【レポート】第65回Rendez-vous franco-japonais

歴代会長が一堂に

4月25日に日本財団大会議室(港区赤坂)において、第65回Rendez-vous franco-japonaisが開催されました。パリクラブ設立25周年(1993年4月20日に設立総会)を記念する今回のテーマは「パリクラブの過去と未来」。参加者は磯村尚徳氏(初代、現名誉会長)、渡辺昌俊氏(2代目)、池上久雄氏(3代目)、久米五郎太氏(5代目)、瀬藤澄彦氏(6代目)の歴代会長で、残念ながら昨年他界された関本勘次氏(4代目)の姿はなかったものの、宮原英男現会長(7代目)が司会進行役を務めるなか、懐かしいエピソードや貴重な提言が次々と披露され、来場者はパリクラブ25年の歴史に思いを寄せていました。

右から磯村氏、渡辺氏、池上氏、久米氏、瀬藤氏

右から磯村氏、渡辺氏、池上氏、久米氏、瀬藤氏

パリクラブ誕生までの経緯

まずは磯村氏がパリクラブ設立に至る経緯について説明されました。かつて日仏間には貿易摩擦などの諸問題があり、それらを解消するためには両国メディアの相互理解が必要であると考え、磯村氏が中心となり日仏メディア交流協会を設立。また、パリに日本文化を発信することを目的としたパリ日本文化会館がオープンし、磯村氏が館長に任ぜられました。
こうした同時並行的な大きな流れの中で、主に経済人で構成されるパリクラブを発足させることとなったのですが、その背景には、「日本の市場は慣行が多くて入りにくい」との不満を持っていた仏側に対し、パリ在勤者らがレクチャーしようという意味合いもあったそうです。
「この25年の間に、いろいろな意味で日仏関係が深まり、幅も広がりました。こうした状況を踏まえたうえでクラブの25年を振り返らなければ、同窓会的なもので終わってしまいかねませんから」と締め括り、渡辺氏にバトンを渡されました。

司会の宮原氏(右)と磯村氏

司会の宮原氏(右)と磯村氏

旧東京銀行出身の渡辺氏は、日仏関係が非常に厳しい時代に赴任されており、当時の状況について、「ポワティエの戦いをやらされました」と例えられていました。金融業界が閉鎖的だった1980年代、フランスの銀行から声がかかり、思うところあって東銀を辞することに。貿易摩擦が激化するなか、東銀パリ支店長としてフランス側と対峙する立場から、今度は日本側と戦う立場に転じたことで、古巣の東銀からは「脱藩」と揶揄されたそうです。
支店長時代に在仏日本商工会議所の会頭を務めていた実績もあり、移籍後は歴史あるフランス商工会議所の副会頭に推されたのですが、総会で承認を求めたところ、一部から、「反対」の声が上がりました。その理由は、会議所の規約には「会頭、副会頭はフランス人でなければならない」との条項があったから。そのため、1年間は非正規副会頭という肩書きで過ごしましたが、翌年、なんと渡辺氏のために規約が改正されたとのこと。
「1992年は日仏関係がドラマチックに変化した年。EUの前身であるECが誕生し、国境がなくなったことで、日仏摩擦も解消されていきました。進出しようとする日本企業にフランスが厳しい態度を示すと、ドイツやイギリスに行ってしまいますからね」と語り、こうした流れのなかでフランス支援団体であるパリクラブが誕生した経緯を説明されました。

渡辺氏

渡辺氏

このあと、磯村氏から若干の補足がありました。ドラマチックに日仏関係が改善したとの表現を用いた渡辺氏の発言について、「突然変異で関係が改善したわけではなく、水面下では両国政府が交渉を重ね努力していたのです。意図を持った動きでした。私がパリクラブ会長に就任したのは、政府からメディア交流だけではなく、パリクラブでも大将になれと。日本人でもフランス語ができて、ちゃんとしたことが言える人間がいるということをフランス側に示す必要があったのです」と舞台裏の事情を明かし、「経済人でない私が選ばれたのは、中立公正なNHKなら(企業間の調整で波が立たず)差し障りがなかろうという理由で」とジョークで笑いを誘いました。