モンレアル便り

第13号

カナダ発祥(つづき)

(医学、テクノロジー編)

インスリン

インスリンが発見されるまで、医師から糖尿病と診断された患者は、死の宣告を受けた気持ちになっていたことでしょう。1889年、ドイツで、糖尿病には膵臓(すいぞう)の機能が関係することが発表されると、糖尿病の治療に関する研究は一気に加速しました。カナダの薬理学者バンティング(Frederick Banting)は、自分の仮説を実証しようと考え、1920年に、トロント大学の高名な生理学者マクラウド(John Macleod)に、健康な膵臓からインスリンというホルモンを取り出すことを提案します。マクラウドはバンティングに、自分の助手のベスト(Charles Best)と組むよう告げました。このペアは、翌年、インスリンの抽出に成功します。しかし、量産するには純正のインスリンが必要です。そのため、コリップ(James Collip)とモロニー(Peter Moloney)という2人の化学者の手を借ります。そして、完成です。インスリン注射の第1号は、1922年1月、14歳のカナダ人の少年でした。その数か月後、バンティングはトロントに個人診療所を設立し、糖尿病患者の治療を始めます。最初の患者は、米国国務長官ヒューズ(Charles Evans Hughes)の娘のエリザベス(Elizabeth Gossett Hughes)でした。
バンティングとマクラウドは、1923年のノーベル生理学・医学賞を受賞しました。バンティングは、直接研究に関わっていないマクラウドが受賞することに不満だったようで、賞金の半分は、ペアを組んだベストと折半します。すると、マクラウドは、インスリンの改良に貢献したコリップと分け合うとやりかえしました。せっかくの偉業なのに、ちょっと後味が悪いですね。
この話には後日譚があります。研究に携わったバンティング、ベスト、コリップらは、トロント大学学長宛に、連名の書簡を提出します。そこには、医師ではないベストとコリップの名で特許を申請したい、という趣旨が書かれてありました。バンティングは、「医師たるもの、特許などに関わるべきではない。そもそも医学的発見は特許の対象とするべできはない」という高潔な意思の持ち主でした。それでも周囲の説得に押され、バンティング自身を外した2名の名で特許を申請することで落ちついたのです。当然、企業がそこに目を付けます。米国の製薬会社イーライ・リリー(Eli Lilly)社はトロント大学と交渉し、特許が得られれば、製品化し、特許料はトロント大学と共有するなどの話がまとまります。しかし、申請書類に発明者の名前(バンティング)が明記されていないことが問題になります。バンティングはそこに自分の名前を書くことをかたくなに拒否しますが、最後には認めました。それでもプロセスは遅々として進まず、特許獲得まであと一押しが必要、という時に、ある人物が登場します。バンティングが診療所を開設し、最初の患者だったエリザベスの父親のヒューズです。国務長官から最高裁長官にまで出世していた彼は、特許庁長官に対し、娘が劇的に回復したインスリンが特許出願されている、と書き送ります。その後はあっという間に特許が認められたのだそうです。やがて、多くの企業がインスリンを採用し、その特許料がトロント大学とリリー社に入ってきます。トロント大学からバンティング、ベスト、コリップに還元されたのは、僅か1ドルずつだったそうですが、3人のうち不平を漏らした者は1人もいなかったのだとか。

ペースメーカー

心臓の洞房結節に対し、電気による刺激をどのように与えるべきなのか。19世紀から20世紀にかけて、人工的な心臓の鼓動を作るために幾度となく挑戦がなされました。当時、人工的な鼓動が生命を救うなど、夢物語でした。
1940年代なかば、トロント大学のバンティング研究所の64号室を、心臓血管専門医のビグロー(Wilfred Bigelow)とキャラハン(John Carter Callaghan)が訪れました。この研究所は、インスリンを発見したカナダ人医師の功績を讃えてその名を冠したものです。ビグローとキャラハンは、既に心臓外科手術の技術をマスターしていましたが、更にその先を目指していました。心臓が自然停止した後も、鼓動し続けること

を望んでいたのです。医学の力に技術が加わる必要があります。2人は、数々の成果を上げたカナダ人電気技師のホップス(John Alexander Hopps)という人物を見つけました。彼らは、1950年までに、シューズボックスサイズのペースメーカーを組み立てることができました。それが後に、人間の胸の中に納まるサイズにまで縮小されることになるのです。ホップスは、国立研究評議会から特許を拒否され、その間、米国の心臓医学者ゾル(Paul Zoll)がペースメーカーの開発に寄与したとして称賛されることになったのです。それでも、世界初のペースメーカーを作ったのはカナダ人であるとの事実は残りました。

ブラックベリー

ミーティング終了時に、「じゃあ、今日の会議の議事録は後刻、皆さんのブラックベリーに送っておきます」と言って解散するのが合言葉のようになっていた時代がありました。「ブラックベリー(BlackBerry)」とは、携帯電話(今でいうガラケー)がまだ全盛期だった頃、スマートフォンの先駆けとして現れた真っ黒な手のひらサイズの端末です。本体の上半分は液晶、下半分にはびっしりとキーボードが並んでいます。キーがイチゴの種子の形に似ていたのが名前の由来です。「ブラックベリーで連絡をとる」と英語で言う際、「BlackBerry」がそのまま動詞として使われていたこともありました。
1984年、カナダ人のラザリディス(Mike Lazaridis)とその友人のフレギン(Douglas Fregin)には、ソフトウェア開発とコンピューター科学の将来に向けて大きな計画を立てました。それを実現するために、リサーチ・イン・モーション(RIM)社というコンサルタント会社を共同で立ち上げます。4年後の1988年には、同社を北米初の無線データ転送システム管理会社に転身させます。このコンビに、ハーバードビジネススクール出身のカナダ人のバルシリ(Jim Balsillie)が共同設立者兼共同CEOとして加わります。バルシリは、会社の目標を実現したいがために、自宅を抵当に入れるまでして資金を工面し、この事業に参加したのです。その後、1996年に、通信端末の最初のモデルである「RIM Inter@ctive Pager 900」を世に出しました。そのスタイルや機能など全てが業界初の斬新なデバイスでした。それから改良が重ねられ、2002年に、最初のブラックベリーのスマートフォンが発売されました。
2011年、カナダ郵便局はカナダの発明についての記念切手を発売しました。その中の1つに、先述のペースメーカーと共に、ブラックベリーも選ばれました。首都オタワにあるカナダ歴史博物館にその4枚が展示されています。

カナダの4大発明の切手

カナダの4大発明の切手:カナダ歴史博物館の展示より

電話

モントリオールのアイスホッケーチーム「カナディアンズ」の本拠地であるベル・センターのベルは、カナダの主要通信会社の1つである「ベル・カナダ(Bell Canada)」に因んで名付けられました。ベル・カナダ創業は1880年。当時は「The Bell Telephone Company of Canada」と呼ばれる電話会社でした。創業者は、電

話を発明した、アレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell)です。彼はカナダに住んでいたことがあり、当時の自宅だったカナダと米国を行ったり来たりしながら電話システムの開発を行ったのでした。
1847年にスコットランドで生まれたベルの父は弁論の専門家、母親と妻が聴覚障害者という環境の中で、ベル自身は音響学を学び、聴覚機器の実験を始めます。電気で音声を伝送する実験から1876年の電話の発明に行き着きます。ベルは生まれたときはアレクサンダーと名付けられ、ミドルネームは持っていませんでしたが、父親の友人に、アレクサンダー・グラハムというカナダ人がいたことから、それに因んで「グラハム」がミドルネームとして与えられたそうです。父親が療養のためにカナダのニューファンドランドに向かう頃から、一家はカナダへの移住を計画します。1870年、23歳のベルは、ケベック市から列車に乗ってモントリオール経由でオンタリオ州のパリという町に到着します。
1873年には米国のボストン大学で発声と弁論術の教鞭を執り、オンタリオの自宅とボストンの職場を往復しながら研究を続けます。1875年にアコースティック・テレグラフと呼んだ機器を開発し、特許申請を行い、起業します。これが後の「AT&T」になります。1876年に米国の特許を得た3日後に、電話の実験を行います。最初にベルが話した言葉は「ワトソン君、用事があるので来てくれないか(Mr. Watson! Come here, I want to see you!)」でした。

(グルメ編)

モントリオールのガイドブックでは、プティーン(poutine)やスモークミートがご当地メニューとして、またカナダの国獣ビーバーの尻尾をかたどった「ビーバーテイルズ」が紹介されています。確かにこれらは当地で人気のメニューで、カナダ発祥です。プティーンは、フライドポテトにチーズとグレービーソースをかけたもの。スモークミートは牛の肩バラ肉をスパイスに漬け込んでからスモークしたものです。いずれもたっぷりの量で塩気もあり、ビールやワインが進みます。ビーバーの尻尾は、平べったい形のドーナツにシナモンシュガーやチョコレートスプレッドをたっぷり塗り、更に甘いお菓子をトッピングするなど、実に100以上のバリエーションがあるそうです。このスイートだけのために、年間44.5トンもの重量のヘーゼルナッツスプレッドが消費されるそうです。ダイエットをしている人には、いずれも非常に危険なメニューですね(笑)。

ピーナッツバター

カナダ人の91%がピーナッツバターを食べていると言われています。1849年にケベック州ベッドフォードで生まれた化学者エドソン(Marcellus Gilmore Edson)について、その生い立ちや経歴を知る者はほとんどいません。妻と3人の息子と一緒にモントリオールに暮らし、薬屋を営んでいた彼を有名にしたのは、1884年にピーナッツペーストの製造特許を取得し、「ピーナッツ・キャンディ」と名付けたことです。これが、現在市販されているピーナッツ・バターやピーナッツ・スプレッドの先駆けとなったのです。
私たちが知っているピーナッツバターが誕生したのは、米国の医師で栄養学者だったケロッグ(John Harvey Kellogg)がシリアルで有名なケロッグ社を1906年に設立してからです。ピーナッツバターやスプレッドをケロッグ社が売り出し、それに続け、と世界各社が製造・販売するようになりました。その第一歩となったのが、エドソンの特許だったのです。

ジンジャーエール

「カナダドライ」という商品名をご存じであれば察しがつくかもしれませんが、ジンジャーエールはカナダ発祥です。日本でもおなじみの生姜味ソーダの歴史は19世紀終盤にまで遡ります。1865年、オンタリオ州のエニスキレン近郊で5人兄弟の長男として生まれたマクラフリン(John James McLaughlin)は、子供の頃、名前はジョンなのに、なぜかジャックと呼ばれていました。ジャックは、イケメンで頭が良く、ユーモアに溢れていたそうです。成績優秀だった彼は、医者になることを夢見ますが、結局はトロントのオンタリオ薬科

大学で薬学を専攻します。1855年、優秀な成績で卒業後、更に研究をするため、ニューヨークのブルックリンに行き、大学院に進みます。
ジャックがブルックリンにいた5年間の期間、ドクターペッパー(1885年)やコカコーラ(1886年)といったフレーバーソーダのブランドが誕生し、人気を博していました。ジャックは、ブルックリンの薬局でアルバイトをしながら、ミネラルウォーターやソーダに興味を持つようになりました。当時、炭酸飲料には健康効果があると考えられていました。慢性的な咳を伴う結核を患っていたジャックは、魚から採った肝油の治療薬よりも、フレーバー付きのシロップと混ぜた炭酸水の方が、よほど飲みやすい治療法になると考えました。
ヨーロッパで飲料業界を研究し、1890年、トロントで自身の名前を付けた会社「J.J. McLaughlin Limited Manufacturing Chemists」を設立。これは、ドラッグストア向けに、蒸留水やフルーツジュースのソーダファウンテン(炭酸飲料サーバーのような機器)などを製造・販売する会社でした。その後、生産拠点を拡大し、ハイジア・ウォーターズ(Hygeia Waters)というブランド名で炭酸水を販売し、化学的な純度、医療用としての適性を強調し、痛風やリウマチの治療に役立つことなどを宣伝しました。
肝心のジンジャーエール「カナダ・ドライ」の開発には14年もの年月を費やします。初期のハイジア・ジンジャーエールはそこそこの人気を博し、喉の薬というよりは美味しい飲み物だとして新聞でも取り上げられました。彼は、シャンパンのような発泡性と軽やかさを持つジンジャーエールを完成させたいと考え、1904年に、「カナダドライ ペール・ジンジャーエール(Canada Dry Pale Ginger Ale)」という糖分控え目のジンジャーエールを発売しました。翌1905年10月に、商標を出願します。その年のカナダ全国博覧会にも出品されました。トロントの新聞は、「喉が渇いたカナダ人が長い間待ち望んでいた飲料を発見。このエールは、マイルドでありながらビリッとした風味があり、非常に心地よく、消化器官を刺激する効果もあるため、最高の人気商品となっている」と評価しました。
彼は、ビジネスでは大成功でしたが、持病の結核は治らず、1914年にトロントの自宅で心臓発作のため亡くなりしました。その後、1920年から米国で始まった禁酒法の時代にも、ジンジャーエールは代替飲料として大活躍だったそうです。ちなみに、私がモントリオールに来てすぐに、コーヒーチェーン店のカウンターでジンジャーエールを注文したら、「そんなものはない」と断られました。では何があるのかと尋ねたら、「カナダドライならある」と。なーんだ、そのように注文するべきだったのですね。

ハワイアンピザ

トルドー首相も大好きというハワイアンピザは、1962年にオンタリオ州のチャタムにあるレストラン「サテライト(Satellite Restaurant)」で作られたのが始まりと言われています。サテライト・レストランは、「ハワイパンピザ発祥(Home of the Hawaiian Pizza)」と宣伝しています。「真冬には極寒となるカナダでなぜハワイ?」と思われるでしょうが、発想は自由です。ハムとパイナップルの具材を使ったピザのアイデアは、このレストランのオーナーであるパノプロス(Sam Panopoulos)が、ピザの本場とされるイタリアのナポリを旅したことで思いついたと言われています。ナポリで創意工夫に溢れた数々の料理を見て、「世界は発明を求めている」と感化されたのだそうです。北米では、1950年代末から60年代初頭にかけて、オセアニア文化のティキ文化(Tiki culture)の人気が高まっていたので、その流行に乗って、パノプロスはプレーンのピザにハムと缶詰のパイナップルを乗っけてみました。これでハワイアンピザは誕生ですが、ピザ愛好家の間では、「ご馳走か、それとも悪ふざけか」を巡り議論が噴出だったそうです。

2017年に、アイスランドの大統領が地元のある少年から、「ピザのトッピングとしてパイナップルはどう思うか」という無邪気な質問を受けました。大統領は、「もし私に権限があるなら、ハワイアンピザを禁止する法律を通すだろう」と答えたそうです。もちろんこれはジョークで、その直後に大統領はSNSでそのような権限は自分にはないし、持つべきでもないと否定しました。そして、「でもピザならシーフードをお薦めする」と付け加えました。これに対し、カナダのトルドー首相もジョークで応えます。ロンドンにあるアイスランド大使館にハワイアンパイをお届けしたそうです。
いずれにせよ、パノプロスがナポリではなく、本当にハワイに行っていたら、このアイデアは生まれなかったかもしれませんね。

カリフォルニアロール

これは名前のとおりカリフォルニア発でしょう、と思われるかもしれませんが、カナダなんです。ロサンジェルス、という説もありますが。カリフォルニアロールとは、カニ(またはカニ棒)、アボカド、キュウリが入った裏巻き寿司のことです。外側のシャリには、煎り胡麻やトビッコがまぶされていることもあります。カリフォルニアロールという名前は、具材のカニ(crab)とアボカド(avocado)の頭文字(C、A)が、カリフォルニア州の略称(CA)と同じだから、という説があります。この「インサイドアウト(ひっくり返った)」ロールが北米に寿司を広めるきっかけになったことは間違いありません。
日本からバンクーバーに移住したトージョー(Hidekazu Tojo)は、1971年に寿司レストランを開店します。今と違って、当時のカナダ人にとって、日本食材の生魚や海苔は異質なものでした。トージョーは、地元民に馴染みのない食材をなるべく避けたり、見えないよう隠したりしながら、地元の感性に寿司をアピールしようと努力しました。そうしてできたのがカリフォルニア・ロールです。生魚ではなく、地元の人々に馴染みのある食材を使い、海苔は内側に巻き込んで存在感を消し、見た目に面白くエキゾチックなこの和食は人気メニューとなりました。カリフォルニア以外にも、レインボー(マグロ、ブリ、エビ、サーモン、アボカド)、スパイダー(パン粉をつけたカニ、キュウリ、アボカド、大根)なども誕生しました。2016年、日本政府(農林水産省)は、トージョーを和食親善大使に任命しました。

ロンドンフォグ

ハワイ、カリフォルニアと来て、次はロンドンです。英国の首都ロンドンは、「霧の都(foggy city)」とも呼ばれます。曇天に小雨、霧が周囲を覆う。まさに霧の都はロンドンの寒い季節の情景にぴったりだ、と思う人もいるでしょう。しかし、この霧というのは、実際には、19世紀から20世紀なかばまでの大気汚染によるものだったと言われています。
さて、霧の都ロンドンに因んだ飲み物があります。ロンドンの霧を意味するロンドンフォグ(London Fog)は、アールグレイの紅茶にスチームミルクと甘味料(蜂蜜など)を入れた紅茶ベースのホットドリンクです。1994年に、カナダのバンクーバーで、妊娠中のロリア(Mary Loria)が良く通っていた「蕎麦カフェ(Buckwheat Café)」という名のカフェで、妊婦にも優しい飲み物を、ということで、少し甘くて優しいドリンクを考案。これが流行し、他の店にも広まっていったのだそうです。しかし、ロリアがロンドンフォグと名付けた訳ではなく、いつのまにかそう呼ばれるようになったのだとか。
モントリオールのカフェで、「ペルシャン・フォグ(Persian Fog)」というペルシャ風にアレンジされた飲み物をいただいたことがあります。これは、イランの紅茶にスチームミルク、サフランシロップを入れ、ふんわりとしたミルクの表面に粉になったピスタチオが振りかけてありました。他にも、色々とアレンジされた「○○フォグ」が出てきそうですね。

ロンドンフォグのペルシャ版「ペルシャン・フォグ」

ロンドンフォグのペルシャ版「ペルシャン・フォグ」

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