第15号
ケベック・ナショナリズム
ケベックの人たちは、地元の土地のことをしばしば「pays(ペイ)」と呼びます。これは「国」を意味するフランス語ですが、カナダ全土ではなく、あくまでもケベック州のことを指してこう呼んでいるのです。州議会は「assemblée nationale」つまり直訳すると「国民議会」です。ケベックから見たその他のカナダを「ロック(ROC:Rest of Canada)」と呼ぶことがありますが、いかにもケベック的な発想ですね。ケベックを愛し、最優先する考え方を「ケベック・ナショナリズム」と言います。直訳だと「ケベック愛国主義」になりますが、ケベックは州であって国ではないので、「ナショナリズム」と呼ぶことにします。
1967年、カナダ自治獲得100周年を記念して、フランスのドゴール大統領がモントリオールを訪れた際、市役所のバルコニーから「モントリオール万歳! ケベック万歳! 自由なケベック万歳!」と述べたことは、「ケベック・ナショナリズム」を大いに駆り立てました。
フランス・インディアン戦争に勝利し、フランスからカナダ(ヌーベル・フランス)を奪い取った英国は、1763年以降、カトリック信仰を否定し、英国式の統治を進めようと試みます。しかし、当時の総督が「ケベック州は他のどの州とも異なり、特殊であると認める必要がある」と英国本国に警告する程、英国化は困難を極めました。結局、フランス系カナダ人の習慣を維持することが、より現実的な選択肢であると判断され、英国化は撤回され、1774年にケベック州の統治に関する「ケベック法」が採択されました。ケベック法の下では、例えば他の英国植民地では禁止されていたカトリック信仰が認められたり、フランス民法の使用が承認されたりしました。こうして、ケベック州は、英国化されたカナダの他州とは異なり、連邦の一部でありつつも、独自の歩みを進めて今日に至っています。1974年には、「公用語に関する(ケベック州)法律第22号」が採択されて、「フランス語はケベック州の公用語である」ことが宣言されました。
世界の国々で、歴史的経緯や民族的構成を背景に、分離・独立を主張する動きが多数あります。カナダにおいて、ケベック州の独立を問う州民投票が過去に2度行われました。1978年に、連邦政府は、州民投票に関する基本法を採択しました。その翌年の79年12月のクリスマス直前に、ケベックの独立の是非を問う州民投票に関し、ケベックの人々に対し次のような問いかけ文が公表されました。
「ケベック州政府は、人々の平等の原則に基づいて、カナダの他州と新たな協定を締結する案を通知した。この協定は、ケベック州に、自らの法律を作り、税金を徴収し、外交関係を築く独占的な権限、すなわち主権の獲得を許すものであり、同時に、同じ通貨の使用を含む経済的連合をカナダと維持することを許すものである。これらの交渉から生じるいかなる政治的地位の変更も、再度州民投票を行って、人々の承認を得ることなしに実施されることはない。従って、あなたはケベック州政府に対し、ケベック州とカナダの間で提案される協定について交渉する任務を承認するか。ウイ(賛成)またはノン(反対)。」
それから約半年後の1980年5月に州民投票が行われ、58.2%が反対を投じて、独立は否決されました。州民の約6割が、独立ではなく、連邦に留まるべきとの意思表示をしたのです。1982年に、「カナダ憲法」が策定され、国内の10州のうち、ケベック州を除く9州が批准しました。ケベック州の批准を実現するために、連邦政府は新憲法の一部改正などを試みますが、ケベック州は承諾せず、現在に至るまでケベック州はカナダ憲法を批准していません。
1995年10月には2回目の州民投票が実施されました。この時の州民への問いかけ文は、1980年のものよりも簡潔で明快なものでした。
「ケベックの将来に関する法案と1995年6月12日に調印された合意の範囲において、新たな経済的・政治的パートナーシップをカナダに正式に提案した後、ケベック州が主権を持つことを承認するか否か」結果は、50.6%が反対、49.4%が賛成と、僅差で独立はなりませんでした。賛否の差は僅か5万4288票でした。
ケベック州政府は、日本を含む世界20か国に37の代表事務所を開設しています。東京には1973年に設置され、既に半世紀以上が経ちます。ケベック州は主権国家ではないので、大使館ではありませんが、単なる連絡事務所以上の存在感があります。
私は忘れない
ケベック州には標語があります。それは、「Je me souviens」という短い一文です。フランス語で「私は忘れない」という意味です。「私は覚えている」「私は思い出す」とも訳すことができますが、「私は忘れない」がしっくりきます。何を忘れないのでしょうか? どうやってこの標語は決まったのでしょうか?
城壁で囲われ、ユネスコ世界遺産に指定されているケベック旧市街を見下ろすように立つケベック州議会議事堂は、1883年にケベック州政府の認可を得て建設が始まり、1886年に完成しました。これを設計したのは、フランス系カナダ人設計士のタシェ(Eugène-Étienne Taché)です。彼の設計図に製図された議事堂建物の正面玄関の上に州の紋章があります。その下に、タシェは、自ら考案した一文を刻み込みました。これがケベック州の標語として正式に決定されたのは、それから半世紀後の1939年。
タシェ自身は、標語の意味を明確に説明していません。議事堂の周囲には、ケベックに縁のある歴史上の人物の像が24体設置されていますが、まだまだ十分なスペースがあります。タシェの手記によれば、像は彼自身の記憶の一部で、子孫たちが新たな彫像を追加して完成させるための空間なのだそうです。
タシェの意図については、様々な解釈がなされています。歴史家のシャペ(Thomas Chapais)は、「標語はわずか3語のシンプルなものだが、どんなに雄弁な演説よりも価値がある」として、「過去とその教訓、過去とその不幸、過去とその栄光を覚えている」という趣旨であると述べました。州政府の職員だったガニョン(Ernest Gagnon)は、この標語は、「連邦の中の独立した州としての存在意義を見事に要約している」と解釈しました。歴史家のロワ(Pierre-Georges Roy)は、この標語は、「連邦の唯一のフランス領であったカナダの過去、現在、未来を3語で雄弁に物語っている」と説明しました。
また様々な学者が、タシェの言葉の出典を探ろうとしました。民族学者のラフォルト(Conrad Laforte)は、この言葉が「さすらいのカナダ人(Un Canadien errant)」という歌、あるいはヴィクトル・ユーゴーの詩「夕焼け(Lueur au couchant)」に由来すると述べました。「さすらいのカナダ人」の歌詞には、「(もし君が僕の不幸な国に行ったら)友人たちに、彼らのことを覚えていると伝えてくれ(Va dire à mes amis que je me souviens d’eux)」という節があります。ユーゴーの「夕焼け」は、「そして老人たちは言う。忘れない、と。(祖国よ、市民たちの調和よ!)(Et les graves vieillards dire Je me souviens.)」で締めくくられます。いずれも故郷愛溢れる歌詞です。また、この標語が刻まれている議事堂の広間には、「ne obliviscaris(忘れてはならない)」をモットーとしていたローン侯爵(Marquess of Lorne)の紋章があります。そのため、作家で歴史家のデュヴァル(André Duval)は、この標語は、「ローン侯爵の標語の翻訳であると同時に、フランス系カナダ人がこの標語に答えたものである」と解釈しました。
様々な説や解釈がなされていますが、フランス系ケベック人の栄光をいつまでも継承していくものとして、大切にされている標語であることが分かります。カナダの車のナンバープレートは、州毎に登録されますが、1978年以降、ケベック州の全てのナンバープレートにはこの標語「Je me souviens」が刻まれています。ところで、ケベック州の車には、後ろにしかナンパープレートが付いていません。何か重要な意味があるのかと思って調べてみると、州の財政が厳しく、前後に2つのプレートを付けることが困難だったため、後ろだけにしたのだそうです。

ケベック州議会議事堂

車のナンバープレート(下辺に Je me souviens)
静かな革命
ケベック人にとり、ケベックとはカナダそのもの。1763年に統治者がフランスから英国に変わると、フランス系のケベック人たちは、自国にいつつも異邦人であると感じていました。1950年代のケベック州では、カトリック教会が教育や医療を管轄し、経済面では英国系州民が優位に立ち、フランス系州民は二流市民の地位に甘んじていました。フランス系カナダ人たちは、この状況を打開し、「我が家の主人」となるべく、1960年代から経済社会改革に着手します。この動きを、「静かな革命」と呼びます。1960年に自由党政権が誕生すると、カトリックによる社会システムの管理という宗教色をなくし、フランス系州民による経済の実権奪取を目指す活動が始まります。中でも、当時の天然資源大臣のルネ・レヴェック(René Lévesque)が1963年に電力会社を(国有化ならぬ)州有化したことは特筆に値するでしょう。従来の英国系民間電力会社に頼ることなく、州の電力公社「イドロ・ケベック(Hydro Quebec)」による独占経営が行われるようになったのです。また、フランス系州民の企業活動を支援するために、年金機構であるケベック預金投資公庫が設立されました。
1967年、レヴェックは、ケベック州と連邦の関係について、「主権・連合」を唱えました。つまり、ケベック州は独自路線を他から干渉されずに行うという「主権」を有するべきであり、連邦とは経済連携などを通じて「連合」する、という考え方です。しかし、自由党内であまり受け入れられなかったため、レヴェックは自由党を離党し、翌1968年、ケベック州の独立を目標に掲げ、新党「ケベック党」を立ち上げます。1976年にはケベック党が政権奪取し、1980年のケベック州の独立を問う州民投票の実施に向けて歯車が動き出します。州民投票では、ケベック州の独立は4対6で否決されたものの、連邦政府はこの結果を重く受けとめ、当時のトルドー首相(現トルドー首相の父)は、ケベック州の独自性をより柔軟に認める方向で憲法改正交渉を始めます。しかし、ケベック州はその内容に終始満足することはありませんでした。同時に、ケベック州に過度の配慮をする連邦政府の姿勢に対し、他の多くの州が反発します。最終的に、1982年にケベック州を除いた全州が賛成し、新憲法が成立します。
自由党に政権を譲り、下野していたケベック党が1994年に政権に返り咲くと、独立に向けた動きは再加速し、2度目の州民投票を目指すようになります。翌95年にはわずか5万数千票差で再度否決となりましたが、静かな革命が進捗していることを示す結果となりました。
ところで、静かな革命の中で、静かではなかった事案もありました。ケベック主義の活動グループの中には暴力的で破壊行為を行うものもありました。ケベック解放戦線(FLQ)という過激グループが誕生し、1970年10月には、州政府の大臣と英国外交官を誘拐して身代金を要求したり、仲間の政治犯の釈放を要求したりしました。誘拐された大臣が死体で発見されたことは、社会に大きなショックを与えました。こうしたテロ行為は「10月危機」と呼ばれ、そのニュースは世界中で報道されました。こうした過激な思想や言動は、国際社会から批判されただけではなく、ケベック州民からも受け入れられず、その後沈静化しました。静かな革命は、あくまでも静かに。州民たちは、平和理な独立運動を支持しました。
最近の調査結果によると、ケベック州の独立を支持するのは州民の3割強にとどまっています(注)。判断できない人も1割以上いるようです。州内の各政党は、程度の差はあっても与野党を問わず、殆どが独立支持派です。連邦レベルでも、ブロック・ケベコワ党というケベック主義政党があります。静かな革命や独立運動は決して終焉したのではなく、現在も続いていると考えるべきでしょう。独立派のある党の党首は、機会を見つけては、世界ウイグル会議に出席し、またスコットランド、アイルランド、カタルーニャ、台湾、パレスチナを訪問しています。
第1回州民投票が行われた1980年には、静かな革命が始まったときに生まれた子が成人になった頃で、その親の世代が40~50歳の頃。第2回投票の1995年には、それら州民が更に一回り年を重ねたことになります。その頃の独立運動が最高潮に達していたのだとすると、21世紀の最初の四半世紀が経過した現在、そうした世代は第一線から引退し、その子や孫の世代が州の将来を背負う時代に移行したところです。独立に対する見方に変化が現れるのも理解できます。年代別の独立への考え方に関する調査結
果では、60歳以上の高齢者が最も多く独立を支持していますが、若年層になるにつれて支持率は低下しています。
ケベック主義を前面に押し出す政党の関係者と話をすると、彼らは口を揃えて党の究極の目標はケベック州の独立だと言います。個人的には、究極的には独立を目指しつつも、それがすぐに実現できるとは考えておらず、むしろケベック州の独自性をより強く押し出して、連邦政府から特別な待遇を得ることを目指しているようにも思われます。なお、長らく野党の座に甘んじているケベック党は、政権奪取の暁には3度目の州民投票を行うと、いまでも公言しています。
(注)ケベック州の独立に関する世論調査(2024年4月、レジェ社)
賛成:36%、反対:53%、分からない:11%
ケベックの国歌
ケベックは国ではないので国歌はありませんが、それに等しい位にケベックの人々に愛されている歌があります。非公式な国家とも言われているその歌は、ケベック出身のシンガーソングライターのジル・ビニョー(Gilles Vigneault)が1975年に発表した「Gens du Pays」です。これは直訳すると、「この国の人々」となりますが、「ケベック州の人々」つまり「地元の人々」という意味に捉えるべきでしょう。
ジル・ヴィニョーは、1928年10月生まれ。2024年の誕生日で96歳を迎えます。セントローレンス河下流のナタシュカンという町で生まれました。ケベックへの愛着心が強く、教員を目指していた彼は、どういうわけか作曲に目覚めます。1960年代の、まさに静かな革命が始まる頃からは、自らも歌い始めます。そして「国歌」のように愛される「この国の人々」を生み出したのでした。
ジル・ヴィニョーには7人の子供がいます。そのうちの4人、フランソワ(詩人、作詞家)、ギョーム(小説家)、ジェシカ(ピアニスト、歌手)、ベンジャミン(パーカッショニスト)は、父親の才能を受け継いだのか、芸術の道に進みました。
Gens du pays(この国の人々)
Le temps que l’on prend pour se dire: je t’aime
(愛していると言うのに必要な時間は)
C’est le seul qui reste au bout de nos jours
(1日の終わりに残された唯一の時間)
Les voeux que l’on fait les fleurs que l’on seme
(私たちの願いは、私たちが植えた花)
Chacun les récolte en soi-même
(私たち一人ひとりが、自ら刈り取る)
Aux beaux jardin du temps qui court
(短い時間の美しい庭で)
(リフレイン)
Gens du pays c’est votre tour de vous laisser parler d’amour
(この国の人々よ、今度はあなたが愛を語る番です)
Gens du pays c’est votre tour de vous laisser parler d’amour
(地元の人々よ、今度はあなたが愛を語る番です)
Le temps de s’aimer, le jour de le dire
(愛し、それを語る日は)
Fond comme la neige aux doigts du printemps
(春に指先についた雪のように溶ける)
Fêtons de nos joies, fêtons de nos rires
(喜びと笑いを祝おう)
Ces yeux ou nos regards se mirent
(この瞳と互いの視線)
C’est demain que j’avais vingt ans
(明日、私は二十歳になった)
(リフレイン)
Le ruisseau des jours aujourd’hui s’arrête
(日々の流れは今日止まり)
Et forme un étang ou chacun peut voir
(そして誰もが見える池になる)
Comme en un miroir l’amour qu’il reflète
(鏡のように愛が映し出される)
Pour ces coeurs a qui je souhaite
(私が願うこれらの心のために)
Le temps de vivre leurs espoirs
(希望を生きる時間)
(リフレイン)
「この国の人々」は、一度聴くと忘れがたい、不思議な魅力を覚えます。特にリフレインの節が頭の中で繰り返されます。優しく、すこし切ない気持ちになります。ケベックでは、誰かの誕生日を祝うときに、この歌のリフレインの部分を替え歌にして歌うことがしばしばあります。世界的には「Happy birthday to you~」がバースデーソングとしては有名ですが、ケベックの伝統は、地元の歌で祝います。
「Gens du pays(この国の人々よ)」を「Mon cher ami/Ma chère amie(親愛なる友よ)」あるいは人の名前を入れて、「親愛なるジルよ」などと呼びかけ、「c’est votre tour(あなたの番です)」の代わりに「c’est à ton tour(君の番だよ)」と、「あなたの(votre)」から「君の(ton)」に替えて親近感を出します。そして「de vous laisser parler d’amour(愛を語る)」を「de te laisser parler d’amour」と、これも「あなた」を「君」に替えて歌います。
さあ、誕生日ケーキが運ばれてきました。ろうそくに火をともし、友人や家族が歌います。
「親愛なる友よ、今度は君が愛を語る番だよ」
そして、主役が火を吹き消します。
(了)