【レポート】第48回輝く会「全国通訳案内士が伝える – 意外と知らない横浜の魅力 実践編」

輝く会では2023年12月10日(日)、フランスにゆかりのある横浜の名所を全国通訳案内士の大森順子さん(パリクラブ理事)の案内で散策いたしました。
コロナ禍に ZOOM で開催し大変好評だった横浜散策を実際に体験したいというご希望が寄せられ、それが実現できたイベントでした。

晴天に恵まれた当日の散策コースは10時に「元町・中華街駅」に集合。 生麦事件のリチャードソンの墓、ジェラールの水屋敷、洋館(内部見学)、旧ゲーテ座、外人墓地、旧イギリス公邸、大佛次郎記念館(内部見学)、旧フランス公邸遺構、パビリオン・バルタールを散策後、中華街にて昼食。 午後はホテル・ニューグランド、山下公園、横浜開港資料館を回り16時頃、解散しました。

イベントのレポートとして大森さんの解説の一部を皆様と共有させていただきます。

1800年頃の横浜

当時の横浜は、横浜村と言われ現在の元町・中華街駅から海に突き出た、細長く横に伸びた何もない浜、横に長~く伸びた浜だから「横浜」だったのです。家屋も40戸ほどで100人程度の住民が農業と漁業を生業として細々と生活していました。

そんな時代の1853年、ペリー提督率いる米国艦隊が浦賀に来航し、「江戸」での会見を要求してきました。慌てた幕府は「応接所」としてこの「横浜」を選んだのは、当時、横浜村は砂浜があるだけの寒村だったため何が起きても被害は少ないと判断してのことでした。

生麦事件

1862年江戸を出発した薩摩藩島津久光公の一行は、東海道沿いの生麦村で馬に乗ったイギリス人四人と遭遇、行列の通行を妨害したとして護衛の薩摩藩士がイギリス人を切りつけたというものです。事件の中心人物であった商人 Charles Richardson はその場でとどめを刺され、残りの二人の男は深手を負わされ、女性一人は、そのままに逃がされました。
イギリスは薩摩藩に厳重に抗議して賠償金を請求しましたが薩摩藩はこれに応じなかったため、翌年の薩英戦争に。薩摩藩が支払いを拒否した賠償金は結局、徳川政府が幕府の予算の1/3に相当する額を払い、一方イギリス・フランスは、自国民保護と居留地の防衛のために駐屯兵を置くことを日本政府に認めさせ、事件は終結しました。

フランス人実業家 Alfred Gérard の功績

1863年に来日した Gérard は最初フランス駐留軍の食料調達を手掛けていましたが、しだいに横浜港に入港する外国客船の食料品・日用品の調達も行うようになりました。そんなある日、山手に湧く良質な湧き水に着目し、外国船舶用に飲料水を製造販売する給水業をはじめます。Gerard の水は船乗りたちの間で「インド洋に行っても腐らない」と評判を呼んだそうです。「ミナト・ヨコハマ」を世界的に有名にした「水」の貯水槽は水屋敷と呼ばれ、下部貯水槽は2001年より登録有形文化財になっています。

ジェラールはその後、日本初の本格的な西洋瓦、レンガ、土管などを製造する工場を設けましたが、横浜でコレラが大流行したため、やむなくフランスに帰国。ランスにある彼の墓所には石の鳥居と、3基の石灯籠が設えられています。日本が本当に好きだったことが偲ばれます。今も残る元町公園プール管理棟の屋根の一部にも、Gerard 瓦が使用されています。

元町公園内その他の見どころ

元町プールは1950年に開園した日本水泳連盟公認の50mプールです。
プールの横を進むと1931年に建てられ現在も活用されている5人立ちの弓道場があります。

遊歩道をさらに上がっていくと、横浜に唯一残された関東大震災前の外国人住宅の遺構が目に入ります。1900年初頭に建てられたと考えられ、現在はその地下部分だけが残っています。

関東大震災

1923年9月1日、関東大震災が起こります。当時フランス大使であったPaul Claudelが外交書簡の中で詳細を語っています。奈良道子が訳した「ポールクローデル外交書簡1921-27」によると、フランス領事館の建物は崩壊し、デジャルダン領事は死亡、生き残ったフランス人は、被災を免れたフランス船「アンドレ・ルボン号」で横浜を離れた、とあります。

横浜・山手西洋館

現在山手に残るほとんどの西洋建築は関東大震災後に建てられたものです。横浜市は山手地域の保存のため、7軒の西洋館を取得し無料で公開しています。 当日はそれぞれのクリスマスの飾りつけを楽しみながら、そのうちの5軒を見学しました。

実際の洋館を予め見学することで、その後、散策したフランス山にある旧フランス領事官邸の遺構の具体的なイメージを掴むことができました。

Bluff ブラフ

外国人は整備された山手の居留地にBluff○○と番号を付けていきました。居留地を広げるにあたり、山の尾根を千葉県から調達した房州石を積み上げて造成しました。石垣は各段に長辺(約80cm)と短辺(約25cm)が交互に並ぶように積む方法で、レンガの「フランドル積み」または「フランス積み」に相当します。横浜山手の特徴的な景観要素になっていることから”ブラフ積み“と呼ばれています。

横浜イギリス館

現在の建物は関東大震災後の1937年に新たに完成したイギリス総領事公邸です。鉄筋コンクリート造のコロニアル・スタイルの建物で、壁の厚さが40cmもある耐震性に優れた建物です。母屋の1階は公用に使用され、2階は領事夫妻がプライベートに使用していました。東側につく付属室は日本人使用人の住居として使用され、床は畳敷きでした。玄関の左側の「GR VI(=6世)1937]と印した紋章がジョージ6世時代に建設されたことを示しています。

大佛次郎記念館(Jiro OSARAGI)(1897-1929)

横浜に生まれた大佛次郎(本名 野尻清彦)は、鎌倉に住みながら終生、生まれ故郷・横浜を愛し続けました。1931年から10年間、ホテル・ニューグランドの一室を仕事場として、横浜を舞台とした「霧笛」や「幻燈」「帰郷」などの名作を執筆、ほかには「鞍馬天狗」「天皇の世紀」の作者としても親しまれています。

東大でフランス法を学ぶかたわら、フランス文学や歴史への関心も深く、パリ・コミューンの通史「パリ燃ゆ」を発表。「フランス」は大佛(おさなぎ)の文学を支えるバックボーンのひとつでした。 大の猫好きとしても知られ、猫について書いた書物は60編以上あり、家にはいつも猫が10匹以上いたそうです。

建物は洋風建築で、配色はフランス国旗の青(ステンドグラス)、白(壁・大理石の床)、赤(レンガ・タイル)を象徴しています。設計者の浦辺鎮太郎は、大佛のフランス好きを考慮して、このような三色旗の色調をデザインに取り入れたそうです。

旧フランス領事館

1875年にフランス軍が撤退したことにより兵舎が不要となったので、海兵隊当局はフランス山の永代借地権をフランス駐日外交代表部に譲渡。1896年にフランス人建築家Paul Sardaの設計で、山手のフランス山のふもとに領事館、フランス山の上の方に領事官邸が完成します。

旧フランス領事館官邸遺構

関東大震災により、領事館・領事官邸ともに倒壊しました。震災後、フランス山ふもとの領事館は複合施設を使用していましたが、山の手の官邸は1930年、スイス人建築家 Max Hinder の設計で再建されました。その官邸も1947年に火災で焼失してしまいます。現存している遺構は、その際に焼け残った一部分です。
建物はコンクリート層の上にレンガ造りの基礎壁をのせたもので、2階、3階部分は木造だったため、1階部分しか残されていません。遺構だけですと、全体像を実感できませんが、当時の写真を見るとかなり大きいことがわかります。

パビリオン・バルタール Pavillon Baltard

そのかつてフランス領事館のあったフランス山のふもとに鉄骨のモニュメントが展示されています。これは、1973年に都市開発のためにオルリー空港近くのランジス(Rungis)に移転するまで、パリ1区の現在のChâtelet-Les Hallesにあったパリ中央市場(レ・アール)の解体された食肉棟の地下鉄骨構造の一部です。設計者 Victor Baltard の名を取ってパビリオン・バルタールと呼ばれていました。

現在 、卵と鶏肉を扱っていた1棟がパリ郊外の Nogent-sur-Marne にイベント会場として復元されていますが残り9棟はすべて鉄くずとして売られてしまいました。パリ再開発のため全て取り壊された際、横浜市が19世紀末の鉄骨建築として貴重な学術的、文化的遺構であることからパリ市当局にその一部の移設を申し入れ、かつてフランス領事館があったこの場所に、復元設置されました。

Les Halles は、日本であれば旧築地市場のようなもので、パリの中心に100年余り存続して、パリ市民の胃袋を満たしてきた卸売市場ですので、年配のフランス人にとっては懐かしい思い出と結びついていることでしょう。

メダリオン

メダリオンは初代フランス領事館跡から発見された建物外壁に取り付けられていた飾りで、フランス共和国République Françaiseのイニシャル“RF”をかたどっています。フランス領事館のメダリオンは幾つも使用されていたとされていますが、今は一つだけしか残っていません。

元町ショッピングストリート

山手居留地に外国人が多く住むようになると、元町通りが山手の住居地と関内の業務地を結ぶ外国人の日常的な通り道になり、それに伴い、外国人を対象に商売を始める人が自然発生的に増えていきました。日本には珍しかった喫茶店やベーカリー、洋服店、花屋、西洋家具店などが軒を連ね、文明開化を支えたのが今の元町商店街の原型となります。

山下公園

山下公園は、横浜を代表する観光スポットですが、関東大震災の時は,がれきの集積所でした。震災の復興事業として、1930年に、捨てられた焼土、がれき、煉瓦などを利用して、海を埋め立て造成し、日本初の臨海都市公園「山下公園」がオープンします。1989年に横浜港130周年記念として開催された「横浜博覧会」に合わせて拡張し、現在の姿になりました。 今でも少し掘ると、がれきが出てくるそうです。

日本郵船 氷川丸

山下公園前に係留されている氷川丸の中にもフランス産の装飾を見ることが出来ます。
氷川丸は1930年にシアトル航路用に建造された、全長163m,1万トン級の貨客船です。太平洋横断254回, 船客数25,000余名の記録を残し1960年に歴史の幕を閉じました。その間、戦時中は病院船、敗戦後は引き揚げ船としても活躍。戦前の日本で建造され、現存する唯一の貨客船であり、重要文化財に指定されています。
船内の一等船客用の社交室や喫煙室ではフランスから直輸入された、照明や階段の手すりなどのアール・デコの装飾を見ることができます。

フランス波止場

フランス波止場は復興されることなく、震災の瓦礫で埋められ、のちに山下公園が整備された時に遺構が発見されました。

インド式の水飲み場

関東大震災の時、横浜に在住し被災した在日インド人を救済した横浜市民への感謝と同胞の慰霊のために在日インド人協会が建立したインド水塔で横浜市認定歴史的建造物です。

横浜開港資料館:旧英国総領事館

231210_event-img_16 波止場のあった「象の鼻パーク」の真ん前に建つのが旧英国総領事館で、現在の「横浜開港資料館」です。
有名な「ぺリーの横浜上陸」(1854年3月8日)の光景を描いたハイネの石版画はこのあたりの様子を描いたものです。ここに描かれている立派な木は、現在も旧領事館中庭にある玉楠の木(たまくすのき)とのことです。横浜大火や関東大震災で元の木は焼けてしまったようですが、再び芽をだして大きくなったものだそうです。

ガス灯は1872年横浜馬車道に初めて点火されました。高島嘉右衛門が、フランス人技師 Henri-Auguste Pélegrin のもたらした技術で設置しました。

まもなく夕暮れ。港が美しいイルミネーションの準備を始めようとしているのを感じながら解散となりました。異国情緒あふれる横浜のノスタルジーに浸りながらフランスと横浜の交流史をじっくり学んだ一日でした。

資料提供:大森順子
参加者の皆様からいただいた写真を掲載させていただきました。