が食事しているときが仕事の時間なので友だちと会えない。音楽活動再開で友人とも会えるようになり寂しさから解放されることになった。だるい朝でもレストランにいくとシャンとする。「気」というものがレストランに存在しているのを感じていた。でも無理がたたって7年前にがんを発症した。手術や化学療法で身体はだるく気分は優れないがレストランでお客様と接すると元気が湧いてきて病を乗り越えることができた。

井上シェフの信念

主人に話を戻すと1984年にシェ・イノをオープンし、40年もの長きにわたり続けることができたのは沢山のお客様のお蔭だが、本人の信念も強かったからではないか。フランス料理に対して、食文化に対して、命に直接かかわる食に対して強い意志を持ちレストランのイメージ像をしっかり確立していた。

「イノウエ ザ ワークス ― 伝統と創造の料理人」という著書があるが、料理長としてのコラムが何十年も正解であり続けている。バイブルとも評価いただいている。しかしながら料理長のわがままに弟子たちも本当に苦労してきたと思う。弟子です!と手を挙げてくださる人たちが全国に沢山おられるがその数倍はやめた人もいる。みんな我慢した。カラオケでは演歌しか歌わなかったが彼の人生は浪花節そのものだったと感じる。シェ・イノは日本一厳しいレストランとも言われたが、今から思うとお客様や弟子に囲まれ幸せに生きたと思う。

そんな彼の一番の師匠はジャン・トロワグロだった。1年しかついていないが一生分学んだそうだ。いくつも選択肢があり迷うときは、「このときジャンだったらどう判断するのか」といつも思って新しい道を切り開いていった。東日本大震災のとき、2か月くらい世の中は自粛ムードだった。お客様が来なくてもレストランは開けている。毎日11時にレストランに行き、コックコートを着て自分用のワインを開け、夜になって友だちのレストランに行ってぐるっと回って帰って来る。負けず嫌いだったが一度だけ弱音を聞いたことがある。帰宅して「もう首くくりたいよ」と。その頃、首をくくりたい人は沢山いたと思う。でもお客様の笑顔が戻ることを願ってずっと続けていくことが彼には重要だった。

有難いことにシェ・イノを100年続けるんだと弟子たちが言ってくださっている。信念を受け継いでくれているのだと思う。主人は順調にお酒を飲み続けたお蔭で肝臓が悪化し2019年、娘と主治医の先生に呼ばれた。「打つ手はない、治療法はないので幸せに死を迎えられるように生活させてあげてください」と言われ私も覚悟を決めた。本人の好きなように生きてもらおう。それまでも好きにしていたけれど。病院食は受けつけない、ワインも飲めない、コロナ期で人にも会えない。そんなことでは気が狂う。
主治医からも「井上さんのわがままに看護師たちの方が先に気が狂ってしまいますよ」とやんわり入院を断られた。

2年4か月の自宅療養となったが私は毎日、井上の行動を記録する日記を書いた。
肝臓の悪化で時間や場所がわからなくなった。波があるので良いときも悪い時もある。「あなた毎日ここにいるけどここに住んでるの?」と言われたときはショックを受けた。しかしながら店にいくとシャンとする。私にとっては自宅介護が肉体的にも精神的にもつらい時があったがひとつだけ幸せだったのは二人だけで過ごすことができたことだった。
二人でソファーに座ってTVを観ている。本人は操作できないのでTVをつけると時代劇になるようにセットしていた。しばし新婚ムードを若干味わうことができた。

主人は亡くなる1週間前までお酒を飲んでいた。だんだん食事もできなくなり亡くなる2日前、ベッドでもがいているので「どうしたの」と聞くと「山に登る」と答えた。出身の鳥取の大山に帰りたかったかもしれない、それが最後の言葉だった。眠っている間に命が消えた。主治医もびっくりした。肝硬変の人は黒ずんで亡くなるそうだが、全くそうではなかった。驚きの生命力! 本人はまだ何かやりたいという気持ちをもったまま夢をみながらあの世に行ったのだと思う。

主人が亡くなって2年半になるが、幸せな気持ちでいれるのは有難い。結婚式はしなかったが大切な方々を招いて披露宴を開催した。最後の新郎の謝辞で「これからの料理業界はどうあるべきか」を語るべく1週間前から準備していた。でもワインを朝から飲んでいるのでテンションがあがり謝辞のころは全部忘れてしまい、「みほちゃんを幸せにします」とだけ言った。本人は翌日にはすっかり忘れているが、私はずっと何十年もそれを覚えていた。それを心のよりどころにし、恋愛、夫婦愛、家族愛、人類愛で生きてきた。

レストランは良きひと時を分かち合う場所なので、皆様にはよい「気」を受け取りそれを置いて行ってもらいたい、と講演を締め括られました。

その後、足立会長の乾杯の挨拶の後、柚原賢シェフによるランチのフルコースをお楽しみいただきました。

食事の様子

メニューは
グリーンアスパラガスとGINGIN銀鮭の炭火焼

グリーンアスパラガスとGINGIN銀鮭の炭火焼

ヒラメとテナガエビと帆立貝のムースのパイ包み焼き アルベール風

ヒラメとテナガエビと帆立貝のムースのパイ包み焼き アルベール風

オーストラリア産 仔羊の炭火焼 エッセンスソース

オーストラリア産 仔羊の炭火焼 エッセンスソース

サヴァラン ~夏みかん~    でした。

サヴァラン ~夏みかん~

最後にコンサートの一幕で歌手がミュージシャンを紹介するように、井上みほさんがミシュランガイド東京2024サービスアワード受賞された尾﨑徹支配人はじめポンド―ル・イノのスタッフをご紹介くださいました。

お食事の様子 スタッフの紹介

またジャンマリさんが今後のみほさんのコンサートの予定をご紹介くださり、みほさんへの花束贈呈で閉会しました。

花束の贈呈

晴天に恵まれ春光がさんさんと注ぐポンド―ル・イノの店内はまさに都会のオアシスでした。オアシスの「気」が溢れる中、参加された皆様が楽しいひと時を分かち合うことでさらによい「気」が生まれ、それがまた次のお客様に受け継がれることを感じられた一日でした。

シェ・イノの流儀がこれからもずっと受け継がれ、みほさんも井上シェフの弟子の皆様に囲まれて音楽家としての人生を謳歌されることを願います。

集合写真

(記録:輝く会実行委員会 森由美子)
(写真:西山志保里・岩間初音・児玉恵美子)