第16号
フランス語
英国の植民地だったカナダが自治を獲得した19世紀後半頃、ケベックの人々は、2つの人口動態に着目したと言われています。1つは、高出生率です。当時からみた過去2世紀の間に、世界の人口は3倍増、ヨーロッパ人は4倍増したのに対し、フランス系カナダ人はなんと80倍にも増加したそうです。もう1つの着目点は、フランス系カナダ人の米国への流出です。せっかく増大した人口の一部が他国に行ってしまうことが懸念されていました。
その後、他の地域と同様に、ケベックでも工業化が進み、新たな価値観や生活様式が社会に定着していくと、出生率は低下に転じました。このままいくと、当時はカナダ全体で25%超だったフランス系カナダ人の人口は20%を割ってしまう、と懸念されました。ケベック州では、公用語であるフランス語以外の言語は少数派言語と見なされますが、カナダ全体でみると、フランス語は既にかなり少数派であり、更に減少傾向にあります。フランス語を話す人をフランコフォン(francophone)、英語を話す人をアングロフォン(anglophone)、それ以外の言語を話す人をアロフォン(allophone)と呼びます。アロフォンは直訳すると、「異音(を発する人)」という意味です。ケベックにおいて、フランス語を話す地元のフランコフォン住民と、英語を子供に学ばせたいアングロフォンやアロフォンの移民との間でいざこざが起きることもありました。
ケベック州では、1974年に「公用語に関する(ケベック州の)法律第22号」が採択されて、「フランス語はケベック州の公用語である」ことが宣言されました。その中で、「(ケベックの)公共機関は、カナダの他の政府やケベック州の法人とのやり取りのために公用語を用いなければならない」として、公的な立場の機関には、公用語であるフランス語の使用を義務づけました。また、英語は「住民の大半が英語話者である自治体や教育機関の内部のコミュニケーションの言語である」として、英語の使用は限定的に認めるとしました。ケベック出身の当時の首相だったピエール・トルドー氏(現ジャスティン・トルドー首相の父親)は、この法律が(英仏2言語を公用語とする)連邦にとって違憲であるかと、と問われたのに対し、本件に連邦は立ち入らないと、あえて距離を置くの立場を示しました。
フランス語憲章
1977年、ケベック州議会は、法案第101号、別名「フランス語憲章(La Charte de la langue française)」を採択しました。フランス語はケベック州の唯一の公用語であるだけではなく、ケベック人のアイデンティティ的存在です。ケベック市に「フランス語憲章の父(Le père de la langue française)」と呼ばれる人物の胸像が立っています。それは、ケベック州出身の政治家であり心理学者のカミール・ローラン(Camille Laurin)です。学生時代の彼は、公用語のフランス語の他に英語を学び、多数の本を読みあさったそうです。その後、神学校に入りますが、カトリックの聖職者による制約の多い校風に耐えられず、7か月で退学します。その後、モントリオール大学医学部に入学し、トップの成績を収めました。勉強の傍ら、学生新聞の編集長も務めました。卒業後も大学に残り、モントリオール大学医学部の教授、精神科部長などを務めました。
大学での活躍が認められたのか、1967年にルネ・レヴェックが自由党を離党してケベック党を立ち上げた際、ローランは突然、レヴェック党首から執行委員長に使命されました。以後、ローランとレヴェックは親友のように付き合いを始め、1970年に州議会議員選挙に出馬し、当選を果たしました。憲章策定にあたってローランは、「自分の人生の最大の戦い」と言い、ケベック人の自尊心を回復させるための法案を作り始めました。英語新聞では「ドクター NO」と呼ばれる程、英語を否定し、ケベックの完全フランス語化を目指しました。1980年にローランはケベック州の教育大臣に就任しますが、その数年後、政治の世界から身を引き、精神科医に戻り、サクレ・クール病院精神科医長となりました。ローランの胸像のプレートには、彼の言葉が次のように刻まれています。
「フランス語はケベック人の基盤そのものであり、自らを認識し、認識されるための手段であり、存在そのものに根ざし、アイデンティティを表現することを可能にする。」
フランス語憲章は、全ての政府機関、職場、広告等においてフランス語を使用すべきであると規定しています。また例外を除いて、アロフォンの移民の子供はフランス語系の学校に通わせることを義務化する大変厳しいもので、発表当時は大きな反響があったようです。その後修正などがなされ、1979年には、国際的な企業の本社での英語の使用や学校教育について少し柔軟性が認められました。英語の看板についても、フランス語が占める割合を大きくするとの条件下で認められるようになりました。
なお、静かな革命が始まった60年代後半にモントリオールに来た日系人に当時のお話を伺う機会がありました。日本から船でバンクーバーに到着し、そこから大陸横断鉄道に乗り、3日3晩かけて到着したモントリオールでは、ちょうど国際博覧会が開催されていたそうです。公用語法が成立する2年前の1967年のことでした。「あの頃のモントリオールは一番輝いていた」と懐かしそうにおっしゃっていました。フランス語を強制されることに反発するアングロフォンやアロフォンの学生などが反対運動を起こしていたため、当時博士論文を書いていたその方は、大学からの助言に従い、全てのノートや書類を大学に置かずに自宅に持ち帰って保管したそうです。「フランス語警察」と揶揄されて呼ばれた監査員が市内の店舗などに入って、フランス語の使用がなされているか指導が行われたそうです。この方がいつもお世話になっていたとある店では、通常、英語が使われていたようですが、「警察」が来たために、頑張ってフランス語で対応していたところ、その日たまたま自宅から連れてきたオウムが英語を話しはじめたため、「警察」から睨まれた、という笑い話のようなエピソードもありました。現在、新たに仏語使用の強化政策が実施されていることに鑑みても、ケベック政府の方針は昔から今まで一貫していることが分かります。
フランス語憲章は、その後、必要に応じ、フランス語の使用を強化する方向に修正されてきました。1988年、フランス語憲章を改正する(ケベック州)法案第178号が成立します。改正のポイントは、「店舗の外側(道路側)で公衆に向けられる看板、ポスター、広告は、フランス語で書かれなければならない」というものです。ショッピングセンターのような大きな建物の中であっても、通路に向かって掲げられた看板も同様です。また、公共交通機関(バス、電車など)は、店舗ではなくともこの法律が適用されることになります。たとえケベック州がカナダ憲法を批准していないとはいえ、実態上は憲法に拘束されるので、フランス語のみの使用を義務づけるこうした改正法は、英仏を等しく公用語として扱うカナダ憲法との関係で問題がないとは言い切れません。しかし、憲法には、州の法律が違憲と疑われる場合でも、一定の条件下で許容され得る規定があります。この規定を盾にケベック州にのみ通用する(違憲の疑いがある)法律を維持できるかは議論があるところです。いずれにしても、この特例が許容される期間は5年間に限定されています。そういうこともあってか、5年後の1993年には新たに改正法案が提出されています。

Camille Laurin
フランス語使用強化法
2022年6月、フランス語の使用強化に関する新たな法案がケベック州議会で承認されました。第96号法案と呼ばれるそれは、上記の改正を更に強化した内容のもので、2025年6月の完全適用に向けて、既に段階的な適用が始まっています。
この法律に基づくフランス語使用強化政策の主なポイントの1つ目は、ケベック州にある企業の看板は、(フランス語以外の言語で書かれたものについては)フランス語に訳すか、またはフランス語の説明を付す、ということです。例えば、「ケンタッキーフライドチキン(Kentucky Fried Chicken:KFC)」について、ケベック州内に展開している店舗の看板にはフランス語で「Poulet Frit Kentucky:PFK」と書かれています。ドラッグストア・チェーンの「Shoppers Drug Mart」は「Pharmaprix」と完全に別名になっています。パンにソーセージを挟んだホットドッグを売る店の中には、「Chien chaud(シャン・ショ:熱い犬)」と看板を書き換えた店もありました。一方、コーヒーチェーンの「スターバックス」は、店名は変えずに「Starbucks」の前にフランス語で「Café」を付けています。このフランス語の標記は、「顕著に大きく表示」することが要求されています。

Café Starbucks

PFK
2つ目のポイントは、ケベック州内の会社において、社内の連絡や雇用契約書などの文書にフランス語を使用することです。但し、ケベック州外に所在する会社や顧客との連絡は、フランス語である必要はないとされています。また、25人以上の社員を有する州内の会社では、社内にフランス語化(francisation)委員会を設置して、州政府によるフランス語化証明書を取得しなければならないとされています。
3つ目のポイントは、州内の一時滞在者の子女が、英語の公立学校に通う場合、最長3年まで通学が認められますが、4年目以降はフランス語の公立学校に通わなければならない、ということです。私立学校は例外ですが、一般に私立学校の学費は高く、英語の要求水準も高く、またモントリオール以外の都市では、私立の英語学校の選択肢があまりない、といった困難が指摘されています。日本人にとって、英語で暮らすだけでも大変だという方が多いでしょう。加えてフランス語能力が要求されるとどうでしょうか。
また、ケベック州政府は、州内の各企業に監査員を派遣し、社会のフランス語化について検査をすることとなっています。
ケベックの人たちはしばしば、「我々は3億5000万人の英語話者に取り囲まれている」と言って危機感を募らせます。看板1つでも油断すると英語化が進んでしまうと警戒するのです。アロフォンの移民の多くはフランス語よりも英語を選好する傾向があります。そうなると、英語系の州民数が増加します。ケベック州政府は、移民にフランス語教育を施し、フランス語化を進める努力をしています。子女教育で英語学校に通う期間を3年と定めていることについて、ケベック州の仏語担当大臣は、「3年でも長すぎる。しかし、様々な意見を踏まえ、これでも妥協したのだ」と言っていました。
2023年にケベック州の6人の閣僚で構成される「フランス語の未来のための行動グループ」が翌24年4月に、「ケベック州では未来はフランス語で書かれる」と題する成果文書を発表しました。フランス語の衰
退を食い止めるために、今後5年間で6億300万ドルを投じ、様々な措置を採る、という内容です。これに対し、野党は一斉に政府を批判しました。批判の内容は、「州政府の対応は手ぬるい。もっとフランス語化を強化すべき」というものでした。これに対し、ある市民団体は、「州政府は危機感ばかりを煽って、後ろ向きな議論に終始している」と述べた上で、「建設的な議論を行うためには、英語系コミュニティにも参加させるべき」と提案しました。少数派ですが、ケベック州には英語系のコミュニティがいることに、ときおり気づかされます。しかし、モントリオールで地下鉄に乗って気づいたのですが、地下鉄内の放送は、全てフランス語のみです。
フランス語の番人:OQLF
ケベック州におけるフランス語の使用強化を語る上で、無視できない存在が「OQLF」という機関です。正式名「Office québécois de la langue française」で、訳すとケベック州フランス語局になりますが、約400人に及ぶ職員を擁するので、フランス語庁と訳しても良いかもしれません。OQLF が設置されたのは2002年と割と最近ですが、その前身となる組織は、フランス語憲章が制定されるずっと前の1961年から存在していました。政府のフランス語化政策の実施を任務とするOQLF は、まさにフランス語の番人とも言うべき存在です。外国企業などに監査員を派遣するのもこのOQLF です。インターネットで閲覧できるOQLF のサイトでは、英語の単語を入れるとOQLF 認定のフランス語の単語が示されるサービスが活用できます。ちなみに、上記に言及したホットドッグ(hotdog)を検索したところ、「hot-dog」とハイフンが付いた英単語が提示されました。これは流石に訳せなかったのでしょう。しかし、ハイフンを付けることで「英語そのものではない」との示しを付けたのかもしれません。
更に、寿司(sushi)を入れると、「sushi」が出てきます。我らが誇る寿司はそのままでした。しかし例えば「スシバー(sushi bar)」だと「bar à sushi」といったように、フランス語的な表現になっていました。こうした一つ一つのフランス語化作業に携わるOQLF の職員の方々の努力には脱帽です。
ケベック贔屓への反発?!
カナダのように、多文化主義を踏襲すると、逆にカナダを代表する1つの文化というものを形成しづらくなります。米国のように、英語を話すアングロサクソン系が中心の国だと思う人も多いかもしれませんが、英国系カナダ人は全人口の3分の1未満で、フランス系はもっと少ないです。つまり、カナダ国内で中心を占めるような人種や言語グループはいないことになります。しかし、ケベック州だけでみると、州民の70%をフランス系が占めます。従って、ケベック州では、フランス色が圧倒的に強いことが特徴として挙げられます。とはいえ、全体で見ると、少数派のフランス系ケベック人たちのために、連邦がかなり譲歩しているような印象を受ける場合もあります。いや、実際にあります。ケベック州から遙か遠くにある西部の人々は、ケベック州が不当に過度に贔屓されていると不満を表明することがあります。
「自分たちが払う高い税金の一部が、直接関係のないケベック州のために使われなければならないのか。」ケベック州の独立機運が高まっていた頃、西側の人々の中には、ケベック州の独立を支持していた人がかなりいたと言われています。多文化主義を中心に据えた国家運営は、移民政策と共に、大きな課題を抱えていますが、グローバル化を生き延びるために、世界の多くの国が学ばなければならないヒントがあるようにも思われます。
(つづく)