第12号
カナダ発祥
意外と知られていないカナダ発祥のモノが、調べて見ると色々とあります。以下、主なものを集めました。
もちろん、いくつかのものについては諸説あるのですが、私のカナダ贔屓目線からまとめてみました。
(スポーツ編)
ラクロス
ラクロス(lacrosse)は、直径6cmの硬質ゴム製のボールを、クロス(crosse)と呼ばれる先に網のついたスティックを使って奪い合い、相手のゴールに入れることで、得点を競う球技です。その昔、先住民は、若者戦士の通過儀式や、部族間の争いの仲裁や、神への感謝の儀式としてこの球技を行ったと言われています。その当時、ラクロスは、Baggataway やTewaarathon などと呼ばれていたそうですが、呼び方は先住民のグループによって異なっていました。参加プレーヤーは100人を超え、コートは何kmにも及ぶ果てしない空間で行っていたようです。「ラクロス」というネーミングは、フランス人が入植し、この儀式を見たとき、先住民たちが使っていたスティックが、宗教儀式に使われる杖(crosse)に似ていることから(定冠詞の la が一緒になって)「lacrosse」になったというのが有力説です。先住民がラクロスの試合を行う前には、宗教的なお清めの儀式が行われるのだそうです。
1859年には、先住民もヨーロッパ入植者もラクロスを楽しむようになり、カナダの国技と呼ばれ、今日に至ります。日本の学校のクラブ活動でも人気が出てきたラクロス、起源がカナダだったこと、部員の皆さんはご存じでしょうか。
カナディアン・フットボール
ヨーロッパで「フットボール」というと、まず「サッカー」を意味しますが、北米だと通常「アメリカン・フットボール」を示します。カナダには「カナディアン・フットボール」があります。日本ではあまり馴染みがないかもしれませんが、プロリーグ「カナディアン・フットボール・リーグ(CFL)」があります。CFL は、カナダ全土を東西に2分し、それぞれのディビジョンで試合を行い、勝者同士が対決し、優勝チームには優勝カップ「グレイ・カップ(Grey Cup)」が渡されます。カップの名前は、CFL 創設時のカナダ総督であったアルバート・グレイ伯爵に因んで付けられました。
1874年に、米国のハーバード大学とカナダのマギル大学がフットボールの試合をしました。この時、それぞれの大学で異なるルールを採用していたため、それぞれのルールに則った試合が行われました。ハーバード大学は11人制でサッカーボールを使いました。それを見たある人は「インチキだらけのサッカーみたい」と言ったそうです。一方のマギル大学は13人制で楕円球を蹴ったり、投げたり、持って走ったりと、今のフットボールによく似たものでした。カナダのフットボールは、モントリオールの英国陸軍駐屯地で行われていたラグビーが発展したものです。アメリカン・フットボールにも大きな影響を与えたと言えるでしょう。
現在のカナディアン・フットボールは、1チームの人数(12人、アメリカンは11人)や両ゴールラインの間の距離(110ヤード、アメリカンは100ヤード)、それにルールの一部がアメリカンと少し異なります。
バスケットボール
バスケットボールと言えば、最近はNBA で活躍する日本人選手もいて、いかにも米国、というイメージがありますね。確かに、最初にバスケットボールの試合が行われたのは、1891年12月、米国のマサチューセツにあるスプリングフィールド・カレッジにおいてでした。しかし、このスポーツを考案したのは、カナダ出身のネイスミス(James Naismith)という体育教師です。彼は、1861年にオンタリオ州オールモントでスコットランド移民の家族の長男として誕生。1870年に両親を腸チフスで亡くすと、姉や弟と共に叔父の家に引き取られました。子供の頃から外で遊ぶのが大好きで、「岩の上のアヒル(duck on a rock)」という遊びに夢中でした。これは、「アヒル(duck)」と呼ぶ大きな石を木の切り株の上に置いて、それ目がけて石を投げてアヒルを切り株から落す遊びです。それをさせないように、一人が切り株の前に立ちはだかって邪魔をします。2006年に、ネイスミスの孫娘が発見した祖父の手記には、この遊びがバスケットボールの着想に役立ったことが書かれてありました。
ネイスミスは、モントリオールのマギル大学でラクロス、フットボール、ラグビー、サッカー及び体操と、マルチプレーヤーのアスリート振りを発揮します。卒業後はマギル大学で体育の教師を務めますが、単に運動を教えるよりも、スポーツに影響を及ぼすことができないかと考えるようになります。1891年に米国マサチューセツのYMCA でフィジカル担当部長を務めていた時、冬の時期に体育館の中でできるスポーツを考案します。サッカーやラグビーのような激しい肉体のぶつかり合いを避け、技術の向上を目指す球技のルールを作り始めます。ゴールのバスケットは、桃を入れるカゴ(basket)で代用です。これがこのスポーツのネーミングの由来です。YMCA でトレーニングを受けていた18人の学生を2つに分けて、9人制のゲームが行われました。その中に、日本からの留学生だった石川源三郎がおり、試合の様子をスケッチで残しています。石川氏は米国留学中に知り合ったカナダ人女性メアリと結婚し(第一次大戦中に離散)、実業家として活躍します。
ネイスミスは1936年に死去するまでの41年間、米国カンサス州のローレンスに住み続けました。
アイスホッケー
ホッケーにはアイスホッケーとフィールド(グラス)ホッケーがありますが、カナダで「ホッケー」というと100%アイスホッケーです。国民的スポーツで、熱狂的なファンが大勢います。私が毎朝購読している地元紙の「正しい読み方」は、まず新聞をひっくり返し、最後のページから読み始めます。なぜなら、最後の見開き2ページに、前日のアイスホッケーの結果が写真入りで大きく報じられているからです。朝のTV ニュースでも、地元チームの試合について、おなじみの解説者が熱っぽく語ります。
アイスホッケーの起源については、さまざまな説があり、16世紀のオランダの絵画に似たようなスポーツをしている風景が描かれています。スコットランドやアイルランドに昔からあったスポーツが起源だとする説もあります。他にも、英国、米国、カナダなど様々な国が候補に挙がります。1763年のフレンチ・インディアン戦争でフランスに勝利した英国の兵士たちが、フランスから奪い取ったカナダの氷結した河や湖の上で、フィールドホッケーとラクロスを合わせたような競技を行ったのが起源という説もあります。
近代的なアイスホッケーの始まりについては、モントリオール、ノバスコシア、キングストンなど、カナダ東部の幾つかの都市名が挙がります。モントリオールでは、1875年に最初の屋内試合が行われました。モントリオールのチームは通称「カナディアンズ」の名で親しまれています。試合(大抵は夕方)がある日の午後になると、モントリオール市内を歩くファンの多くがチームロゴのC とH が合わさったジャージを着ています。それを見ると、「今日はカナディアンズの試合があるのだな」と分かります。カナディアンズは、「Canadiens」と標記します。よく見ると、英語のCanadians ではなく、フランス語標記です(-diens)。フランス語だと末尾の「s」は発音しないので、「カナディアン」と発音します。
1909年、カナダで全国ホッケー・リーグ(National Hockey League(NHL))が開催され、「オリジナル6」と呼ばれる6つのチームでリーグ戦が行われました。カナディアンズはそのうちの1つで、現存する唯一のチームです。但し、当時のチーム名は、「クラブ・ド・オッケー・カナディアン(Club de Hockey Canadien)」(フランス語でカナダ・ホッケー・クラブ)でした。フランス語では「H」は発音しないので、ホッケーはオッケーとなります。チームロゴのC とH は、このときの名残りです。
カナディアンズの本拠地である「ベルセンター(Centre Bell)」は、モントリオール中心地にあり、カナディアンズの試合の日にはすごい人だかりができます。ベルセンターの開業は1996年で、当時はモルソン・センターと呼ばれていました。2002年にケベック州に本社を置く通信会社ベル・カナダが命名権を取得してからベルセンターになりました。ホッケー以外にも、コンサートなどのイベント会場として利用されています。氷上の格闘技と言われる程、激しい体のぶつかり合いが大迫力です。また、お決まりと言っても良いくらいに、試合中に選手同士が殴り合いのけんかを始めたりもします。

アイスホッケーの試合(左)

「カナディアンズ」の本拠地「ベルセンター」(右)
キンボール
ケベック州政府の東京事務所のSNS で、「キンボールがケベック生まれだと知っていましたか?」という投稿がありました。初めて聞いた名前のスポーツに興味を覚えて、投稿記事を読みました。2024年2月4日に、日本におけるキンボールの15周年記念大会が開催され、日本全国から選手が集ったそうです。世界には国際キンボール連盟、日本には日本キンボールスポーツ連盟があり、サッカーなどの球技と同様、ワールドカップやアジアカップが開催されていることも初めて知りました。
そもそも「キンボール(KIN-BALL sport)」とはどういったスポーツでしょうか。
キンボールの「KIN」は、英語の「運動感覚(kinesthesis)」の頭文字からとったものだそうです。つまり、運動の感覚を楽しむスポーツです。
キンボール創案者のドゥメール(Mario Demers)は、1982年にモントリオール大学体育学部を卒業後、体育教師をしていました。若者たちの無気力感に危機感を抱き、スポーツによって、感動の共有や協調性を高めることができないか、と考えました。1986年に彼はキンボールを考案し、その年にケベック州で、政府公認のキンボール連盟が設立されました。その後、北米の多くの学校で採用され、世界に拡大しています。現在は世界に500万人以上の愛好家がいるそうです。
試合は、1チーム4人(3人の場合もある)で、男女の組み合わせはオープン。巨大なボールを使い、ネットのないバレーボールのような感じで、1チームがサーブをして、相手チームがボールを(レシーブではなく)キャッチできれば、今度はそのチームがサーブし、相手がキャッチを試みる、といったように、ボールが床に触れないように、サーブとキャッチを繰り返していきます。試合時間は12分で3ピリオド行われます。確かに、チームの息が合っていないとうまく試合が進まないようにできていますね。

キンボールの試合の様子(ケベック州政府在日事務所SNS より)
レンタサイクルは大人気
モントリオール市内では、通勤、通学、スポーツやレジャーなどで自転車を活用する人を多く見かけます。町中ではレンタサイクルが大人気です。モントリオール市は、2009年に、北米初の大規模自転車共有システム「ビクシー(BIXI)」を考案しました。タクシーのように使える自転車というコンセプトで、「Bicycle」と「Taxi」を組み合わせた造語「BIXI」が公募によって採用されました。専用の駐輪場が市内各地に設置され、使用時間に応じた料金システムにより誰でも利用可能です。モントリオール発祥の「ビクシー」は、北米の各主要都市のほか、英国のロンドンや豪州のメルボルンにも導入されているそうです。以前は雪が積もる冬季は撤去されていましたが、2024年からは年間を通じて設置されることになりました。たまたま2023年から24年にかけての冬が暖冬だったこともあってか、ビクシー利用者は増加したそうです。

ビクシー(BIXI)
(その他)
時間帯(タイムゾーン)
カナダには6つの時間帯があります。国土は5つのゾーンに分けられ、それぞれ1時間ずつ時差があります。更に、ニューファンドランド島のセントジョンズを中心に30分の時差が設けられ、合計で6つのゾーンとなります。1時間ではなく、30分のゾーンがあるカナダは特殊な例ですが、他の地域にもこうした例外はあります。さすが世界第2位の国土を誇るカナダらしく、1か国でこれほどの時差がある国は珍しいでしょう。
ちなみに、カナダよりも国土が広いロシアには11の時間帯があり、東西の両端では10時間の時差があります。
時間帯として基準になるのは、グリニッジ標準時(GMT)です。1847年に、英国の鉄道関係機関で導入され、英国全土で採用されます。1880年には、英国(グレートブリテン島)でGMT が法的に採用されることになりました。1884年に開催された国際子午線会議では、経緯0度とされたグリニッジ子午線からの経度を計算するため、計測器をGMT に合わせました。GMT を基準として、経度毎に各国の標準時が決められるのですが、これに貢献したのは1人のカナダ人でした。
その人物とは、フレミング(Sandford Flemming)という鉄道建設技師です。1827年にスコットランドで生まれ、1845年にカナダに移住。オンタリオ州の鉄道公社の技術スタッフとなり、その後、技師長に昇進します。1863年に、カナダ政府は彼をケベック市からハリファックスなどを通るインターコロニアル鉄道の測量主任に任命しました。彼は、大陸横断の全英鉄道(当時)の実現を強く支持します。その情熱は、入植者の嘆願書を集め、英国政府に鉄道建設を要請したほどでした。少し時間はかかりましたが、熱意が通じたのか、1871年にフレミングは、モントリオールから太平洋岸に至る新しいカナダ鉄道の技師に任命されました。彼は、大陸東岸のモントリオールから中部の大平原を通り、ロッキー山脈を越え、太平洋のバラード入江に至るルートでの鉄道建設を提案します。
その後、2本の大陸横断鉄道が竣工しますが、完全には一致していないものの、フレミングの計画も参考にされました。彼は引退後も鉄道コンサルタントとして鉄道に携わり続けました。カナダ政府は、彼に1877年と1897年に勲章を授与しました。スコットランド出身の彼は、ノヴァスコシア(Nova Scotia)つまり「新スコットランド」のハリファックスで生涯を終えました。
さて、カナダ最高の鉄道技師だったフレミングですが、1876年に、列車に乗り遅れるという失敗をします。広い大陸を横断する際、その土地がどの時間帯に属するかを知るのは、当時は容易ではありませんでした。なぜなら、ほとんどの人々は、太陽の位置を頼りに時間を決めていたからです。つまり、一定以上の距離を東西に移動すると、その土地の正確な時刻を把握することが難しくなってしまうのです。これは大変不便である、と痛感した彼は、世界規模での時間設定制度を開発する作業に取りかかります。世界を24の
時間帯に分け、それぞれ経度15度で1時間とすることを提案しました。これが世界で採用され、現在の時間帯(タイムゾーン)になっているのです。しっかり者が、うっかりミスをしたことで、世界的なイノベーションが誕生したというお話でした。
ピンクシャツ
2012年、国連は、5月4日を「いじめ反対の日」と定めました。いじめは世界の多くの国で問題になっています。カナダでもいじめのニュースがしばしば報じられます。必ずしも5月ではなく、国によって指定されるいじめ反対の日は様々です。いじめ反対の日は、いじめに反対する人たちがピンクのシャツを着ることから、ピンクシャツデー(Pink Shirt Day)とも言われます。このピンクシャツを着る運動は、カナダで始まりました。
2007年、ノバスコシア州に住むチャック(Chuck McNeill)という男子中学生が、9月の新学期当日、ピンクのシャツを着ていたという理由でいじめを受けた事案がありました。これを知った2人の生徒、デビッド(David Shepherd)とトラヴィス(Travis Price)は、いじめに反対する運動として、ピンクのシャツを50枚購入し、賛同者に配布しました。この運動が地域に広がり、ノバスコシア州の首相が、9月の第2木曜日を「いじめに立ち向かう日(Stand UP Against Bullying Day)」と宣言しました。
その翌年の2008年、ブリティッシュコロンビア州の首相は、2月27日を同州のいじめ反対の日と宣言しました。現在、毎年2月の最終水曜日が、カナダのいじめ反対の日になっています。
日本もカナダにならい、2月最終水曜日をいじめ反対の日に指定していて、ピンクシャツデーのイベントも行われています。
ゴミ袋
ゴミ袋なんて、発明というより、誰でも考え付くのではないか、と思う方もいるでしょう。ゴミ袋は、20世紀なかば、ほほ同時に、3人のカナダ人によって、それぞれ発明されました。ゴミ袋が世に出回る以前、北米の人々は、ゴミは側溝や、ときには道路に捨てていました。当然、ネズミやゴキブリが大量発生し、衛生上の問題になっていました。1950年代には都市部でごみの管理をするために、ゴミ箱の設置とゴミ収集制度が導入されました。しかし、人々は、ゴミ箱の中に直接ゴミを捨てていたので、衛生上の問題は未解決なままでした。
発明家のワシリク(Harry Wasylyk)が、この問題を何とかしようと考えて、プラスティック・ポリエチレンの発明に取り組み始め、自宅のキッチンでポリエチレン袋を作りました。ワシリクが緑色のゴミ袋を発明したのとほぼ時を同じくして、プロンプ(Frank Plomp)とハンセン(Larry Hansen)という二人の発明家も、それぞれ同じ発明をしました。これら3つの発明品の中でも、ワシリクの発明品がより人気が高かったので、それが商品化されました。1960年代後半から、ゴミ袋が一般に出回るようになりました。
(つづく)